はじめに
私は大学生活でさまざまな若者を見てきた。夢に向かう人、意欲に満ちた人、人間のできた尊敬すべき人などがたくさんいた。一方、年齢の割に中身が幼過ぎる人、自分の力を社会で活かせない人、目的のない人に接したとき、その人の将来と日本社会とに大きな危惧を感じ、また、二極の若者タイプの差に驚いた。彼らの何が違うのかを若者の育ちで考えた。すると、私は2年強個別指導塾で講師をしているのだが、生徒を通して見える育ち方の中にヒントを得られた。現代の親の役割を中心に、子育てと子供・若者の進路の問題を考えたい。
1.1.1 事例1
かつての私の別のアルバイト先=蕎麦屋に新入りで入ったT君は、誰もが知る国立大の工学部生で、相撲部に入ったがすぐにやめたそうだ。彼は最低限の料理運び・お皿下げ・食器洗浄以外はやってくれなかった。サービス向上や作業効率化とは関係ない話をよくされた。「お客様が店に来られない時も、掃除など、私たちがすべき仕事は常にあるのだ」、「仕事は自分で創るものだ」、と私は口でと身をもって示してと両方で教えた。店長も色々と諭したそうだ。それでも、彼は結局変わらなかった。働き出して1ヶ月くらいのある日クビにされていた。店長曰く「やる気のない奴、(仕事のために)動かん奴はいらん!」と。その後彼を忘れかけた頃、残ったアルバイト生である私ともう一人の女の子との携帯に彼から連絡があった。夜中だったので私は無視したが、彼女は夜中の電話を取ってしまった。彼は酔って「彼氏いるんですか?」などと言ったらしい。マナーを身に付けずに携帯を使ってしまっているのだ。この件は後日相談を受けた店長から彼への電話で解決した。T君は勤め先の戦力になれなかっただけでなく、店に迷惑をかけた。これがエリートと言えるか?社会に必要とされる人材であるか?
事例2(子供のペット化・過干渉)
S・Y君は中学3年生。会話の中で曖昧な受け答えが多い。
漢字は覚えられるが国語力は小学1年生並だ。入室したときの塾長によると、面談の様子から、(会話で本人が答えるべきところも母親が答えて・・・というように、)本人の代わりに母親が何でもやってしまっているようだ。本人の意志が弱いので、
担当講師は受験の話を母親にも電話で直接、情報提供・相談をせざるを得ないようだ。
事例3 (子供のペット化)
Aちゃんは小学5年生だ。3年生の入塾以来、同じ講師が担当している。多くの生徒は遅くても数ヶ月通うと講師たちと打ち解けるが、Aちゃんは何を聞き、どんな語りかけをしても返事をしない。声を発さない。口が利けないのではないのに、誰も声を聞いたことはない。毎回送り迎えに来る父親は、塾から帰る際、本人に「さようならは?」と挨拶を促す。ある時塾の者から自宅に電話をかけ、本人に代わるよう父親に頼んでも父親はそれを受け入れなかった。
事例4(問題点:子供のペット化・しつけの学業偏重)
<現在>O・Y君は私立中学一年生の男子でバスケ部に所属する。ひとりっこで父親が教育熱心である。
習い事は個別指導塾週2コマ、英語塾週1回と多忙な毎日だ。もっと厳しい環境で勉強させるためにと、府立S高校を目指すコースがあるからとで2月からは(個別指導塾をやめ)集合塾へ通わされる。
国語が苦手だ。文脈力が欠如しているために文章題が理解しにくいなど、影響が他の教科の理解にも出つつある。
友達との遊び経験は小学生の頃から今もゲームばかりだった。屋外で、特に自然に触れて遊んだ経験に乏しい。
どういう事態になると父親の怒りに触れるかを熟知している。
勉強(や実力テストなど)は「好きでも嫌いでもない」が「クラブより重要」という。
小学生のころから今となっても、親に予定を細かく決め付けられ、変更される。6年生の時には本人に相談なく、受験のために剣道をやめさせられた。塾に通う回数・科目も親が勝手に変え放題。又、「必要だ」とも言っていないのに教材を次々に買い与えられる。
家庭での会話は少ない。
塾からの「定期テスト前の授業追加の提案」に対して、親はみっちり授業を追加してきた。それらのためか、(クラブがなく疲れていないはずの日でも)集中力が切れたり手が止まったりしがちである。
暴力で問題を解決できると考えている。特に、思い通りにいかないとき、理解できないときに暴力に訴えがちである。実際に手を加えることはほとんどないが、人を叩いたりシャープペンシルで突いたりという、しぐさをしたり、平気で「死ね!」というなど、暴力的な発言をする。男性の講師・生徒にちょっかいを出し、蹴ったりする。その一方、根は優しく、誠実で気前が良い。
考え方が短絡的である。
<過去>中学受験のときに一日の授業3コマ(1コマは80分)以上×毎日のスケジュールを経験した。(授業数を決めたのは親である。)その時の口癖は「死んでもいい?」
宿題をできていないと夜遅くにもかかわらず長時間の説教をされた。
受験に合格すると、一週間ほど豪華な食事が続き、欲しい物もいくつも買ってもらえた。
<父親について>
中学3年生のときまではほとんど勉強していなかったそうだ。そのことを強く悔いているために息子に対して教育熱心である。Y君を府立S高校(学区内トップ校)と阪大に行かせると強く考えている。「私立S中学に入れば府立S高校に入れるのは間違いない」と言ったのに対し、他の塾長は「それは分からない」と言うのを受け、初代塾長だけを信頼している。
Y君はテストの低い点についてどやされ続けることや、きわめて多忙な習い事スケジュールを課されることに対し、「こっちの身にもなって」「中学生のときのお父さんは勉強できへんかったのに」と思っている。恐ろしくて口には出せない。「(できるなら)家出したい」と思ったこともある。親の期待を受け、重圧に耐えながらも悩みつづけている。
1.1.2 問題点
まず事例1をみる。蕎麦屋の店長は店員採用時に履歴書や
人となりをあまり見ない人だ。他のほぼ全ての職場のように、質問のやりとりによって店にあわない人をふるい分けることをしない。面接はその人を雇うことを前提で行う。働く中で成長しろ、という考え方だ。このような店でさえクビになれば、T君は他のアルバイト先を探しても採用さえも難しいだろう。社会に出ることを考えると、なおさらだ。
勉強面では完全に勝ち組であるTくん。親もそのことに将来のことを含めて安心しているだろう。なぜなら勉強ができれば、社会に出てもその人が職に就け、仕事もできることが期待されるからである。そもそも子どもが学校に入って知識を身につけるのは、社会に役立つ人間になるためのプロセスとして必要だからである。親もそれを期待して子どもを受験勉強に駆り立て、塾通いという新たな支出を付加する。
しかしT君だけでなく、今や教育環境や子ども・若者の実態はそれとは乖離しつつある。多額のお金をはたいて身につけさせる勉強は、社会で役立つ人間になることにあまりつながっていない。勉強ができても仕事ができない人の例はアルバイトの世界だけでなく正社員の雇用形態でもあるものだ。問題に対してどうすべきかをすぐ上司に聞く若い社員が多くなったという。原因は○×式の問題による勉強に偏った学習での育ちだ。そこでは解き方・答えは先人が用意してくれてある。勉強のできる人ほど、定型化された問いに対して定型化された答えを出すのは得意だが、仕事で生じる、絶対的な答えのない問い、新しい形の問いには弱い。なぜこうなるのか。
1.1.3 学ぶことの内容
