父の思い出―俳句とともに

岡山市花畑.父の生家である.広い屋敷に柿の木が3,4本.浅沼のお母さんはお琴を教えていた.父は学校から帰るとすぐ上の姉と2人でお弟子さんの番号札を渡していたという.「浅沼のお母さんの出は由緒ある武士の家でお嫁に来た時には刀を持ってきた」とか「浅沼のお母さんはやさしい人だった」とか,お母さんの話はいろいろ聞いたけれどもお父さんの話は1度も聞いた記憶がない.

部屋数の多き生家や豆を撒く
甚平着て無口の父に変りなし
冷奴父の齢をいつか越え

小さい頃に食べた美味しいものの記憶は一生忘れない.つるし柿,それも渋が抜けたか抜けないかのまだ柔らかいうちが1番.「明日は3列目の下から2つめのあの赤いのがちょうどいい具合に熟れると思うんや」と父は嬉しそうに言った.

起きぬけを渋抜の柿ためし喰ひ
熟柿採るはさみ具合の馴れてきし
留守番の一人干し柿剥きにけり

父は末っ子である.姉が5人続いた後もう1人男の子と,待ち望まれて生まれた.「みんなそりゃあ大喜びしたのよ」と3つ上の金子叔母さんは何度も言った.父には孫が9人いる.末娘のところの,南を除いてあとはみんな女の子である.1983年11月,長男のところに3人目の子供,父にとって7人目の孫が生まれた.名前は直子.

7人目の孫も女や寒椿

初孫,なつ子はおじいちゃんによく公園に連れて行ってもらった.おじいちゃんはなつ子をブランコに乗せてうしろから押してくれた.何回も何回も押してくれた.「おじいちゃんはもう手がだるくなったよ」と言いながら押してくれた.

辷り台ブランコみんな花の下

3番目の孫,いく子は小さい時から虫が大好きだった.みみずをつまみだし,とかげの背中をなでてやる.植木鉢や石の下からまるむしを三輪車のかごいっぱいに収集する.いく子に贈ると裏書きして父は短冊を書いてくれた.

髪切虫(かみきり)に指をかます子見ている子

1980年3月,6番目の孫,麻衣子誕生.末っ子の所にも孫ができたと父はたいそう喜んだ.妹は毎週のように子供を連れて園田の家に泊まりに行き,麻衣子が寝ている間は父と母と妹夫婦の4人でよく麻雀の卓を囲んでいた.

春の陽は眩しみどり児退院す
孫歩め歩めとはやす小春かな

父は家族をとても大切にした.子供たちが来,孫たちが集まるのをとても喜んで,手品をしてみせたりあみだのプレゼントを用意したりして皆を喜ばせた.

息子が来婿が来おでん鍋たぎり
去年今年電話が来るよ子や孫や
子等孫等集まる日なり福寿草
がやがやと摘みし土筆の袴取る
土筆籠白き小さき花まじり
口々に土産話や桜餅
娘達おしやべり尽きず苺皿
子供の目集まる手許西瓜切る
花火屑孫等帰りし朝を掃く

孫たちが小さい頃は夏になると毎年のように 3家族,4家族で海水浴に行った.母は水着を着て海に入ったが父は泳ぐのは苦手であった.

民宿に簾(すだれ)を巻いて朝餉かな
風通しよき民宿や昼寝せん
籐寝椅子海見ゆ方に向を変へ

父が俳句を詠んでいるのは知っていた.しかし,遺品を整理していてこんなに沢山の俳句が出てきたのを見て私達は驚いた.雑誌にも投稿している.でも今までに,ほら,雑誌に載ったよと見せられたことは1度もない.出てきた俳句を読みながら,あ,これはあの花だ,あそこの場所だ,あの時のことだとすぐに思い当たった.花吹雪とは桜吹雪のことであろう.しかしこの句を読むと,こでまりが咲き,こごめばなが舞う父の家の春の庭の情景がありありと目に浮かぶ.

自転車の疾駆を追うて花吹雪
山茱萸(さんしゅゆ)の黄より始まる庭の春
山朱萸が咲いてその辺が明るくて

佗助(わびすけ)は父が自慢していた椿である.佗助なんてまるで人の名前のようで何だか変,と得意そうな父の横顔を見ながら思っていた.

佗助よと話し合いつつ人来たる
侘助の咲きて客待つ心かな

服部の家が伊丹空港の飛行機の音でうるさいからと園田に引っ越したのは1983年のことである.

転宅のままの荷物や日短か

園田の家に越して来てから近くの農業公園に度々出かけた.春,まだ寒い頃の梅にはじまり,牡丹,花菖蒲,薔薇,こすもす,と続く.猪名川のほとりにある公園で,年々場所が広げられ,花株も増え,手入れもよく行き届いた公園である.

