遠い祖国

【北京 人民大会堂】
中国にはいまだ日本人と認められない残留孤児が多くいる.

【北京の地下鉄で】
中国人養父母に育てられた趙さんは専門学校を卒業後,技術者として航空機工場に勤務した.1972年から北京に住み,今年7月定年退職した.

【日本の厚生労働省にたくさんの書類を提出した】
父が病気で亡くなり,その後伝染病にかかった実母が趙さんをやむなく1948年10月中国人養父母に託した.養父母宅で「依託養子同意理由書」を見つけていた趙さんは1992年養母を亡くしたのを機に,94年から理由書を添え日本の旧厚生省へ手紙を何度も送り,肉親捜しを求め続けた.97年兄の連絡先が知らされ,その後手紙のやり取りが始まったが,日本人と認定されなかった.

【北京市内はオリンピックを前にいたるところ工事中だった(2007年9月29日)】
日本の新聞記者が今年9月に趙さんの境遇を取材した.そして記者は10月19日厚生労働省に取材を申し入れた.するとその直後,10月23日に厚生労働省から趙さんに「日本人として認定する」旨を告げられた.「日本人残留孤児」として認定されるまでに実に13年の歳月を要したのである.

【妻の孟東芳さんと,背景は自宅のアパート】

【2007年9月29日,35年後の天安門広場】
趙印甲さんは1947年当時ハルビンに住んでいた日本人両親のもとで生まれた.
実父親は戦前からハルビンで醤油工場に勤務していた.
既に,自分が日本人であることを知っていた趙さんは35年前の1972年9月末,この広場の前を日中国交回復交渉のために訪中した田中角栄首相らが通ることを知り彼らを見に来た.