受験競争において学ばれてきたのは、「科学的知識」である。その学習によって、「いつも複雑な現実を単純な因果関係に『分ける』ことによって『分かろう』とする態度、換言すれば物事を分析的、合理主義的、機械論的に考える思考の習慣」(和田,95年,25頁)が植えつけられる。(そのような知を和田は『分別知』と呼ぶ。)この考え方は、人が生活するうえで欠かせないし、これによって高度経済成長期を中心に日本は発展できた。しかし、「『分別知』だけが本当の知だと考えるように」なると、「全体的なるものを忘れるという危険」がある。「『分ける』ということは、それに先立って何等かの『全体的なもの』があって始めて可能である」。それは地球全体の人間や社会かもしれないし、宇宙全体の環境かもしれない。「実際には、(中略)複雑で絶えず流動変化している現実を、科学者の関心と目的に沿って一定の角度から切り取った部分的抽象的な知」が「科学的知識」だ。「しかし、全体は部分に分けられるが、部分は機械的に寄せ集めても全体にならぬことは、生命体をよく見れば明らかであって、科学的な知識を本当に生かすことが出来るためには、どうしても生きた現実を『全体』として直感的にとらえるような、もう一つの別の知が必要となる。」(和田,95年,26頁)しかし、「全体にかかわる直感的な知は、最初は深い感情を通して予感され、実際の場面での経験と、実際的な生活を通して、徐々に広げられ、深められ、磨かれていくものであって、その結果身についた知が『知恵』なのである。」(和田,95年,26・27頁)勉強ができてもそれを実生活で行かせるか否かは知識が知恵となっているか否かによる。
単元別学習ではよく出来るのに総合問題や応用問題になると出来ない子や、どんなに計算が得意でも、常識的にはおかしい答(特に単位換算を要する問の答え。1歩の歩幅が600mや、秒速54kmなど。)に自分で気付けない子、問題文を読んで内容を想像できない子は、塾で頻繁に見られる。そのような子供が塾以外で「基本的な生活経験」を積んで(学習内容を理解できるほど)成長しないと、いくら親が塾に学力アップを目的に子供を預けてきてもすぐに限界に当たるのである。
勉強することは素晴らしい。わかる喜びや達成感があるし、成長できる。だから全力で支援もしたくなる。しかし<この子にまず必要な課題は勉強の前に、生活経験、自然体験、読書、同年代集団で遊ぶことだ>としか思えない生徒がいくらかいる。その場合、親も本人も私も本人のよい成長を願うのに、私は生徒を外に連れて行って遊んでやるわけにはいかない。親が子供を連れてくるべきところは塾ではなかったのだ。公民館で土日に合宿形式で集団生活経験をするという試みもあるが、親が子供に生きる力をつけさせるために子供を託せるところはまだまだない。大体、親の方がそんな意識をもてるようになるにはまだまだ時間がかかりそうだ。
また、仕事をする上で必要なのは学力だけではない。同じ職場の人や顧客と円滑にコミュニケーションを図る力、相手の立場に立って考える力、社会性、物事を相対的にとらえる力、答えのない問題に対し、効果的と思われる対処を自分で考えて行動に移す力や応用力、意欲、積極性、責任感などが不可欠だ。これらの力を仕事力とよぶことにする。採用活動において、企業は仕事力を見るためにグループディスカッションなどの方法を用いたり、学生生活で仕事力をどのように活かし、成果を得たかを問うたりしてくる。企業が求めるものを持たないまま面接を繰り返しても、雇われにくい。
このように、社会に出るまでには学力以外の要素を身につけておく必要がある。学力優先で育てられた私たちの世代の多くにとっては、就職について情報を得たとき(または働きだしてから)「そんなの教わってない」となる。大学合格などで本人も親も安心するが、受験勉強の過程で身につけずに過ごしてしまう力は、社会では不可欠となるのだ。今は職業体験を行う中学校が増えているが、体験できなかった人が仕事力をつける機会は、今の日本には学生期間でのアルバイト、クラブ、その他ボランティアなどの課外活動くらいしかない。(家事、地域活動、ボーイ・ガールスカウト、ボランティアなど、役割を課せられる経験をもって育つなら別だが。)
職業体験にしろアルバイトにしろ、私たちの世代が初めて労働の世界に入ったとき、必要だが自分には足りない力を認識し、且つそれを身につけようと努力することは非常に重要だ。それをするなら、社会に出るまでには遅くない。私もそうだったから。それを考えると社会に出るまでのモラトリアム期間は意味を持つ。しかしT君は私の知る限り、その認識・努力をしなかった。そして学校教育機関を終えてから仕事力をつける場は、アルバイト,ボランティア活動、ニート支援の施設などくらいしかないのである。
一方、今子どもの教育の全権利を握る親の多くはその事実を知らない。そして子どもに、能力をつけるための学習機会を選び与えるにあたって、受験のための学力に偏重してしまう。上記のような問題があるのに、なぜ親がそのように行動(子育て)してしまうかの原因は親自身の育ちにある。
1.1.4 親の育ち・学業偏重の社会的背景
今、子供を持つ親はほとんどが30代から50代に入る。1940年代後半から70年代前半に生まれた世代だ。彼らは皆、60・70年代の高度経済成長期を早かれ遅かれ体験している。その時代は、<良いとされる大企業に入り、年功序列と終身雇用によって安定した生活と保障された老後を獲得すること>が幸せな人生モデルとされ、<そのためにはいい大学に入ることが、それにはいい高校に入ることがよい>という考え方が社会的イデオロギーとしてあったため、親は子供に勉強を勧め、教育機会を与えた。子供たちもそれに従って学業に力を入れた。「この世代は、工業化と農業縮減政策の中で、最低でも高校ぐらいは出ておかないと絶対に幸せになれないということが疑われることのない国民感情になってから学校に通った世代で、学歴をめぐる競争である程度の地位につくことが将来のための最大課題であるという社会的雰囲気の中で育ってきた。そのため、小さいころから、(中略)すでに敷かれた上昇階段に早く乗ること、できるだけ上までありつづけることを親からも学校からも期待されるという育ち方をしてきた。」(芦永,04年,72頁)例えば今なら多くの中学生以上の若者がもったことがあるであろう、<なぜ勉強するのか>などという問いは、<よりよい生活のためになるから>という当然すぎる答えのために、問いかけられることもあまりなかったかもしれない。親が子供に勉強するようにしかけたのは、子供の幸せを思ってのことだけではない。当時ではほとんどの親子にとって子供が自分より高学歴を手に入れるということなのだから、親にとっては<子供が自分の夢をかなえてくれる自己実現の形>でもあったからだ。だから親はさらに子供を激励し・・・という循環になって、受験戦争はますます拍車がかけられた。
勉強の内容はというと、過去に確立された知・技術を習得するというものだ。これは、大量生産・大量消費型の当時の社会において、必要とされる人材が<会社に素直に従い、マニュアルを容易に理解して業務に取り掛かれるような人材>であったからだ。就職にも学歴がものをいった時代だ。
70・80年代では集団就職というくらいで、今に比べると非常に就職しやすかった。
