それを見つけたのはほんの偶然。
たった1日だけ取れた休暇、彼女の方は休みが取れず僕は一人なんとなく地下都市の部屋へと帰って来ていた。
別に何か用があったわけじゃない。
ただ、本当になんとなく気が向いて帰って来ただけだった。
僕は一応部屋中の埃をはらい簡単に掃除をしていた。
そしてカウンターの隅に隠されるように置かれたていた小さな箱には、最初気がつきもしなかった。
あらたかの片づけを終えて、お茶でも飲もうと立ち上がった僕の指先にそれが触れて、初めて気がついたくらいだった。
・・・・緑色の小さな古びた箱。
迂闊にもそれを落としてしまい、カランと小さな音を立てて床に転がったそれを僕は慌てて拾い上げた。
「なんだろう?」
見覚えがあるような、ないような、その箱をなにげなく手のひらに乗せたまま、僕はそっと蓋を開いた。
一瞬、僕は目を見開き動きを止めてしまった。
・・・そこに収められていたのは、あまりにも懐かしい腕時計だったのだ。
そう・・・、それは父のお気に入りの腕時計だった。
この思いがけない再会に思わず胸に痛みが走る。
僕は、この時計が大好きで父の腕にはめられていたこの時計を、見せて見せてとしつこい位にねだっていたものだった。
それでも、この時計は父にとっても大事なものだったらしく、幼かった僕を膝に抱いたまま見せてはくれたけど決して触らせてはくれなかった。
それでも、幼かった僕は父の腕にしがみつきながら、まあるいガラスの向こうで大きな文字盤の上を2本の針が律儀に動く様子をいつまでも飽きずに、その時計を見つめていたものだった。
そして、そんな僕の無邪気な姿を母はやさしく笑いながら見守っていてくれたのだ。
・・・けれども今は、それは律儀に動いていたその針も動きも既に止め、時を刻むことを放棄してしまっていた。
僕はじっと腕時計を見つめ続けた。
けれど不思議でしょうがない。この腕時計がどうしてこの場所にあるのだろうか?
これは父が、兄が宇宙戦士訓練学校を卒業した時に記念に兄に贈ったはずだった。
僕は自分も欲しくてたまらなかったのに、父が兄にそれを送ったことが面白くなくて、しばらくの間不機嫌になり
両親を随分てこずらせた覚えがあった。そして兄が嬉しそうに贈られた時計をはめて満足気に笑っていた顔だって覚えていた。
僕はそっと取り上げた時計の文字盤をなでた。
この時計を腕にしていた二人の顔と優しかった母の顔がはっきりと脳裏に浮かぶ。
・・・・・今はもう、その父も母も兄もいないけれど・・。
この時計は、これまでに何を見てきたのだろう? とふと僕は思った。
無残な最期を遂げざるをえなかった父と母の生き様と、生き急いだような兄の生き様を、きっとつぶさに見てきたのではないのだろうか・・・。
時の刻みを止めた腕時計を見つめながら、何故か涙があふれてきてしょうがなかった。
僕の記憶に鮮やかに残る、にこやかな顔で笑う家族の顔が目の前に浮かんできて、それを振り払うことが今の僕には出来なかった。
この時計が動きを止めたのは、兄が自爆を決意しその命を散らした瞬間だったかもしれない、なんてろくでもない考えが頭の中をよぎってしょうがないのだ。
そんな馬鹿なことがあるはずないのに・・・。
僕は誰もこの部屋にいないのを感謝しながら、いつまでもこの時計を握り締めながら静かに涙を流していた。
こんな残酷な別れ方をしなければいけなかった僕の最愛の家族達への、いいようもない哀しみに耐えるために・・・・。
結局、僕はその腕時計を部屋に残していく気になれずに官舎へと携えてきてしまった。
時を刻むことをやめてしまったこの時計、けれど僕の知らない僕の家族達の時間を沢山知っている証人だ。
そう思うと僕は置いてくることは出来なくなってしまったのだ。
・・・・部屋に戻ると彼女はまだ戻ってきてはいなかった。
もう夜8時を超えているというのに、相変わらず忙しいのだろうか。
僕は部屋に明かりもつけず、ソファに身を沈めたまま開け放した窓からの風に揺れるレースカーテン越しに輝く月の姿を眺めた。
今日は薄雲がうっすらとかかるくらいで、明るく輝く月の姿をくっきりと目にすることが出来たのだ。
その月光の中で薄暗いはずの部屋の中がぼんやりと照らされていた。
そして、テーブルの上には小箱に入れたままの思い出の姿。
