売れっ子作家の日

 人それぞれではあるものの、現代の小説家の多くはペンを持たない。これは、ワープロやパソコンの普及に起因している。
 今やペンを走らせる代わりにキーボードが連打されているのだ。
 しかしそれもしない作家もいる。
 それが可能なのは、口述筆記という方法があるからだ。
 作家の言葉を直接、あるいは録音したものを、速記なりキーボードなりで文字化する方法である。

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 売れっ子作家の赤玉史郎は、口述筆記による創作を決意していた。なぜなら何社もの連載を抱える今、執筆時間の短縮が急務だったのだ。
 しかしもともとペン派だった彼にとってキーボードなんか今まで一度も触ったことがないし、ディクテーションソフトを使いこなすなどとはパソコン音痴の彼には『絶対無理』の四文字だった。
 人を雇い入れ、彼が読み上げる文章を直接電子文書化していく、この口述筆記が唯一残された選択肢だったのだ。今日が初めての書斎に、きょろきょろと落ち着かない『書記』が、キーボードを前にして待機している。

 赤玉は書記に目配せでスタートの合図をしてからいきなり始めた。
 「カギかっこ、そりゃあ、前代未聞だ、句点、君が、二重カギかっこ、見たこともありません、二重とじカギかっこ、だなんて言うとはな、閉じカギかっこ……」
 書記は赤玉の言葉に合わせ、即座にキーボードを叩いたが、何か解せない顔つきになってから手を挙げ『待ってください』のポーズを取り、赤玉の口述を止めた。そしてカタカタとキーボードを打ち直している。
 「どうしたんだ?」
 「す、すいません、今おっしゃられた『二重カギかっこ』を記号じゃなく、そのまま文字で打ち込んでしまったので修正しています」
 「おいおい、君もプロなら脈絡で即座に判断してもらわないといけないな。二重カギかっこはだな、セリフの中に他の人物の発言を引用するときなんかに使うんだよ」
 「すいません、まだ赤玉さんのやり方に慣れてないものですから……」
 「まあ最初だから仕方ないけど、今後のために言っておこう。二重カギかっこにするなら――さっきの君の言葉を例にするとしてこう言うからな、――す、すいません、今おっしゃられたセリフの、二重カギかっこ、二重カギかっこ、二重閉じカギかっこ、も文字にしてしまったので修正しています――ってな」
 「え? 『二重カギかっこ』と二回おっしゃいましたよね? 二回目の二重カギかっこが閉じていないのですけれど……」
 「ちがう! その二回目の『二重カギかっこ』は記号の二重カギかっこと区別しなければならないから二重カギかっこで囲むんだ。すなわちボクの言った『二重カギかっこ、二重カギかっこ、二重閉じカギかっこ』の中間の『二重カギかっこ』は二重カギかっこの記号じゃなくて、『二重カギかっこ』というセリフなんだ」
 「ああ、ごめんなさい、記号とセリフの区別が付きませんでした。今後は気を付けます」
 「まあ、もういい。時間が惜しいから次いくぞ――カギかっこ、何を根拠にそんなことを、クエスチョンマーク、一文字あけ、私は事実を申したまでで、全角ダッシュ二つ、あの人物には会ったことがありません、読点、と、句点、証拠があるなら見せてもらおうじゃありませんか、エクスクラメーションマーク、閉じカギかっこ、改行、カギかっこ、ははは、三点リーダふたつ、ずいぶん強気だな……」
 「あっ、あっ、はっ、そのっ、ちょっと待って……」
 「今度は、何だ!」


 売れっ子作家の赤玉史郎はペンをやめ、キーボードも打たず、今日から口述筆記に踏み切った。
 これはひとえに原稿の仕上げをスピードアップさせるためだった…

おわり


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