そんな状況での育ちとはどうだったか。親世代は現代の少子社会を生きる子供より、遊べる環境があり、人間関係形成力をもち、(地域社会に育てられた分)社会性があり、家事やお遣いなど簡単な労働ができ、勉強より大切なこと(礼儀や思いやりの心など)を身に付け、育みやすい環境で生きていた。そのような育ちで身に付く総合的な力は仕事力と大部分重なる。私はそれ(和田の言う「『実際的な生活』を通して身につく『全体的な知』であり『知恵』」となる力)を狭義の生きる力と呼びたいのだが、生きる力は人が一個として自立して生きていく、そのために働いていく、それらのためには勉強よりも重要なものではないか。勉強で身についたことを活かすためにも前提となるものではないか。
生きる力はずっと昔から、(家族を含めた)社会によってその個々の構成員に植え付けられてきた。子供がその社会で生きていける大人になるべく。しかし、特に戦後以降は統一した社会規範が薄れ始め、家族が社会から分離し、しつけや人間形成は社会でなく家族の中で親の強い権限の下で行われることになった。自分の意志で子供の人生を左右できることを自覚したとき、親は子供がより豊かに生きられるようにと、<よりよい学校に>という学歴志向を持ちだした。それでも当時は今に比べてずっと地域社会に人を育てる力があった。家で親が特別に行動を起こさなくても、当たり前の力は子供に身につきやすかった。子供だけで思いっきり遊ぶことを多くの大人は身をもって体験したのに、その重要性を認知することはなく、これからの時代は勉強だと考え出した時から、子供から遊び・労働を取り上げるようになった。生きる力が子供へ継承されなくなりだした。生活の便利化も合わさって、子供には人の生活の根底を支える諸作業の過程が見えなくなった。
そのように育った世代が現代では親世代だ。今の子供はなおさらで、例えば食物が食卓に上がるまでにどれだけの過程があり、労力がかけられるか、目の前の食物が元は何なのかを知らないから、食育の必要性がいわれるのだ。
仕事力、生きる力は現代では放っておいても育たない。学力向上だけを気にかけるだけでも問題なかった一昔前とは社会状況が異なるから。家族・社会に<子どもを大人に育てる力>がないから。親が<所詮社会に出るときものをいうのは学歴でしょ>と考えても、子供に<役割を担える社会集団>に所属して社会性を高める機会を持たせず、「受験本位の勉強だけを強いるとすれば、(中略)『知識はあるが本当の知恵と向上心のない、打算的で恩知らずな若者』を作ることになるだろう。そのような若者は大学入学まではうまく言っても、就職や結婚と言ったその後の人生の試練で失敗する可能性はきわめて高い。なぜなら、彼らがこれから直面する現実は、決して彼らが考えるほど単純でも、甘くもないからである。」(和田,95年,27頁)しかし親世代にとって、仕事力・生きる力は自分が当然持つものだ。それは学力と別枠で、対策の必要な対象ではないのだ。だれも、当然あると感じるものを、わざわざ努力して存在させようとする必要性を認識したりはしない。学力でも何でも、人が何かを求めるのは、それがないことに問題を感じるとき、または深刻な問題が起こったあとのみだ。大切なものは失われた後に気づかれはしても、事前にはなかなかされない。
1.2.1 子どもの育ちの問題
学力面で順調に育ったT君でも、そのままでは社会で必要とされる人材になれない。
しかし知性の内容に問題があっても、勉強面以外では人間的に子供のままの人に育っても、勉強するだけましである。知性面だけでも成長して、つまり先へ進んでいる。何もしないより場合よりは新しいことにも挑戦する気が生まれやすいかもしれない。さらに大きな問題は子供や若者がやる気を失った場合にある。ここでは学力・仕事力・生きる力を身につけさせる問題以前に、その力を活かして生きていく人間に育つことができるかが危ういという問題を、塾の生徒の事例でみていく。
1.2.2 問題点
教育熱心な親は、極端に言うと、合格すればなんでもよい、少しでも点数・偏差値がよければそれでよい、子が進学できれば他は全く問題ないという考え方が見られる。どのようにどれくらい何の学習をいつしたいのかという本人の意向や、そもそも(学校以外に)新たな学習をしたいのかという意欲などの問題は、教育熱心な家庭ほど親が考え,決めつけている。したがって子どもたちは「学習を自分の意向とは係わりなく強制される制度的な要請と感じ、学歴を得るための『手段』と考え」(和田,95年,23頁)て育っている。その結果として「多くの大学生にとって大学とはもはや真理の探究や学問研究といった大層な所ではなく、永年にわたる大人たちのおためごかしの脅迫と不安にかられた受験勉強からようやく開放されて晴れて遊べるところ」となっている。大学は本来、新しい問いを見出し、それについて考え、工夫し、解決を図る力をつけて社会に出る、という所であるはずにも関わらずである。それがよほどひどい大学の話だとしても、真摯によく勉強するエリート学生達はまた別に「極く初歩的な礼儀作法を知らず、社会的対人的関係の未熟さが目立つ。(中略)構想力と作文力が年々低下する傾向にある。言われたことはやるが、それ以上進んで問題を発見したり、新しい状況に取り組む意欲が弱まっている。」(和田,95年,23・24頁)という問題点をもつのである。そしてそれは「物質的に不自由のない環境で、詰め込み本位の教科の勉強以外は何もさせてもらえなかった、受身の生活を送ってきた人間の当然の結果であって、責任の大部分はそのように過保護してしまった大人にあるといわなければならない。」(和田,95年,24頁)実際は学生みんなに上記のような深刻な問題があるのではない。そうだとしたら企業は大学新卒採用を早々にやめているだろう。自主性・積極性・高い向上心を持って学業に取り組む学生、研究が楽しくて仕方ない学生、仕事の出来る学生、人間の出来た学生、NPOなどで社会のためとなる活動をする学生も多数存在する。ただ、勉強の出来る出来ないに関らず、人間的に未熟な大学生が増えているのは否めない。学生の性質が二極化しているのだ。
勉強でも習い事でも、子どもの仕事も大人のそれと同じで、ある程度はおもしろがったり自ら進んでやる気持ちをもったりしてやらないと、実を結びにくい。まして、長丁場でただでさえしんどい受験勉強では,苦痛となるだけだ。自分の意志をごまかして続けても,いつか大きな選択を迫られたときなどには「どうせ好きでやってるんじゃないし」と気づくことになり、やる気が失せだす。次に意欲について詳しく見てみる。
1.2.3 意欲
山田昌弘の『希望格差社会』のように、意欲のある人・ない人の二極化がみられるという。やる気のない人に対して、よく大人は「頑張れ」と言う。相手を応援する気持ちから出る言葉だが、今の子供・若者にはマイナス効果だ。「今でも頑張ってるのに、ダメなんだ」と。そこで「もっと頑張ろう」と奮起できる人なら良いが、日本では他の国の子供と比較すると自己肯定感が低く、自信がない子供の割合が大きい(総務庁青少年対策本部『中学生の母親』「青少年の校外活動と家庭に関する国際比較調査」報告書1991年、深谷昌志『無気力化する子供たち』日本放送出版協会1990年など参照)ので、「自分には無理だ、何をやってもダメ」となりやすい。「頑張れ」と励ましても効果なしとなると、大人は事態の困難さに気づく。人が物事に対して意欲を高めることは、人の思い通りに行かないことが多い。本人が「生活のために必要だから」「目標のために」と動機をもてるといいのだが、周りの他者には言葉をかけること以外には待つほかない。意欲とはどんな条件下でもてる・高まるものなのか。