この腕時計がイスカンダルから帰ってきた兄の腕にはめられていたのを、僕は何度も目にしていた。
つまり、これはイスカンダルでも兄さんとスターシアさん、そして二人の間に誕生したサーシャの3人の一番幸せだった時間をも刻み続け、そんな3人の姿を傍らで見守ってきたのだろう。
それは、とてもわずかな時間でしかなかったけれど、あの家族にとってこの世で一番穏やかで幸せな時間だったのではないだろうか。
開け放した窓から涼やかな風が吹き込み、白いレースのカーテンの端を揺らした。
ユキの手で飾られた花達が窓辺で風に揺れ、ハラハラと音もなく白い花びらが舞い落ちていく。
風で吹き上がったカーテンの陰から、まあるい月の姿が冴え冴えと輝いている。
何故だか、僕の目にはその輝く月の姿に亡くしてしまった家族達の姿が重なって映った。
相変わらず、頑固な顔をしているけど、どことなく嬉しそうな父の顔。
僕にいつも向けていてくれたままの見慣れた優しい笑顔の母の顔
ちょっと面白そうに悪戯っぽい顔をして笑っている兄の顔。
兄に寄り添い、満ち足りて穏やかな笑顔のスターシアさんの顔
そして・・・、何よりもその4人に囲まれて弾けるような笑顔を見せているサーシャの顔が見えた・・・。僕はそれが一番嬉しいよ。
「みんな・・・巡り会えたんだね。」
月の光を浴びながら、僕はポツリと呟いた。
なぜそう思えたのかわからないけど、今の僕には自然にそう受け入れられた。
・ ・・これまでの自分の行いが許されるとは決して思わない。
けれど離れ離れになって壮烈な最後を遂げなくてはならなかった僕の家族達が今は巡り会えたのだと思えたのは心の底から嬉しかったし、救われたような気持ちにもなれた。
不思議な色に輝く月光に照らされるままの腕時計と天上高く輝く気高い月の姿を僕は飽くことなく見上げ続けていた。
まるですべての時間が止まったようなそんな空間だった・・・。
「古代君、古代君ってば!」
いきなり頭上から声を掛けられ、僕は一瞬で現実に引き戻された。
「あれ? いつのまに帰ってたんだ?」
驚いて、尋ねる僕の前には心配気なユキの顔が一杯に広がっていた。
「いつのまにじゃないわ。ちゃんとインターホンだって押したし、声だってかけたのよ。でも、あなた身じろぎもしないで外眺めてるんだもの・・・。」
そっか、そんなに僕ボケていたのか、悪いことしちゃったな。
「何かあったの?」
心配と顔一杯に書いたユキが僕の隣にすわりこんで、僕を覗き込む。
この間の入院のことがあるから、余計に心配なんだろうな。
だけど、心配してくれている彼女には全くもって申し訳ないのだけれど、僕は大丈夫なんだよ。
落ち込んでいるとか、悲しいとかマイナスの感情は今の僕にはなかった。
ただ昔のことを思い出して、そしてイスカンダルでの3人の生活を想像してなんだか心の芯が切なくなっていただけだった。
僕はただ黙ってテーブルの上に乗せていた箱を取り上げ、中身を手に取った。
自分の質問に何も答えないで、ただ黙って箱を手にした僕を不思議そうに見ていた彼女は、僕が取り出した腕時計を見てハッと目を見開いた。
「・・・覚えてるだろ。」
静かに、そして穏やかに僕は話しかけた。
彼女がコクリと頷いた。
「今日ね、地下都市の部屋に帰ってきたんだ。
別に用があったわけじゃないんだけど、本当になんとなくね。
そうしたら、これを偶然見つけたんだ。」
僕はそっと文字盤を撫ぜ続けながら言葉を続ける。
「不思議だよね。これ兄さんが肌身離さずに大事にしていた父さんの形見の時計なんだ。」
形見という言葉に彼女は肩を揺らした。
・ ・・・心配性だなぁ、今の僕は不・ 思議なくらい穏やかな気持ちなのに。
「ユキだって兄さんが仕事中に、この時計はめていたのを覚えているだろう。
でもね、何故かこれ地下都市の部屋に置いてあったんだ。
僕は、てっきり兄さんと一緒に旅立ったんだと思っていたんだけどね。」
「・・・守さん、わざとお部屋に置いて行ったのね。」
僕は頷いた。
「こんなに大事な腕時計を忘れるわけがないからね。
勿論、兄さんだって、あんなことになるなんて思ってもなかったと思う。
だけど自分の病気のことがあったから、ひょっとしたら形見のつもりで置いて行ったのかも知れない。」
