5月2日(火)アメリカに住む伯父さん

8時,弘伯父さんが再び車で迎えに来てくださって,伯父さんの家を訪ねる.玄関横に咲くブラシフラワーの花の赤い色が印象的だった.弘伯父さんは78歳.アメリカで生まれ,4歳か5歳で一旦帰国,日本で育てられた後,18歳で親戚を頼って単身,アメリカに渡って生活を切り開き,戦争中はキャンプに収容されながらも何とか生き抜いて一家を構え,奥さんが亡くなられた後は,ガーデナーの仕事を続けながら一人暮らしをされている.裏の菜園にはトマト,ナス,キュウリ,巨峰,柿が植えてあり,家の中には仏壇も祭ってあって,奥さんとお母さんの写真が飾られていた.
ガレージの奥,ちょうどキッチンの裏手になる道具置き場に挟まれた洗濯機で,グランドキャニオンの埃だらけのズボンとシャツを洗濯させてもらってから,伯父さんの車で出かける.「あなたたちには珍しいと思うから,ライスフィールドを見せてあげよう」と案内してくださる.I-5を北へ向かうと一面に広がる緑の畑.アメリカをレンタカーで走るといつも見かけるこの広い光景,これが米だったのか.小麦か牧草地だとばかり思っていた.日本の田んぼとは全く印象が異なる.
「オールドサクラメントのカリフォルニア鉄道博物館へ行きたい」と言うと,伯父さんは「永年サクラメントに住んでいるけれども,そんな所へは行ったことが無い」と言われた.みんなそんなものなのだろう.鉄道博物館は歴史博物館と並んでいた.「西部開拓時代,馬車で進む道が大きな山脈に遮られた時,当時の**市長が大きな決断をし,**技師が苦労してトンネルを掘って鉄道を通しました」という映画の後,そのスクリーンが開かれ,そちらに向かって降りていくと,映画に出てきた巨大な列車がずらっと並んでいた.さすが大きくて,とてつもなく広い.鉄道マニアでなくても,わくわくするような所だった.昼は日本料理店で7ピースのにぎりずしを食べる.その後,メンバーズショップでバナナとオレンジを箱一杯買ってもらった.

丹原さん夫婦のお宅へおじゃまする.ご主人は82歳,アメリカで生まれ,4歳から日本の親戚の家で育てられ,14歳でお父さんの仕事を手伝うためにアメリカに帰ってこられた.小母さんは76歳,アメリカ生まれで,妹は日本の親戚に育てられ,そのまま日本で暮らしているが,小母さんはずっとアメリカで育てられた.日本人学校へ通ったそうで,とても自然な日本語を話される.どの部屋も調度類はすべて日本のもの―日本刀,色紙,人形―で埋め尽くされていた.大きな紋が壁に飾ってある.彼らはジャパニーズアメリカンであり,こんな形で強くIdentityを意識しながらアメリカで暮らしてこられたのだ.
なつ子曰く「私たちの文化の第一は食生活であり,第二は言葉である」.一世,二世と味の好みは受け継がれるが,言語はやがて忘れ去られ,三世ともなると親の世代とのギャップが大きくなり,意思の疎通が難しくなり,価値観もずれていくことが多い.

小母さんはご主人の好みに合わせて日本的な料理を作られ,たくあん,白菜漬,奈良漬など,アメリカの材料を使ったアメリカ製の漬物は絶品だった.全く日本のたくあんと変わらない味がする.日常会話は英語と日本語が半々.突然,anywayとかyou knowから英語に変わる不思議な状況だ.お姑さんからは「お返し」など日本のしきたりを厳しく躾けられたそうで,お嫁さんには何も言わないことにしているとのこと.警察官の息子さんはバイリンガルであることが仕事の上で役に立っているとか.
弘伯父さんの方は,奥さんが亡くなられた後息子さん達とあまり行き来はされていないようだが,文化のギャップなのだろうか.息子の世話にはならないつもりだと言われたが,日本でも良く似た状況はあるように思われる.一世はアメリカンドリームを達成し,二世は自分の持つ権利を当然のように享受するということなのだろうか.しかし,いずれにしても,伯父さん達はレノに賭博に行き,サンフランシスコのバスケットボールチームを拳を握り締めて応援する気のいいアメリカ人なのだ.弘伯父さんの息子さんは自分のルーツをどのように感じているのだろうか.聞いてみたい気もする.
5月4日(木)ヨセミテ国立公園

8時出発.ヨセミテ公園の中心地に戻って,インスピレーショントレイルを行く.アンセルアダムスの写真に見るような対岸の山と滝を見ながら,静かな山道をどんどん登っていく.目線が高くなるに従って対岸の景色が少しずつ違って見える.木々の間を鳥の鳴き声がさわやかに響き渡る.芽吹いて間もない木の足元には去年落ちた大きな葉がそのまま積もっている.白い花をいっぱいにつけた潅木の小道,いろいろな種類の木々の間を行く.
頂上と思われるあたりで,NY州から来た男女4人連れと出合った.大学の教授で,プロジェクトの調査のために全米を周っているそうだ.今回も1年間家を空けての旅行だという.何か楽しそうでいい仕事だね.

最高峰からもう一度対岸の景色を見渡しながらオレンジを食べ,来た道を引き返す.登ってきた道はそのまま山を越えて隣の山まで続いていそうだった.同じ道も下ると又,違った風に感じられる.もう鳥の声は聞こえなかった.
ヨセミテ公園はとても広い.海抜は4000から5000フィートとある.静かでぶらぶら歩き回りたくなるような場所がそこかしこにあり,高い絶壁のような岩に囲まれていて,草叢や川が何か落ち着いた空間を作り出している.
一方で,雪解けの水が大きな滝から水しぶきをあげて流れ落ち,踊るように川を下っているところもあった.もう5月だけれど,公園内の高い山はまだ雪が残っていて,グレイシャーポイントへ通じる道は閉鎖になっていた.公園を出て,もう少し北へ行ってから,ネバダ州の方へ出る道を探すことにする.
5月3日(水)クマに注意

朝8時出発,伯父さんの地図のおかげで,迷うことも遠回りすることもなく,2時に国立公園ヨセミテビレッジに到着した.公園の中心にあるホテルは一杯だったが,南ゲート近くのホテルには空きがあるらしい.さらに2時間近く公園内を車で走る.こんなにも広い地域が国立公園に確保されているのだ.南ゲート付近にはセコイアの森,マリポサグローブがある.駐車場に車を置いて,リュック1つでトレイルを歩き始めた.圧倒されるばかりの大きくて高い高い樹が森の奥へと私たちをいざなう.

赤きのこ
最大級のグリズリージャイアントは高さ61m樹齢2700年という大木.そんな木がそこここに立っている.ずい分,林の小道を歩いて,差し込む陽の光が次第に傾いてきた.標識は立っているが全体の地図を認識していないので,元へ戻る近道がわからず,林の中で道に迷って日が暮れてしまうのではないかと思った時,一頭の鹿に出会った.茂みの中から突然現れてぐるりと一回りした後,静かに歩き去っていった.背中の毛が夕日に輝いて,とても美しい光景だった.
夕方8時にホテル着.フロントで,くまに襲われてへこんだ車の写真を見せられて,車の中には食べ物を置いておかないようにと言われた.伯父さんに買ってもらったオレンジとバナナの箱を担いで3階の部屋に上がる.「熊に注意するようにとの説明を確かに受けました」という書類にサインまでさせられたのだから,従わないわけにはいかない.きれいな部屋だったが,30ドルばかりをけちったおかげで,バストイレ別の部屋には洗面台さえなく,とても不便だった.