伊藤隆二によると「レッパー(M.R.Lepper)は保育場面での幼児を対象に『これこれの事をしたら、ご褒美をあげよう』と動機付け(つまり外発的に報酬を与え)、成功者に『賞』を与えると、それまで内発的興味から活動していた子供の、内発的動機は確実に低減していくことを実証した。」(伊藤隆二,87年,8頁)という。そのとき「子供の(中略)自由な、主体的な(自発的な)活動は、外発的な報酬を得る手段に変わって」おり、「子供は『罰』を恐れて、いやいや活動するようになる」(伊藤隆二,87年,8頁)一見効果的に思えるが、賞罰で動物ならまだしも子供をつるのは逆効果なのだ。
では子供の自発性や学習意欲の蘇生には何が必要なのか。「最も基本的なことは、子供は本来、自発的であり、学習意欲(知りたい、わかりたいという動因、ないしは欲求)が強いことを認めることである。」(伊藤隆二,87年,14頁)その上で求められるものを一部挙げる。
(1)「自発性・学習意欲は外発的に起こさせる(つまり操作して喚起させる)ものではなく、みずから起きるものである。それは子供の情緒が安定しているときである。」(伊藤隆二,87年,14頁)上記の「頑張れ」の例と同様、ヒトは「やる気を出せ」といわれてやる気を出す単純な生き物ではない。言われ続けると「うるさいな」とイライラが募り、強いストレスに変わる。「なぜ多くの親が(中略)『勉強しなさい』と言うかというと、(中略)『親は[勉強しなさい]と子供に投げかけることにより親としての務めを果たした気分になる』という、親の自慰行為なのです。」(伊藤隆二,87年.221頁)
(2)「子供のよさは自由が保障されているときに出現し、そして子供は自らそのよさを発揮する。自由には(中略)子供の主体性を尊重するということも含まれる。その逆が、(中略)上から管理や統制や強制をすることである。」「子供のよさ」とは、「子供ひとりひとりのその子らしさ」
(伊藤隆二,87年,15頁)という意味だ。
(3)「子供の自発性・学習意欲も、(中略)『安らぎ』-親子の信頼感、ぬくもりのある明るい家庭、子供の行動(活動)の絶対的・全面的承認など−さえ十分であれば、やがて時が熟すると、あふれ出てくるのである。逆に促成栽培のように『早く芽を出せ、(中略)』と、外から刺激を与えるならば、子供は萎縮し、無気力化していくだろう。子供の自発性・学習意欲を高めるには信じて『待つ』のが最大の条件である。」(伊藤隆二,87年,16頁)「『親がなくとも子は育つ』ということわざがありますが、あれは本当です。子供は(中略)自ら伸びる芽を持っています。」(伊藤芳朗,00年,217頁)つい口出し・手出ししたくなるところを、子供を信じてグッと堪えられるかどうか。親の力量が試される局面だ。
(4)「子供は大人の言動を模倣する。」(伊藤芳朗,00,16頁)例えば、子供は機械とは違うので「勉強しなさい」と言われると、命令に従ってその内容を遂行する(勉強する)より、自分も別の他者に「〜しなさい」と命令することを覚える生き物だ。だから「子供に影響を及ぼす大人自身が自発的に意欲を燃やして学習していることが、子供の自発性・学習意欲の向上の絶対的な条件となる。(中略)大人が子供に模倣させるのではない。大人はそのような操作や意識で子供を変えようというのではなく、ただ自分の天分を生かし、真摯に生きているだけでよいのである。子供は、大人の生き方を見習いながら、生きる意味を学び、また自分らしい生き方を創造していく。教育は『自己教育』ないしは『自己学習』となる。」(伊藤隆二,87年,16・17頁)「親(中略)は、自分の人生を謳歌すべきです。母親が自分の人生を楽しく生きていれば、子供も自然に楽しくなり、自然に夢を持てるようになります。」「二四時間『子供のために』と恩着せがましく動いている母親より(中略)子供たちは伸び伸びとできる」。(伊藤芳朗,00年,217頁)
結局、大人が(賞罰を与えたり「これをやれ」と催促したりして)子供の意欲を上げさせようとすると子供の意欲を減退させる。逆に親が子供の意欲に口出しせず、自分のことを一生懸命すれば子供は自分の一生懸命取り組むべきものについての姿勢を学べる。自主的な意欲を持てるのだ。
意欲は各家庭で事態を改善しやすい問題だと思う。子供に自発的な意欲が見られないと感じたら、親子間に信頼はあるか、親はいつか子供が意欲を持ち出すまで待つことができそうかなど自問してみる。つい「やる気を出せ」と言ってしまうなら,自分が子供の立場なら、言われて本当にやる気が出るか考える必要がある。親の思うように操作してしまうなら、何が子供にとって最も大切なのか考える必要がある。勉強や習い事を<言われていやいやさせられるもの>としてやらせるか、<興味があり、やりたいからする、自分の問題であるもの>としてやらせるか、どちらが本人のためなのかを。
1.2.4 失敗体験・挫折経験の重要性
山田昌弘はいう。昔は「多少、失敗しても見捨てられないという中で、若者は希望をもって仕事に打ち込めた。今の若者は『何かミスをしたらクビを切られるんじゃないか』という恐怖感を持っている。とにかく、ミスを犯さない方だけに集中してしまう傾向がある。」(シンポジウム「未来を切りひらく人づくり 関西からの発信」読売新聞朝刊30面 2005年12月18日付)と。塾でも多くの生徒が間違いを恐れて答えを書かないことがある。間違えても誰も一切叱ったりしないというのに。失敗はあくでもあるかのような考えが学校か家庭か社会風潮から植え付けられるのだろうか。「人間は間違いから学びます。学校では間違わないように教えます。つまり、学ばないように『教えて』いるのです。大人になるほど頭で理解するだけになりますが、最近は子供のうちから学ばないように教えているので、学力が低下しているのです。」(芦永,04年,225頁)私は子供たちに対し、間違いこそ大切にしてほしいと考えるが、事例2のS・Y君は丸付けのときこちらが話し掛けようとしただけなのに、「間違いなんだ」と思い込んで、ビクッッという感じで消しゴムに手を伸ばしていた。
私が就職活動中に出会った何社かの会社で、こんな話や考え方が見られた。「うちは社員の失敗をマイナス評価したりしません。新しいことなどに挑戦したことの方を認める、プラス評価をします。」と。人が失敗を恐れて行動するとき、次の機会も失敗を恐れて無難な道を選び続けていく。新しいことにも強い不安を持ち、あまり挑戦できない人になる。これは本人だけでなく企業にもダメージである。例えば無職の状態から職に就こうとする挑戦もしづらくなると、ニートになっていたりする。
対策としては、学校でも家庭でも、上記の会社のような考え方を取り入れること、失敗を大人が咎めすぎないことや、何度でも安心して失敗を含めた経験をさせる環境づくりなどが考えられる。とがめるより、失敗から学ばせることが肝要だ。
1.2.5. 適性と、子供・若者が学ぶ内容の多様性
一昔前は自分の適性を考えずとも、特別好きなことでなくても、頑張れば点数という結果が出た。だからやって当たり前だった。社会全体が子供がそうすることを鼓舞していた。社会に出てからも、会社に従って頑張る程結果が出るから意欲をもてた。それは年功序列・終身雇用というバックボーンに支えられていた。これらは逆にいえば、学校や会社という社会に、(自分の興味とは関わりない内容が含まれる)仕事―苦役を与えられ、理想のために自分をそれに適応させる姿でもある。当時はそれが人々の共通の<幸せな人生の図式>と深く結びついていた。