僕の推測にユキは頭をたれ目を伏せてしまった。
そんな彼女を横目で見ながら、僕は立ち上がり勢いよくカーテンを端に寄せた。
全開に開け放した窓から少し強めの風が部屋の中を訪れ、色んなものに小さないたずらを仕掛けていく。
月の光を遮るものが無くなった部屋の中は、不思議な青い光に冴え冴えと照らされていた。
僕は窓辺に寄りかかったまま言葉を繋げる。
「僕は子供の頃から、この時計が大好きだったんだよ。
以前は父さんのものだったんだけど、それを父さんが兄さんに譲ってさ。
その時、僕はそれが悔しくって散々両親に文句言って拗ねまくったんだよ。」
その時の両親の本当に困った顔を脳裏に思い出した僕は一人でくすくすと笑ってしまった。
昔の思い出を穏やかに口にしている、そんな僕の様子に安心できたのか、それまでこわばった顔をしていた彼女の表情が緩んだ。
「つまり古代君の憧れの時計っていうことなのね。」
「うん、それにこの時計ってさ、僕の知らない父さんや母さん、それにイスカンダルで暮らしていた兄さん、スターシアさん、それに・・・サーシャのことも知っているんだよ。」
窓辺から離れて僕は手の中の腕時計を、座ったままの彼女の手をとりその白くて暖かい手の中に握らせた。
そのまま彼女の前に膝立ちして座りながら、
「こんな素敵な時計って、なかなかないと思わないかい。」
彼女の瞳をしっかり見つめながら、僕は微笑んだ。
そんな僕の視線をまっすぐに受けてとめて、彼女も穏やかな微笑みを浮かべて頷く。
そして、彼女はゆっくりと時計を大事そうに両手で包み込み、その手に頬を寄せて目を閉じた。
「いろんな思い出が詰まっていて、この時計って何でも知っているのね。なんて素敵なのかしら・・・。」
長い時間、瞳を開けることもせず彼女はじっと僕の隣で、まるで時計と話をするように佇み僕はそんな彼女を抱き締めた。
大切な思い出を誰かに話せるというのは、なんて幸せなことなんだろうという思いを噛み締めながら・・・。
「この時計どうするの」
しばらく黙っていた彼女が静かに僕に尋ねる。
「どうって・・、ここに置いておくつもりだけど。」
僕の返答に、彼女はバッと僕に振り返った。
「そうじゃなくって、修理しないの?って聞いたのよ。」
「・・・こんなに古い時計を修理できる人間なんて今時いやしないよ。」
僕は彼女の勢いに押されつつ答えた。
実際かなり年代物の時計だ、とてもじゃないけど修理できる人間がいるとは思えない。
ただ、僕としては思い出の詰まったこの腕時計を僕の側に置いておければそれだけで良かったのだ。
だけどユキの意見は違ったようだ。実に前向きな彼女らしいけど。
「やってみなきゃわからないじゃない。」
「そりゃそうだけど、僕は明日出航なんだぜ、探す暇なんてないよ。」
噛み付かんばかりの彼女の勢いに押されながら、僕は言い訳をする。
それでも彼女は引かなかった。
「私が探すわ、それで修理できるようならしてもらうの。いいでしょう。古代君。」
まるで切羽詰ったような瞳をしている彼女に驚きつつ、僕は頷いた。
これで駄目だなんて言ったら、どうなることやら、と言うような迫力が彼女にはあった。
「それはいいけど・・・、これ以上壊さないのが絶対条件だからな。
これはこの世に1つしかない大切な思い出の品だ。
だから、これ以上傷つくのは絶対に許さないからな。」
彼女の気迫に押されてしまったけれど、一応釘をしっかり刺しておかなければいけないと僕はそれを伝えた。
そして彼女は素直に同意した。
「・・・わかっているわ。私だって、古代君と同じ気持ちだもの。」
彼女は、そっと文字盤を数回撫ぜて静かに腕時計を小箱へと戻した。
そして、視線を落としたままにポツリと
「――― これからは私達の時間を刻んで欲しいの。」
ささやいた。
「この時計って古代君のご両親を見守って、そしてイスカンダルでの守さん達をも見守ってきてくれたんですもの、今度は古代君と私を見守ってもらいたいの。」
思いがけない言葉に彼女の顔を覗き込んだ僕が目にしたものは、うつむいた彼女の瞳から涙のしずくが今にも落ちそうな光景だった。
僕はしっかりとそんな彼女を抱き締め、彼女と同じことを願っていた。
「そうだね。本当にそうしてほしいね。」