仕合せな顔同士行く牡丹園
牡丹園おでん屋台も出てゐたり
白牡丹朝のかがやき如何ならん
蕋(しべ)の黄のみだれを見せて白牡丹
夫々にいかめしき名の花菖蒲
風渡るさまあきらかに菖蒲園
花言葉知らずコスモス揺れ揺れて

猪名川と共に園田を囲むように流れる藻川には冬になると鴨がやってきた.その年の気候のせいか環境の変化のせいか,沢山の鴨がやってくる年もあった.

次々に飛立つ鴨を見てあかず
ぐるぐると廻り餌待つ鴨の群

父は健康には人1倍気をつけていた.煙草は吸わないしお酒も飲まない.歩くのはとても身体にいいと和光会の行事や歩こう会にもよく参加していた.

年寄りの歩こう会や山笑う

あちこちの梅見にもよく出かけていた.大阪城の梅林は手近でなかなかいい所だ.春の訪れは毎年父から聞かされていたように思う.

探梅の再び同じ径に出し
今年また梅見ついでの宮詣
お百度を踏み終へて梅見上げおり
突風に名札舞ふなる夫婦梅
梅ぬくしベンチ何れも塞りて
紅梅や娘と母らしき話しぶり
寒牡丹先づは熱き茶頂いて
句会あるらしき気配や寒牡丹
ひとり来てひとりで帰る花疲れ
行き交ひはゆづり合ひたり花の径
子等の画をつぎつぎ覗き花の下

父は本を読むのが好きだった.推理小説が好きだった.その中でも1番は松本清張だった.0の焦点,あれはいいなあと力を込めて薦めてくれるので私も読んだ.子供の頃のことである.山崎豊子や有吉佐和子もよく読んでいたと思う.退職してからも図書館で2,3冊借りてきては読んでいた.私が結婚してから薦められて読んだのはアメリカのマイノリティーの話と,満州開拓団で中国に渡り日本人と中国人の子供を産んで苦労した女性の話であった.園田の家の父の部屋を覗くと,こたつの上にいつも本が置いてあった.何を読んでいるのかなとみると,3冊とも推理小説であった.今日はちょっと足がだるいからと頼まれて,近くなのだけれども,公民館まで車で送っていくこともあった.好きな本を選んで,帰りはゆっくりと歩いて帰る.父が亡くなったあと,借りたままになっていた本を2冊,地区会館に返しにいった.

休館日落葉を踏んで戻りけり
読書の目いやす泰山木の白
読みあきし遲日の窓の明るさよ
(遲日‥日脚がだんだん永くなり,日中のゆとりが出来かかった気がしてくる春の日をいう)

母は若い頃から友の会にはいり合理的な生活をめざし,前向きに生きてきた.子供が大きくなってから洗礼を受けクリスチャンになった.おしゃれで紫色が好きだと公言し,肉など洋食が好きだった.外を出歩くのが好きで思い切った買い物をした.身体が不自由になっても旅行が好きで,いくら車に乗っても酔ったことがない.1方,父は毎日仏壇に線香をあげておつとめをする.魚が大好きで,身のむしり方の丁寧なことといったらこの上ない.家を留守にするのが嫌いで旅行に誘ってもなかなかうんと言ってくれない.車に弱くて電車でも酔うのがその理由らしい.母は油絵を描き木彫りをし刺繍をする.父は三味線を弾き碁を打ち本を読む.でも,家ではこんな違いが話題になったことは一度もなかったように思う.父は母のすることを咎め立てたことはなく,そして,どの服が似合うかどの木彫りがいい出来かも言ったことがない.ママの好きなものがママには1番いいよ.

長き夜や趣味を異へて老夫婦
長き夜の妻は木彫を始めけり

母の好きな花は,藤,おだまき,パンジー.
父の好きな花は,クレマチス,サルビア,石榴,泰山木.

はち切れんばかりの石榴こぼれずに
咲きそめし泰山木を立ちて見る
いたみなき泰山木の花散りぬ

ある時父は洋欄を育て始めた.講習会に参加し,緑の窓口に出かけ,教わった通りに水をやり,植え替えをするので,りっぱな花がたくさん咲き,株はどんどん増えた.そして娘や近所の人や知り合いに喜んで分けてあげるのである.見事に咲いた花をもらって帰って楽しんだあと,花のなくなった鉢を返すと,父はまた来年のためにせっせと手入れしてくれるのであった.

洋蘭をよく育てつつ春を待つ
冬の陽をあびて洋蘭蕾持つ
春咲きの蘭の蕾の数を読む

庭の松の手入れも丁寧な仕事だった.脚立に登り,植木屋のおじさんに教えられたとおり1つ1つ手でちぎっていく.1日ではできないから毎日少しずつするのだと父は言った.