今、人が自分(の興味ややってみたいことなど)を活かさなかったらどうなるか。例えば若者が十分な自己分析・社会分析(仕事内容研究など)をせず、例えば会社の高待遇や華やかなイメージに惹かれただけで就職したら、社会に出て初めてやりたいことと現実の社会とが見え、後悔して退職を考えることになる。同じく、子供が主要5教科に対して本心から興味・意欲を感じない場合で、且つ親が大学進学の進路にしか価値を見出さなければ、子供は親の意向に従って不本意入学し、入学後や就職時に後悔する可能性が高くなる。
それなら、親は主に5教科だけで子供の能力を測ろうとする、その視野をぐんと広げるとよいのではないか。そうすれば、たとえ5教科で伸びにくいが他分野に適性を持つ(<芸術家肌>や<学校教育に必ずしも適応しないアインシュタインタイプ>の)子供でも、才能の芽が摘まれて将来自分を活かして働けないという事態は減る。例えば先の話に出たアルバイト先の蕎麦屋の店長は学校教育12年間で一度も宿題をしたことがないそうだ。宿題の存在を覚えていないことが主な理由のようだ。事務的事項に関して、記憶することも作業することも苦手とする人だ。逆に物創りの才に恵まれ、根っからのアーティストで、建築家(店の改装も設計)兼陶芸家(店の食器・オブジェは店長作)兼蕎麦屋である。蕎麦だけでなく地酒に関しても造詣が深い。各活動や商売を通じた人脈は広く、顔の広さは相当なものだ。驚くほど有名な会社の偉い人が店長に「大将、美味しかった、有難う」と頭を下げる。そんな店長は自分のことを勉強・計算ができないという。しかし子供のころから適性を自覚し、それを活かす道を選びつづけてきたであろうその姿勢が、自己実現を可能としているのではないか。
ただでさえ世の中には多くの職種・学問があるが、特に現代、それらは日々多様化・細分化・専門化されつづけている。また例えば商品開発でも、従来とも他社とも違う新しいコンセプトや物を創造できる人が求められ、認められている。<他者との差異化。>子供が将来自分を生かせる道を見つけられるなら、それが5教科と直接かかわる分野(そもそも、そんな仕事がどれだけあるのか?)でなくてもよいではないか。子供が何かに興味関心を抱いたら、そのことを評価することが大切ではないか。そこから意欲を引き伸ばせるのだから。そのとき興味の対象が勉強に関係なくても、親のよく知らない分野のものでも、だ。例えば子供が虫好きなら、虫博士になるかもしれない。好きなことを仕事や自分の専門としなくても、打ち込めるものを持つ人は勉強や仕事やそれらの逆境にも強い。芯を持ち、心の拠り所をもつから。
もっとも、読み書き算・一般常識はどんな社会人にも必須な力だから疎かにはできないが、子供が自分の興味がある分野やそこで働く人を知るうちに「この道で働くにも基本的な勉強は要るんだ、なら自分もやろう」といつかは気づけるはずだ。それは少なくとも、外部からの要請でいやいややるのではなくなるよりはいい。「『好きこそものの上手なれ』、子供の能力を伸ばす最大の武器は、「子供の好奇心」です。どうやったら子供に好奇心を持たせられるか。その点に親はもっと意を用いるべきなのです。」(伊藤芳朗,00年,61頁)
自分の子を<賢いが、諦めたりやりたいことがわからなかったりする人、仕事ができる方ではない人>にするか<できること・できないことに差やばらつきがあったとしても、好きなことについては熱中し、目を輝かせる人、目標を持つ人>にするかは身近な大人にかかっている。
1.3.1 自立と子離れ
事例2・3の生徒は本人の自主性を十分にのばされずに育っている。これは就職以前の思春期前後で問題が表面化するだろう。今まで(自主性という一部分ではあっても)自我の芽生えを抑えられていたこともすでに発達上、問題だ。これから進路も含めて人生を生き、自分の課題を見つけて取り組んでいくにあたり、本来自分がやろうと決めて選び、取り組むはずのところを親という他者に全て決めて用意されたり、自分ですべき(言うべき)ことを横取りされたりする人生というのは、自分の人生を生きることにはならない。自分は何者なのだろう?という問いをもったとき、自分なりの答えらしきものを獲得できない、つまりアイデンティティ(自己同一性)を確立できない危険性もある。
またO・Y君については、親の理不尽な部分に気づけているが、親をおそれて反抗的態度をとる挑戦をできずにいる。いやなこともあっても、厳しく怒鳴られて自分を否定されるように感じるよりは親のやり方に従う方がましだからだ。何が問題か。思春期の中で、親との熾烈な戦いを経て親を超え、自分に関する決定権を親から取り戻せるかどうか。長年強いられてきた勉強を、社会に出るまでに自分の人生のかけがえない部分として統合できるか、つまり納得できるかどうか。その上で進路を選び、歩んでいけるか。また、狭すぎる視野を広げられるか。それらの課題を乗り越えなければ社会に出て活躍することを期待しにくい。だが、いくら説得しても、まだ13歳には話が早過ぎるのか、親に従うことに甘んじる姿勢は今のところ変わらないようだ。
1.3.2 子供のペット化
冒頭の事例で挙げたように、親からの過干渉を受ける子供がいる。それらの子供に接すると、干渉を受ける分、自分でできることが少なくて、<親がそれだけ愛情をもって子育てしているということだから安心>ともいっていられない状況がみられる。又、伊藤もこういう。「親が気づいていなくても、子供は気づいているのです。親が愛している対象が、自分ではなく、『子供を愛する親』自身だということに。」(伊藤芳朗,00年,57頁)そして「この『〔子供をかわいがっているという自分〕を愛する親』『子供を自分の愛玩道具としている親』のことを、(中略)『子供のペット化(現象)』と名づけ」た(伊藤芳朗,00年,57頁)。
ペット化の実態としては、「親は子供の全生活を支配しようとします。(中略)お受験(中略)、その他ありとあらゆる『お稽古事』は、親の見栄と自己満足のために通わされます。子供が通うのを嫌がったら、それは『わがまま』として一蹴されるか、罰を加えられて強制的に連れて行かれます。」(伊藤芳朗,00年,59・60頁)いやいややらされることの弊害は意欲のところでみた。
1.3.3
ペット化に至る背景
今の親世代は高度経済成長期以降に育った。彼らは世の中一般と同じ(行動様式・考え方)であることを規範とするよう、「いつも『みんな』(漠然とした共通の行動規範)にあわせ」ることを「無意識のうちに生活の流儀」とさせられて育った。結果、「自分のありのままを自分で肯定したり受容したりするのが苦手になる。」(汐見,00年,74頁)
では何を肯定したかというと、自分を抑えて親の要請に従うこと(良い子化)だ。進路に関して言うと、自分が本当にやりたいことを探らず、受験勉強に勤しみ、少しでもいい学校に入ること。彼らが大人になり、子供を持ってもその点は変わらない。子供に対し、無邪気に遊ぶ時期を短くさせ、受験勉強の準備開始を早めた。自分の子供がありのままの自分であることによって行動するとき、今の親世代はそれを認めづらい。親自身にとって、ありのままの自分やその欲求は異質で否定の対象だから。これを生まれて十数年も続けられるのだから、子供が自信や意欲を失った人に育つのも無理はない。(親世代が そうならなかったのは、同世代みんなが同じような境遇にあったことと、少子社会の今よりは家族外で人間形成されやすかったためストレスを感じにくく、救われやすかったからだと考えられる。)今の子供は親の教育における強い権限の下、家族外に逃げ場が少ない。その状況で、全幅の信頼を置く親からありのままを受け入れられないというのは、それだけで問題となる。幼いころから大きなストレスを抱えた子供は例えば、一つ何かを間違えただけでパニックに陥り、他にも似た境遇の子供がいるので、合わさって学級崩壊とを引き起こす。
