兵庫県尼崎市には公立の中学校、夜間中学がある。兵庫県尼崎市立成良(城内)中学校琴城分校である。
 そこに通う朴敬順(パクキョンスン)さんは、はじめて平仮名を読めるようになった時の感激をこう作文に記した。
《「ゆ」というもじをならい、ふろやののれんにおおきく「ゆ」とかいてあるのがよめた。のれんをなんども、せんとうのときくぐってきた。でもわたしは「ゆ」とかいてあることをしらなかった。いまはいろんなもじがめにはいってきます。》
 市役所や学校、駅や銀行などで字が読めるようになりたい、友達に年賀状が送りたい、孫に手紙が書きたい、こんな願いを持った人たちが毎日夜間中学へ通って来て勉強をしている。
 この写真集は、その夜間中学に学ぶ人たちの約10年にわたる記録である。
 末娘が中学三年生だった時、PTAの役員活動を通して理科の増田先生と親しくなった。間もなく先生は転勤され、久しぶりにお会いした時に夜間中学の話を伺った。夜間中学の高齢の生徒さんたちの表情が実に素晴らしいのだという。そもそも私は三十年も尼崎に住んでいながら、街に夜間中学があることすら知らなかった。先生に誘われ、その城内中学校琴城分校に見学に出かけたのは阪神大震災のあった1995年9月初めのことだった。校舎が震災で壊れてしまっていたため、授業は近くにある城内高校(夜間定時制)の教室を間借して行なわれていた。事前に聞いていたにもかかわらず、生徒さんたちの多くが高齢であることにまずびっくりした。
 1995年9月末、近畿地方の夜間中学の合同運動会に、初めてカメラを持って行った。当日はあいにくの雨で、運動会は体育館で行なわれた。むせかえるような熱気に圧倒されつつも、踊りやゲームに紛れ込んで撮影を開始した。一応、先生から紹介されていたとはいえ、生徒さんにとって私はどこの誰だかわからない「カメラを持った見学者」にすぎなかった。カメラを向けると下を向いてしまって、記念写真さえ撮らせてくれない人もいた。しかし昼食の時間には生徒の皆さんが声をかけてくださり、民族色豊かなお弁当をご馳走してくださった。今まで味わったことのない美味しい料理が並んでいた。この時から、生徒さんと、私の交流が始まった。
 何回か行事に参加するうちに「見学者」は親しみを込めて「写真屋さん」となり、写真を撮らせてもらえる生徒さんの数は次第に増えていった。撮影のたびに高齢の生徒さんたちの笑顔や真剣な眼差しに惹きつけられ、文字の大切さと文字を知る意味の重さを教えられた。
 宮島満子さんとの出会いは私にとって衝撃だった。
 宮島さんは戦前に満州開拓団として家族とともに中国東安省に渡り、終戦の混乱で親兄弟を亡くし、家族をばらばらにされた中国残留孤児である。夜間中学の撮影を始めた年の文化祭で、宮島さんの体験発表を聞いた私はその過酷な人生に強い衝撃を受け、カメラのファインダーを覗きながらいつの間にかシャッターを切ることができなくなっていた。
 宮島満子さんとの出会いは私の目を生徒さんの人生に向かわせた。第二次大戦前から戦後、現在に至る日本のこと、世界、特にアジアの国々との関係を直に突きつけられた。
 上田輝光さんのお父さんは台湾出身である。上田さんは作文の中で、「僕の好きな言葉は「All human are brother and sister」です。この学校では僕も国際人です。国籍の違う人たちと勉強を楽しく学んでいます」と書いている。フィリピンやベトナムなどから来た友人といっしょに学んでいるから自分も「国際人です」という視点の鋭さにアジアの一員であるという日本の基本的な立場を再認識させられた。
 近年の入学者の中には、紛争地域から脱出した人や、日本での新しい生活を求めて近隣のアジアから来る人なども増え、新たな世界情勢を反映している。今、尼崎市立成良(城内)中学校琴城分校は、これらの人々に日本語習得の場を提供している。第二次世界大戦前から戦中戦後にかけて、時代の犠牲になった人たちはすでに高齢である。何年後かにこの人たちが卒業をしてしまった時、本来の琴城分校の役割は終わるのだろうか。あるいは新たな時代の要求に応えて、存続し続けるのだろうか。

はじめに