1994年6月
アメリカオレゴン州
初めての海外旅行

1994年6月30日,アメリカの大学オレゴンステートユニバーシティ(OSU)で学ぶ娘なつ子を訪ねて行くことにした.初めての海外旅行,その上飛行機に乗るのも初めてというのに大胆にもレンタカーを借りての個人旅行である.職場の若い海外旅行経験者が「大丈夫ですよ」と勧めてくれたのだ.格安チケットの買い方も税関の通り方も教えてもらい,スーツケースまで貸してもらってさあ出発.
サンフランシスコからポートランドの1時間の飛行中に見える窓からの景色に歓喜した.遊園地の乗り物より格段にすばらしい.夕暮れのポートランドは10時くらいまで明かるかった.飛行場でレンタカーを借り,何とか見つけた6thAve.のモーテルDonn’sは2人で$37.8.アメリカの旅行は便利で安い.すぐになつ子に電話するが,繋がらない.とりあえず食事に行こうと街へ出たが,道路が渡れない.信号機の意味がわからないのだ.一巡待って,赤い「てのひらマーク」がストップだと確認してから渡る.ススメは緑ではなく黄色だった.ガイドブックの電話のかけ方を読みながら,夕食後にもう一度電話するがやはり「Wrong Number」と言われる.明日,住所を頼りに自分で行くしかないかと思った.
大学はちょうど春夏の学期が終わって,皆帰省する.寮は閉鎖になって,夏休みに居残る人は寮を変わらなければならなかった.私たちの出発直前に新しい寮の住所と電話番号がわかり,なつ子から打ち合わせの電話はかかってきていたが,こちらから新しい番号に電話したことはなかった.しっかり者のように見えておっちょこちょいのなつ子は電話番号と間違えてZIPコードを書き送ってきていたのだ.




翌朝,ポートランドを出発.広大な麦畑や牧草地に続くのびやかな道路.畑に生えた1本の大きな木も思いっきりのびのびと枝を広げている.砂地を通り抜け,オレゴンコーストを行く頃は霧雨にけむっていた.そこここで広い路肩に車を止めて写真を撮ったりしていたが,連絡が取れていないから,もうあまりゆっくりしないで行こう.実はこの時娘たちの方では,お母さんたちはアメリカに着いたはずなのに連絡してこないと,なつ子が日本に電話したりして大騒ぎになっていたらしい.時差を考えると日本は夜だし,日本に連絡しようなどと私たちは少しも考えなかった.
大学のある町コバリスでフリーウェイを降りる.「OSUって大きな大学だし,そこらで聞けば誰でも教えてくれるだろう.そして守衛さんか事務の人に学生寮の場所を聞けばいい」と簡単に考えて,近くの喫茶店にはいる.「OSUってどこですか?」「Here」「えっ.ここ?」予想もしなかった答えに驚いた.ここがもう大学の敷地内なのだ.なんと広大な,さすがはアメリカだ.なつ子の住所を見せると,大学の大きな地図帳を出してきて親切に探してくれた.**St.**Ave.のあたりらしい.敷地内ではスピードを落とさせるためにBumpが設けてある.
曲がり角で右に行くべきか左か止って考えていたら,後続の車が紳士的にも止まって待っている.さっさと追い越して行ってくれればいいのに.もう一度,そこらで用事をしていた学生風の男性に道を尋ねると,自分の車を出してきて,「Follow me」と言ってくれた.アメリカ人て何て親切なのだろう.そして,なつ子のアパートのすぐ下まで連れて行ってくれた.
部屋でくつろいでいると,話し声を聞きつけてなつ子の友人が集まってきた.ジョギングシューズを履いたまま床に座り込むのにはちょっと抵抗を感じた.皆でレストランに行って中華料理を食べる.なつ子の友人が料理の注文もチップもテイクアウトもみな仕切ってくれた.



7月3日,ポートランドからワシントン州シアトルに向けて出発.シアトルは戦前,なつ子の曾祖母が住んでいた所だ.そしてなつ子の祖母,つまり正の母はシアトルで生まれている.一度は訪ねてみたい場所だった.ワシントン州には火山活動でできた非常に高い山がある.4394m,マウントレーニエだ.シアトルに住む日系移民はこの山をタコマ富士と呼んだ.なつ子の曾祖母もここへ登ったことがあるという.山頂は雪におおわれていてとても美しい山だった.ここマウントレーニエ国立公園内のパラダイスインで1泊する.山に入ると霧が立ち込めていて残念ながら山頂は見えず,美しい展望も望めなかったが,高山植物の種類は多く,花を守るためいくつものトレイルが整備されていた.地面には雪が積もり,私たちは用意していたセーターの上にジャケットを羽織った.
マウントレーニエからシアトルまでは地図の上ではそれ程遠くはなく,幹線道路も通っている.しかし,広域の大雑把な地図しか持っていなかった私たちは少し遠回りしたようで,その少しが実際には大分の距離で,シアトルに着いたのは昼をかなりまわっていた.一転,シアトルの街は快晴で暑く,車を止めて港まで下りていくと汗が噴き出して,半そでTシャツ一枚で歩くほどだった.
シアトルは大きな港町である.海からすぐに切り立った山へと連なる斜面に街が築かれていて,今は高層ビルも立ち並んでいる.その昔,何十日もかけて単身,日本から船でやってきて初めてシアトルの港に着き,ここから町を見上げた時,なつ子の曾祖母は何を思ったのだろうか.

7月4日,この日はアメリカの独立記念日で,屋敷の敷地の隅に小さな国旗を掲げた家を見かけた.所変われば国旗の飾り方も異なる.私が子供の頃,正月にはどの家も玄関の横に大きな日の丸の旗を掲げたものだった.大晦日の喧騒から一夜明けるとしんと静まり返った正月の遠い日の思い出が懐かしくよみがえる.シアトルからはフリーウエイI-5を一路南へ向かい,コバリスには日も落ちた10時半過ぎに帰り着いた.
7月6日,帰国の前日,なつ子のコンバーサントであるペッグさんの家を訪ねた.コンバーサントというのは大学の制度で,海外の学生の相談にボランティアで乗ってくれる人のことだ.ペッグさんは独り暮らしの元気なお年寄りで,車も運転するし,毎週プールに行って水泳もする.ラッキー2セブンの77才だそうだ.バイオリンの先生で,部屋にはグランドピアノが置いてあったが,リウマチでもうバイオリンもピアノも弾けないと言われた.私は日本人作曲家加古隆のポエジーを弾いた.グリーンスリーブスが原曲で,懐かしい響きだと言ってくださった.壁に生徒の写真がたくさん貼ってあって,それぞれが各地で今,どのように活躍しているかというのが自慢のようだった.一人一人どこでコンサートをしたとか,どこで教えているとか話してくださる.庭にはりんごとラズベリーの樹があって,美味しい紅茶とクッキーをご馳走になった.なつ子がいろんな人のお世話になりながら暮らしていることに感謝しつつ帰途に就く.