なぜ子供に干渉してしまうのか。まず、上記のとおり、親自身が社会や自分の親からの要請に従って育ったから。意欲の項でみたように、子供を信じて待つことができない。「自らの人生を豊かにする方向での夢を失い、『子供を偉くすること』が自分の人生の最大の目標と思い込んでいる」(伊藤芳朗,00年,216頁)から。主にこれらが考えられる。
背景をさらにみると「日本では、子供の評価が、そのまま母親に対する評価となって」(伊藤芳朗,00年,58頁)いる状況がある。(伊藤は「平均的家庭での父親の存在感の薄さ」の異常さより、「母親」と表現しているが、私は父親が子供のペット化の主体である家庭の生徒に接したので、両親という意味で「親」と表現する。)そのため親は「自分の自己実現と子供本人の自己実現の区別ができなくなっている人」が多く、「子供は自分とは別人格であることを忘れ去り、子供が自分の手の内で動いていることで安心を得ようとする。」(伊藤芳朗,00年,59頁)子供を自分とは違う個人として認めてうまく付き合うために欠かせないことを、次にみる。
1.3.4 話すということ
塾で子供たちを見ていると、コミュニケーション能力も二極化していると思う。何か聞かれたら相手に伝わるように反応を示せる子、要望をきちんと伝えられる子、講師の説明を自分の言葉に直して「つまりこう?」と返せる子達も多くいる一方、あいまいな返答しかできない子、質問とずれた答を返す子、何か聞いても黙ったままの子、必要な主語等が抜けすぎて相手に配慮した会話ができない子なども少なくない。この違いは親子間の対話が十分か不十分かによるものだと思う。
芦永はいう。「親子でコミュニケーションをとるというのは、勉強をするにあたって、なくてはならないものです。(中略)親子のコミュニケーションがないままに頭のいい子を育てようと思っている人がいたら、(中略)種を巻かずに芽を出させようとしているようなものです(中略)。それくらい親子のコミュニケーションというのは、勉強をする上で大事なもの。伸びない子はこれがないし、よく伸びる子はこれがあるのです。(中略)親でありながら、学習塾や学校の先生にそれを求めるようでは、そのうち、子供の心は親のあなたから離れていってしまう(中略)。」(芦永,04年,217・218頁)
ではただコミュニケーションをとろうとすればよいのか。例えばO・Y君は家での会話が少ないだけでなく、会話をしても親が一方的にしてくることが多いようだ。喋り好きな彼は軽いストレスが溜まるからか、塾で自身による授業妨害という程喋りかけてくる。伊藤はこういう。「そもそも、親が一方的に話しかけ、子供が相槌を打つ。そんなコミュニケーションは、適切な親子の会話とは言えません。」(伊藤芳朗,00年,177・178頁)又、別のパターンについてこう述べる。講演会で「『親子の会話が大切』(中略)『子供のことを案外親は知らない』と言われた。(中略)親は、家に帰るなり、子供に尋ねるのです。『ねえ、最近何か悩みはないの?』親が子供に質問する関係もまた、適切な親子の会話ではありません。親は、子供を監視する機関ではないのです。まして子供が話したがらないことを問い詰めてまで聞くようでは、子供が逃げて行きます。(中略)思いついたように親から質問したって、子供は親の思いつきの質問だということなどお見通しですので、まともに答えようとはしません。自分の悩み事を、そんなに軽く考えてもらいたくないからです。」(伊藤芳朗,00年,178頁)「適切な子の会話とは、『子供が親に話し掛けてくる』もの」で、そのために親は子供が自分から話し掛けてくることを待つ他ない。ここでも待つことが肝心なのだ。そしてそれは簡単だ。「なぜなら、子供は放っておけば、親に話しかけたがりますから。子供にとっては、親は一番のストレスのはけ口であり、一番親しいと思っている相手なのです。」(伊藤芳朗,00年,178・179頁)「もちろん、会話ですから、いったん口火が切られれば、親が質問したって構わないし、突っ込んでも構わないのです。(中略)親子の会話は、子供の内的欲求に基づくものでなければ、ただの『尋問』になってしまうのです。」(伊藤芳朗,00年,179頁)
1.3.5 子供の自立
親が子供を産んだら、その子供もいつか大人にならなければ社会は成り立たない。他の動物と同じで、子供が大人になる繰り返しによって人類は続いてきた。大人になるために必要なのは社会(経済)的自立と精神的自立だ。自立、つまり自分で行動しなければ自分の人生ではない。
確かに、生まれたばかりの子供は無力で、生活全般に大人の保護・助けが必要だ。しかし、子供の成長につれて助けをだんだんと減らす。例えば、食べさせてあげていた状態から、自分でスプーンを持って食べさせるようにするなど。子供の方も大人の手出しを拒んで自分でやりたがるなど、自立の芽を持っている。子供の援助を減らすことを続けるからその分子供も成長でき、援助の必要がなくなったときに自分で生活できるようになる。「思春期を過ぎると、親のやるべきことはほとんどないのです。」(伊藤芳朗,00年,221頁)親は子供を社会に送り出せて子育てを完了する。まずは親が、子供の成長に応じて<助けを抑え、子供を信じて本人にやらせてみる>ことが自立の第一歩だ。
O・Y君の話などを聞くと、親は「子供には絶対こんな道に進ませなければ」という進路プランの固定観念にがんじがらめになっていて、本人の意向を聞かずに親の方が駄々をこねて我儘言っているように思える。子供の自立を考えると、子供の前に厳密にレールを敷いてそこを歩かせなければならないという考えは、本人のためにも早々に改めるべきだ。「本来、教育・子育ては、『サポート』(中略)『援助』でなければならないのです。子供はみな伸びる芽を自ら持っている。そして、私たち大人が施すのは、周囲の土に水をやり、肥料をやるだけ。そうすれば子供たちは勝手に伸びてゆくのです。伸びていく方向は誰にもわかりません。(中略)全く予期せぬ方向に伸びていくことはままあるでしょう。しかし、それもまた、大人が古い頭でそちらの方向は違うと決めつけるものではないはず」(伊藤芳朗,00年,220・221頁)だ。試験を当人しか受けられないのと同じで、人生は子供本人だけのものだ。親は子供の成長を見守り、支え、ともに喜ぶことはしても、侵入して親の勝手で思い通りに操作するものではない。
1.4.1 親がすべきこと
衣食住という生活の基本部分以外に親が子供に与えるべきものは何か。色々あるだろうが、私が大切だと考えるものを挙げる。まず、子供より年長者だからこそできる、人生の先輩としてのアドバイス。社会が変わりつつあり、特に若者はかつてとは違う生き方を見つけつつあるので、親の経験は直接適用できないかもしれないが、それでも親の場合の例を知ることも大切だ。現代の子供は大人・職業といえば教師か親ぐらいしか接点がなく、多様なキャリアや生き方を知らないから。
次に、子供を見守りつつ、子供が人として誤った方向へ進みそうなとき、気づかせて修正させることだ。