今は途切れてしまっている時の刻みだけれど、叶うのならばもう一度時を刻み始めて欲しかった。
・・・・時間をさかのぼることが出来ないのなら。
流れる時間を人は辿ることしか出来ないのなら、僕は沢山の人たちが残してくれた思い出達を心の中で暖めながら、その流れを僕とユキの二人で歩いていこうと思う。
なにがあるのなんてわからないけれど、二人で歩きたい。
僕の両親がそうして歩いただろうその道を、そして兄とスターシアさんが送っただろう幸せだった時間を目標として、そしてなによりも、第二の故郷のために命を投げしてしまった僕の大切な姪っ子のために恥じない生き方がしたい。
だから、僕は逃げ出してはいけない。
これから先、僕達になにが出来るのがわからないけれど。
ただ一つの確かな望み・・・・僕が守るべき彼女を幸せにしてあげたい。
これだけは・・・・譲れない僕の希望だ。
翌日、僕は宇宙へと旅だった。
彼女に大事な腕時計を託したまま、直るなんて思っていないけれど、やっぱり心の半分は直って欲しいな、なんて心の矛盾を抱いていたままの出航だった。
3週間ぶりの帰還。
今回の任務は何も問題は起こらず帰還することが出来た。
極秘任務だったので、電話は掛けられなくてメールでの簡単な近況報告ばかりになってしまったけど、その間彼女からは一言も腕時計の話は出てこなかった。
1度はこちらから問い合わせしようかとも思ったけど、やっぱりやめてしまった。
ユキが一生懸命に探していたら、彼女を傷つけてしまうかもしれないと思ったから・・・。
帰還前日になっても、何も連絡はなかった。
――――これは修理は無理だったということなのだろう。
あんなことを頼んでユキに悪いことしちゃったかな。
彼女の落胆した表情を見るのは辛いな。
そう思うと、いつもとはちがいグスグスと荷物をまとめてしまった。
宇宙港ロビーじゃ、きっと彼女が待っていてくれるんだろうけど――― 。
僕はなんとも形容しがたい気持ちを抱えながら、いつもなら一気に駆け下りるタラップをノロノロと降りて下艦し、報告を済ませるとロビーへと重い足を進めた。
到着時間からかなり時間が経っていたので到着ロビーは既に閑散としていた。
往生際の悪い僕は、ひょっとしたらユキは今日迎えに来てないんじゃないかと淡い期待を抱いていたのだけれど。
( こんなこと彼女にばれたら、張り手、間違いなしだろうな。)儚い僕の期待を裏切って彼女はロビー中央に飾られているオブジェの傍で、満円の笑顔で僕に向かって手を大きく振っていた。
僕はポーカーフェイスを装いながら、彼女へ近ずいていった。
すると、まるでオブジェの影に隠れるように立っていた男性の姿が現われた。
「・・・さなださん?」
真田さんがどうしてこんな所に?
帰還の挨拶なんてすっ飛ばしてキョトンと二人を交互に見ている僕に向かって、二人は意味深な笑いを向けてきた。
「・・・なんだか気味悪いなぁ・・・。」
思わず素直な感想が口から飛び出してしまって、僕は慌てて口を押さえた。
「久しぶりの再会の挨拶がそれじゃ、大問題だな。古代。」
「す、すみません、けど忙しい真田さんが僕を出迎えてくれるなんて、なんとなく・・・・」
嫌な予感がするなんて言ったら本当に殴られそうで僕は語尾を誤魔化して笑った。
それでも顔に出ていたのだろうか、僕の頭を軽くこずきながら真田さんは苦笑を浮かべた。
そして手にしていた鞄の中から見慣れた緑色の小箱を取り出し、無言で僕に差し出した。
えっと驚いた僕はユキの顔を見やる。
彼女は楽しそうに笑顔を浮かべ僕に小箱を受け取るように促した。
僕は受け取って恐る恐る小箱を開いてみる。
僕の顔に喜色の色が走ったのが自分でもわかった。
航海に出る前は、時を刻むことをやめてしまっていた秒針が今は昔の記憶通りに律儀に時を刻んでいた。
「・・・・・うごいている・・・。」
僕は目を見張ったまま、カチカチと時を刻んでいる時計から目を離すことが出来なかった。
つったまま身じろぎもしないで、小箱の中を凝視している僕を二人は満足げに見ていた。
・・・胸が締め付けられる感覚がする。
込み上げてきた熱いものを僕は力ずくで押さえ込んだ。
そうでもしないと勝手に涙が出てきてしまいそうだった。
「・・・真田さんが直してくださったんですか。」
「ああ。」