松手入茣蓙(ござ)敷きつめて庭狭し
二階より話し掛けをり松手入

園田の家には梅の木がある.梅の木は実にいい.春まだ肌寒い頃に一番に花をつける.春の訪れを目で楽しんだあとに実がなるのである.沢山なる年もあれば,花は沢山咲いたのにぽろぽろとみんな落ちてしまって2つ,3つという年もある.その年はとても沢山の実がついた.浦和から久しぶりに孫たちがやってきて,はしごをかけては,大喜びで実をもいだ.「今年は梅がよくなってなあ」と父は何度も嬉しそうに言った.そしてテレビでみた梅の砂糖煮というのをはりきって作った.まないたの上で1つ1つ押しつけながらころがして・・と,テレビでやっていたとおりに忠実に,手間暇かけて作ったらしい.「もうすぐできるから.できたら,あんたのとこにもあげるから」と父はにこにこしながら言った.残りはいつものように母が梅酒に漬けた.大きな瓶にいっぱいの梅酒が漬けられて,床下にしまわれた.

喜々として実梅もぎいる子ら瞳よ
青梅の落ち止どまりし凹みかな

父は長年銀行に勤めた.銀行といえば転勤がつきものであったが,幸いなことに父は堂島支店を初めとして大阪近辺の支店を廻っただけで遠隔地への転勤はなかった.唯一遠かったのは京都支店にいた時で,太秦に家を借りて一人で住み毎週土曜日に家に帰って来た.この期間だけは子供達は帰宅する父を必ず玄関まで出迎えるようになったものだった.「京都勤務になったらネまず一番始めにお茶屋のおかみさんに挨拶に行かなければいかんのや」と父は教えてくれた.おかみさんに良い印象をもってもらって,「今度来た次長さんは良い人ですえ」と言ってもらえることがお得意様とうまくつきあえるコツということらしかった.京都支店にいる間に父はよく母と共に京都のお寺をまわり,お祭りを見にいった.母に着物も買ってあげていた.銀行勤務の中で一番いい時期だったように思われる.

春炬燵京案内所あれこれと
花吹雪風鐸(ふうたく)の尚揺るゝ見ゆ
永き日や京の巡査の京訛
大文字京の勤めをなつかしむ

京都街はずれのレストラン「にんじん」.父と母,妹と徹さんの4人ででかけた.そのお店はフランス料理といっても和洋折衷で,スープに豚汁がでてくる.日本人の口にとてもなじみやすい味で,父はおいしいおいしいと大満足であったという.

嫁ぐ娘とフランス料理春の宵

父は36年間銀行マンとしてこつこつ働いた.定年後もJCBに入ってさらに働いた.退職後の生活設計を綿密に立ててやっと仕事を辞めた.後に,「こんな生活ならもっと早くに仕事を辞めればよかったかなあ.ちょっと働きすぎたかなあ」と漏らしたことがある.

講義待つ緑蔭の風心地よく
毎日の朝寝とがむる者もなし
大朝寝そのまゝにたゞそのまゝに
職離れ梅雨も又よし庭を見る
入賞の菊にかこまれ菊講座
落葉掃き老の日課と心得て
昼寝覚め隣家の電話なっている
たむろする寒雀なりいとほしむ
妻留守の雨の1日著莪の花
訪れる人なく著莪の咲き続く

父と母と2人で旅行へ行く計画は沢山あった.しかし,行く前になると父が体調が心配だといって取りやめる.実現したのは北海道と沖縄と台湾の3回である.

のどをこす牧場の乳さわやかに
マリモ見しその夜の月の円かりし
北の果とや広々と今日の月
さいはての今日の月見に宿を出づ
広々とたヾ広々と十勝秋
秋雨のはヾむ国後濤白し
沖縄の日没遅し海は冬
沖縄は紺碧の海冬ぬくし

1993年7月母は2度目の心臓手術を決心していた.「このまま動けなくなって寝たきりになるのはいや.命を賭けて病気を治すの」と母は言った.子供たちは反対した.「ママの言うとおりにしてあげよう」と父が最初に賛成にまわった.そばで見ていて母のつらさが一番よくわかるのだろうと私達は思った.母の入院は予想以上に長引いた.病院へ見舞いに行っても何をしてあげたらよいのかわからない父はひたすら,元気な姿で母が帰ってくるのを待ちわびた.

正月の3日間だけ妻退院す
入院の妻を考がへつ冬の庭
正月に子等集りぬ妻退院
初参り今年初めて一人して
お年玉孫の数だけプチ袋
冬の陽をあびて洋蘭蕾持つ
春咲きの洋蘭蕾の数を読む
おかざりのトンドも妻と2人だけ

3月にやっと退院がかなったが,夫婦2人のごく平穏な生活も長続きしないまま,十月に母は逝ってしまった.「ママのためにと思ってつけたけど,この手すり僕にも役に立つなあ」「みんなが毎日ごはん食べに来てくれてうれしいよ」という父の言葉に,私達はほっとする思いだったが,

妻亡くす気を取り替えて初句会
椿咲く今亡き妻の好む花
亡き妻と初の正月迎へたり
庭落葉妻亡くなればそのまヽに
妻死して四十九日は初正月

父の部屋の仏壇の引き出しから出てきた鉛筆書きのメモを読んで涙が止まらなかった.手を握ったりなどと態度には表わさなかった父の気持ちがそこには一杯に詰まっていた.母のいない2度目の正月から1ヶ月,癒すことのできない寂しさを抱いたまま,母の後を追うようにして父は亡くなった.