また、和田は現代では「避けがたい若者の『道程』」となった「受験勉強を、結果の合格不合格にかかわらず、子供自身が貴重な自分の人生経験としてその後の人生に『統合』できるように、」つまり「それが子供の『本当の自己発見』の道となるように(中略)助けてやらねばならない」(和田,95年,28頁)という。そうすれば子供が受験勉強を<親が言うからやったんだ,自分がやりたかったのではない>としか思えないとか、自分に納得できず怒りや後悔の念をもつようなこととかにはならない。そのために必要なこととして親たちが「『立ち止まって休む勇気』をもつこと」を挙げている。そ れは「一度きっぱりと今の生活をとめてみる」(和田,95年,31頁)ことで「露わになる『自分の限界を知り、忘れられた連関に気づく』ことである」(和田,95年,31頁)とし、その契機として仏教の「生老病死」について触れている。ともかく「人間の真実に正面から向き合う覚悟を取り戻す」(和田,95年,32頁)ことが必要だ。和田は高校生の子供を持つ親に呼びかける。「いったい皆さんは、自分の子供が生まれときに何を思ったか。この子が将来東大に入らなければ要らぬと考えたか。そうではない、ただ元気で生まれてほしい。それだけで有難い、幸せだと思ったのではないか。(中略)その時体験したことが人間の真情、真実なのだ。『休む勇気をもて』とは、『この極限状況の原体験に変えて人生をもう一度遠望してみよ』ということ」(和田,95年,32頁)だと。そしてこうまとめる。両親が「人生に対する遠望を持ち、家庭が落ち着きを取り戻すとき、子供もまた自分なりに人生を遠望し、主体的に受験に取り組む『ゆとり』ができるのであり、試験の結果の如何にかかわらず、その経験を貴重な自己発見、自己形成の契機としてその後の人生に積極的に統合することができるようになるのである。」(和田,95年,33頁)と。
1.4.2 子どもへの期待
子どもを育てるに当たり、健康であること以外を期待することを悪いとは考えない。例えば習い事でいうと、社会を知らぬ幼い子どもには、世の中の膨大な分野の中から何をしたいかなどすぐに選べない。だから親が考え、決める。幼い頃から体操を習わされた場合、成長してから、習わせてくれたことを親に、感謝することは考えられる。しかし習いごとをする中で本人がやりたくないと言い出したら、やめさせることを検討すべきではないか。(実際にはO・Y君のように言い出せないことが多いが。)ただ自分を押さえ、大人の要請に従うよう堪え忍ぶ子に育てたいなら別だが、本当はいやなのにやり続けさせていたら、(本人が動機をもって始めたのでなく、親が始めさせたのだから)親の勝手(期待)を押しつけたことを詫びるべきではないか。それが人と人の関係だ。親子だからといって一方の思い通りということはない。これらのことが、受験勉強、進路選択などすべてのことに当てはまる。
1.5 まとめ
今、親に求められる役割は、子供との対等な対話、子供を少しずつ自立に向かわせる子育て、子離れである。
あたりまえのことに気づくのは難しい。大切なことに気づくのはたいてい、それを失ったり、気づかずにいられないほど深刻な問題が身近に起こってからだ。それでも、私は子供に教育熱心な親に問いたい。お宅では子供に何を話し、与え、どんな親の姿を見せているかと。点数・偏差値に一喜一憂することなど塾にでもできる。他の誰でもない家族だからこそ重要なことがある。子供の本音を聞いているか。愚痴を聞いて肩の荷を軽くさせているか。その子らしさを認めているか。その子の適性をつぶさず認めているか。過剰に期待を押し付けて<勉強しかできない子>にさせていないか。<なぜ勉強・受験させるのか>という当たり前の問いを改めて自分たちに問い掛けて答えられるか。子供を勉強・受験に向かわせることで自分たち親の満足が目的化していないか。
2.
以上のことを、一アルバイトに過ぎない講師が、生徒の親に提言できるのかを次に考察する。
私はこれまであらわした考えを生徒の両親に伝えるということを、今までしてこなかったし、おそらくこれからも伝えないだろう。<問題に気づいていながら対処しない、解決に向けて行動に移さないとはどういうことか?><アルバイトとはいえ、子供の人生の一部を預かる、教育の仕事に携わるものとしてそれでよいのか?>という自問はO・Y君を担当し始めてまもなくからあった。それでも伝えないのはなぜか。私に生徒の両親への提言をさせなくするものとは何か。
教え諭すべき概念(聞き手の思いこみを変える話)があり、聞き手がそれを受け入れることが可能になるのは、聞き手が大人の場合、聞き手が話し手に対して「この人の話は受け入れられる」という構え(信頼)をもて、且つ自尊心を失わずに済む場合なのだ。固い信念をほどくには相手が教育学者とか名を成した人とか、役割・肩書きをもつ必要がある。講演会がいい例だ。他にも、受験のことなら学校より塾の方が、情報が多く信頼できると頼られることなど。全く同じ内容の話を聞くにも、話し手のステータス・役割が異なれば受け入れられる度合いは異なる。人は相手が自分から見て相対的に上の者か下の者かという判断など、情報内容とは別の副次的役割を含めて、話を聞くからだ。
近代型家族社会が普及するまでは、家族と社会の境界があいまいであり、子供のしつけや人間形成の大部分は地域社会に組み込まれていた。たとえば子供が親の目の届かないところでいたずらをしていたら、地域の人が親の代わりに子供を叱ったり、後で親に知らせたりした。その際、自分の子供を叱ってくれたことに対し、親は感謝した。しかし現代では子供のしつけに関して強い権限を持つのが親である。
このような時代においても、学校の教師や塾の塾長であれば、親に対して教育に関する口出しを比較的しやすいだろう。プロとして教育の仕事をしているという社会的役割が親から認められるからだ。(実際には塾の社員はほとんどが教育学科出身でも教職免許を持つのでもない。日々の業務でも、上からの命令を聞きつつ自校の業績を上げるための教室運営をするという激務に追われるのであって、個々の子どもの育ちを考えることは現実的にはなかなかされないのだが。)
それでも今の時代に「ウチの子」に関する口出しは、学校の教師にされるのでさえ嫌悪されやすい。
ましてや私はというとただの学生アルバイトの講師である。生徒の親からすると、子供を産み育てたこともなければ、自分(親)より人生経験も浅い、偉そうなことを言う権利のない人間だ。そんな人間に自分が信念でもってやってきたこと(子育て)について口出しされても、考え方を改めるには至り難いだろう。塾を利用する親が、授業料を払って講師に求めることは、学業面で子供の力を伸ばすことだ。他のことは期待していない。まして、親がわらにもすがらざるをえないような深刻な問題がまだ起こってもいないのに突然口出しをしたら、親が自分の価値観を否定されたと感じ、私は怒られたり相手にされなかったりするだけだ。「騙されるものか」と、余計意固地になられるかもしれない。というように、口出しすることによって悪い結果は多く考えられるがよい結果が期待しづらいのだ。
「親が個人的に」ではない教育問題対策として考えられるのは第1に学校だ。私はニュース内で食育に関する特集を見た。間食するために夕食が遅れ、就寝時刻が遅い子が多く、寝坊や授業中の居眠りも少なからずあった学校だ。取り組みでは野菜を授業内で育て、休職として食べる。子供たちは野菜を好きになり、それまでより明らかに多い寮の野菜を習慣として食べるようになった。昼食時の満腹感が高まり・持続し、間食が激減したため、諸問題も改善したという話だ。子供たちはカメラに向かい「野菜大好き!」と叫んでいた。