「ありがとうございます。お忙しいのに・・・・。」
嬉しすぎて掠れた声しかでてこない。
「気にするな、その時計は俺も覚えているし、この際だからバラすとな修理したのは今回が始めてじゃないんだ。」
意外な言葉に僕は、はじけるように真田さんの顔を見つめた。
「いつだったかは忘れたがな、守の奴こいつを壊しちまったことがあったんだ、それで俺のところに血相変えて飛び込んできやがった。」
その時の情景を思い出しているのだろう真田さんの顔には、穏やかな苦笑が浮かんでいた。
「俺は時計屋じゃない、と散々文句を言ったんだが、守は聞く耳を持つ奴じゃなかったからな、結局押し付けられて修理させられたんだ。」
「・・・兄貴の奴、これを壊したんですか。」
「ああ、だが俺の所に飛び込んできた奴の顔は傑作だったよ。
とても大事なものなんだ、何とかこいつを助けてくれってな、
それにしても奴のあんな情けない顔を拝んだのは、あの時だけだったなぁ。」
クスクス笑いを交えながら話す真田さんの話を僕はじっと聞いていた。
「・・・・・」
「守はこの時計をそれは大事にしていた。それを俺は知っている。
そして、この腕時計は守の人生をすぐ傍で見つめてきた。
何よりも、それは俺の大事な思い出にも繋がってくれているんだ。」
僕は真田さんの顔を見つめた。何か言おうと思うのだか、言葉が出てこなかった。
そして静かに穏やかな顔で彼は続けた。
「この時計はサーシャのこともよく知っている。
イスカンダルで生まれて両親に守られ、二人の限りない愛情にくるまれていた時代のサーシャの姿をだ。だから俺もこの時計は動き続けて、時を刻み続けて欲しいと思う。」
そう言った真田さんの瞳は、遥かな遠い所を見ていた。
傍にいる僕とユキは、そんな真田さんに掛ける言葉が見つからなかった。
たった1年でも我が子として育てた愛らしい存在、そしてその存在を目の前で死なせてしまった罪の意識。
この人はいつまでもこの罪を背負う気でいるのだろう。僕と同じように・・・。
ふとそんな考えが頭をよぎった時、真田さんが僕の肩をガッシリと掴んだ。
「だがな、古代。俺は思い出に縛り付けられて生きるつもりはないぞ。
サーシャは俺の大事な娘だ。これは一生変わらない。
けどな、サーシャを大事に思うばかりに、サーシャが嘆くような人生だけは俺は送るつもりはない。
・・・これはお前も肝に銘じとけ。いいな、古代。」
肩先に置かれた力強い腕から伝わる悲しいくらい潔い真田さんの決意。
僕は何も言えなかったけれど、しっかりと頷いた。
それを確認すると、ホッとした顔で彼は僕達2人に片手を上げながら彼は去って行った。
とても確かな足取りで・・・・。
ロビーに取り残された僕達は、自然に顔を見合わせた。
なんとも形容しがたい暖かな気持ちに包まれているようだった。
ずっと黙って僕と真田さんのやり取りを見守っていた彼女は、僕の手に握られていた小箱を静かに取り上げた。
そして静かに開き、時計を手に取る。
そして無言のまま僕の左手を取ると、今僕がはめている腕時計を音もなく取り外した。
そして、再び時を取り戻した時計を僕の腕に静かにはめなおしてくれた。
僕はじっとそんな彼女を見詰めていただけだった。
なんだか声を掛けるのもためらわれるくらい彼女の表情が厳粛なものだったからだ。
・・・・・・・・
カチリと軽い音がして、腕時計は僕の腕にぴったりとはまる。
父と兄と僕と、大げさかも知れないが古代の家の血脈が繋がったような気がした。
そっと僕の左腕に彼女の腕を絡めてきたユキに、
「・・・ユキ、ありがとう。」
面と向かって礼が言えない僕はボソッと呟く、そんな情けない僕に彼女はクスクス笑うだけだった。
彼女は僕の左肩に額を押し付けながら、
「この腕時計に、これからの私達の人生と真田さんの人生を見続けてもらいましょうね。」
「ああ、色んなことがあるだろうけど、これからをしっかりと見届けてもらおうな。」
絡めていたユキの右手をしっかりと握り締めながら、僕はきっとどこからか見守ってくれているに違いない家族達へ向かって微笑みかけた。
そんな僕の左腕からは再び時を刻みだした音が律儀に響いていた。
これからまた僕達の人生がはじまる・・・。
ENDAnother World INDEX