また、別の職業教育の特集では職業体験の二日目に遅刻した息子(起床時刻には母親は出勤していた)に対して、母親が「信用を失うんだよ?」と、学校では教わる機会の少ない大事なことを話し伝えていた。
どちらの例でもいえることには、学校の取り組みや、それによる子供の変化によって、親もいくらでも大事なことを気付けたり、子供に伝えられたりするということだ。親がはじめから自分で気付けなくてもいい。「これって子供に教える必要があったんだ」と気付くだけでも天地の違いなのだ。
教育される内容が親にとって道である場合はどうか。例えば親が子供時代に得られなかった自然体験の機会を子供が得たとき、親が妬んで阻むのはよくない。むしろ、子供の学びを追体験すればいい。子供の人生を追体験できるのは、成長を見守るものの特権だ。また、その気なら親もともに自然体験すればよい。学びに遅すぎることはないから。
第2に地域だ。地域による子供の教育に対する意識が地域全体で高まると自然といろんなことが進みだす。個々の親が一塾講師の話を聞き入れるのは無理があるが、ここまで意識が高まれば、その流れの中で、流れを速める概念として、親に地域にすんなりと受け入れられやすい。が、地域が子供を受け入れるには、場所・安全確保などの費用・人員などの問題があるし、まとまった数の住民が行動を起こすには住民の多くが<今の子育て問題><個々の親だけの力の限界><地域ぐるみでの活動の必要性と可能性>などを知り、自覚する必要がある。目に見える効果を出すほどになるには、1世代分くらいの年月を要するかもしれない。
第3に塾やNPOなどだ。読売新聞朝刊社会33面2005年11月10日付によると河合塾が経営するドルトンスクールは総合学習を取り入れている。小学1年生の前半は砂糖など8種類の「粉」を教材にした。後半は「宇宙」。「宇宙食を食べたり、惑星の並び順通りに「宇宙すごろく」を作って遊んだりする。」
授業は「太陽の光の下に出ると、どうなるかな」「じゃあ、太陽の光でどんなことが出来るかな」といった問いかけから始まる。「問いかけの後は、実際に太陽の力を確かめる時間だ。感光版に絵を描き、日光に当ててスタンプを作る教材で、子供たちは(中略)思い思いの絵を描き、塾のビルの屋上に出た。」「知識を一方的に教えて丸暗記させるのではなく、思考力や自主性を高めるのが狙い。(中略)」と小学生の部チーフの梅田均さん。また、別の塾サピックスは環境をテーマに集中講座「エコクラブ」を開いた。「約1300人が参加した。」「さらに規模を拡大する予定だ。」「環境問題は、これからの子供たちに裂けて通れないテーマだが、社会や理科の勉強だけではカバーできない。生きる力を育てたい」と専務はいう。
このように塾も変わりつつある。私は、生きる力を持てている子供は従来の学習塾に行くのでよいと考えるが、学びに対する姿勢(知識に対する好奇心など)を引き出されていない子供や、科学的知識を全体的な知恵にする力をもてていない子供は学習塾に先んじて体験活動をする方がよいと考える。そうすれば、どのタイプの子供も、生きる世界から多くのことを楽しんで学べる。
おわりに
人口減少が当初の予測より早く始まるという調査結果が出てから,新聞などでは超少子社会の特集がよくみられる。日本では子供を産み育てることへの負担感が大きい。
そんな社会で子供を産むと、<せっかく,精神的・経済的苦を伴って長い期間子供を育てるのだから、あれもこれもできる子にしよう>と、家庭のエネルギー(時間的・経済的余裕)を子供だけに向けやすい。目に見えないものも含めてあらゆる物を与えられて不自由なく育った若い世代は、ハングリー精神など持ちにくい。一方で現実としては、言われることをこなせばどうにかなる楽で甘い学生生活・いつでもやめられるフリーター生活・面倒くさくないニート生活から、厳しい社会に出るには大きなエネルギー・意欲が必要だ。かつての若者はより豊かで安定した生活・温かい家庭・確かな老後などに希望を持って、社会に出るのが当然だった。今、不変の右肩上がりの成長などないことくらい子供でもなんとなくは分かる。社会や親から<頑張っても厳しい・しんどい>らしいと嗅ぎつけると、ハングリー精神のなさもあって<頑張らなくてもほどほどでいいや>となりやすい。これが大人には<やる気あるのか?悪い意味でおとなしいな>とされる。が、逆に言うと私たちの世代は自分にとって本当におもしろい何かを探る機会が早いうちからあり、それを見つけたときには温存していた強い力を発揮できるという性質の世代なのでは、と考えている。だからこれからは<5教科とも90点>より<4教科0点でも1教科100点>が評価される風潮に向かうと思う。それが就職・転職活動でいう<自分の強み>である。
人類共通の環境問題から日本の年金問題まで問題が山積みで、簡単に希望がもてるとはいえない時代だ。子供たちには、そんな現代に生まれたからこそ、せめて生きる喜びを知り、自分の手で進む道を掴み、自分の特長を活かして、人生にも親子関係にも納得して生きてほしい。楽しく生きてほしい、これからほど個々人が自由にそれぞれ多様なライフスタイル・働き方・生き方を創り上げられる時代はなかったのだから。そう、切に願う。
引用文献
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(2)汐見稔幸『親子ストレス 少子社会の「育ちと育て」を考える』平凡社 2000年
(3)伊藤隆二・坂野登編『入門 子供心理学1 子供の自発性と学習意欲』日本文化科学社 1987年
(4)伊藤芳朗『知らずに子供を傷つける親たち チャイルドマルトリートメントの恐怖』河出書房新社 2000年
(5)シンポジウム「未来を切りひらく人づくり 関西からの発信」読売新聞朝刊29〜31面 2005年12月18日付
(6)芦永奈雄『「本当の学力」は作文で劇的に伸びる』
大和出版 2004年
参考文献・番組
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池田晶子『14歳からの哲学 考えるための教科書』 トランスビュー 2003年
伊藤友宣『話し合えない親子たちー<対立>から<対位>へー』PHP新書
梅香彰『「恋する力」を哲学する』PHP研究所 2004年
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小浜逸郎『大人への条件』筑摩書房 1997年
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総務庁青少年対策本部『中学生の母親』「青少年の校外活動と家庭に関する国際比較調査」報告書 1991年
中谷彰宏『尊敬できる男と、しよう』大和書房 2001年
信田さよ子『愛しすぎる家族が壊れるとき』岩波新書 2003年
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夕刊フジ13面「男の子育て10か条」 2005年9月3日付
読売新聞朝刊24・25面 2003年5月10日付
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読売新聞朝刊社会32面 2005年12月16日付