3月
今の「つぶやき」に戻る


2月は短い! at 2003 03/01 22:57

あっという間に3月に突入。2月は31日まである月に比べれば3日短い。3日がそれほどの差があるかといえば、どうもあるような気がする。毎年、2月は「あっという間」に終わる気がするのは私だけだろうか?

PS:昨日は「おっぴんのつぶやき」を間違えて「伝言板」に書いちゃいました。お詫びします。


内視鏡の話 at 2003 03/02 23:06

我が家と職場で内視鏡(胃カメラなどのこと)で一つの疑問があった。

内視鏡=胃カメラ、つまり口から入れるイメージだが、腸など調べる下から入れるのもあるのだ。

さて、これらは「同一のものを使用するのだろうか?」という素朴な疑問があったのだ。

「尻からいれたものを口から入れるか」派と「同一機器使用」派に分かれ大論争となったが、真実は明らかにされずにいた。

今日、別件で看護婦の友人に真実を訊ねた。その結果…。

「同一機器使用」派は敗訴。正解は口から入れるものと尻から入れるものは異なるそうだ。

これで今日は枕を高くして眠れると言うもの。良かった!


ホントの師匠は「あのねのね」(音楽事始メ@) at 2003 03/08 00:32

久し振りに音楽ネタに戻ってみよう。

私がギターを始めたきっかけは「ギターかフルート、どっちか欲しいの買ってやる。どっちにする?」父のこの言葉に始まる。多分小学校5年の頃はフォーク全盛期で、兄貴も私も迷わず「ギター!」と叫んだ。(ホントに叫んだかは定かではないが…)

さて、我が家にフォークギターがやってくるの心待ちにしていたある日、それはやってきた。しかし、フォークギターにしては「やけに小さい」のだ。ケースから出してみるとそれはフォークではなく、クラシックギター。しかもかなり小さいミニギターだった。ややがっかり…。

とはいえ早速中学生だった兄貴が近所の書店で教則本を買ってきた。しばらくは兄貴が喜んで触っていたが、やがて飽きてしまい、今度は私の番。最初はドレミファソラシドがやっとこさであったが、やがて「運命の一曲」と出会うこととなる。

先程も書いた通り、当時はフォーク全盛期。様々なフォークの連中が有名人となっていた。その中に彼らがいた。彼らの曲はコードが2つとか3つで弾ける曲がいくつもあったのだ。
私が始めて演奏できた「運命の曲」のタイトルは「僕のお嫁さんになる人は」。コードがDとA7しか出てこない。

Fに代表されるセーハ(6本の弦を人差し指で全部押さえる)が出来ずに、多くのギター挫折者を産んでいる。しかし、彼らの曲はそんな難しいものが出てこない。たて続けに「空飛ぶ円盤の唄」「赤とんぼ」(何れも使用コードは3つ。しかもほとんど構成は一緒)など3曲を弾きこなした。これで味をしめた私はその後、コードの幅を広げていくのであった。

というわけで日頃「私の師匠は“さだまさし”」なんて言っておりますが、ホントの師匠は「あのねのね」なのだ。(若い人は知らないかな?)

さて、フォークギターに移行するには若干の時間がかかるが、それはまたいずれの機会に。


本番に弱いタイプ at 2003 03/08 23:31

あまりに字が汚いので、通信教育で「筆ペン」のレッスンを始めた。

といっても書道はちゃんと習ったこともなく、書道のキャリアといえば、小学校1年の時に親父の見本を上からなぞっただけで提出した「ふじ」と書いたのが、書初めコンクールで学校代表となり、他校に遠征した位。

この通信教育は実用的で、即戦力型。祝儀不祝儀を中心に構成されているため、ご祝儀袋・芳名帳の書き方などすぐに使えるものが多い。すでに2度の課題提出を経て「俺もなかなかジャン!」なんて少し調子にのっていた。

明日、知り合いの結婚式に備えて祝儀袋の準備かかった。成果が試される時がやってきたのだ。先生直筆の私の氏名の見本を見ながら慎重に筆を進めたのだが…。

結果は習う前と大した差はない。やっぱり私は本番に弱いタイプなのかしら。

いつになったらうまくなるやらねえ。


ばくさんのLIVE at 2003 03/11 23:51

久々にばくさんのLIVEを聴いた。やっぱり良いと再認識。

「今更そんなこと…」と思われる方が多いかとは思うが、その日は最初の二組の出演者に不快感を覚えていたこともあり、一層胸に染み渡った。

オリジナルの「海風」は奥様と一緒に海を眺めていた情景を唄ったとのこと。目をつぶって聴いていたら、その画が浮かんできた。こんな素敵な曲が作れるばくさんはやっぱりスゴイ!

LIVEが終わって帰宅。カミサンも興奮して「やっぱり、ばくさん良いよね」を連発していました。


「あと1マイル」 at 2003 03/23 10:04

「戦争なんて関係ない」そう思って過ごしていた時期があった。

太平洋戦争は随分前だし、ベトナム戦争も他の国のこと。中近東の争いも所詮「ニュースの中」のことだと思っていた。

しかし、年齢とともに意識は変った。(当たり前だし、気づくのが遅くて恥ずかしい次第)母は戦災孤児で2度もらわれていた。母は実の兄とも戦争で離れ離れになり、20数年の時を経て母が探しあて再会となった。

私が産まれる15年前まで太平洋戦争はあったのだ。随分前ではなく「たった15年前」の出来事だ。ベトナム戦争だって物心ついた頃だから、良く覚えている。

ハワイに行った時は日本の奇襲攻撃の象徴「戦艦アリゾナ」記念館に行った。シンガポールでも戦争の博物館に行った。沖縄で「ひめゆりの塔」や平和祈念公園に行った。いつか特攻隊の基地のあった知覧に行きたいと思っている。

21世紀に入ってすぐこんな戦が始まるとは。人間は過去から何を学んでいるのだろうか。これだけの科学の進歩と英知を持ちながら、武器でしか解決方法を見出せないのだろうか。それだけの武器を開発する能力があるのなら、何故理解しあえないのだろうか。

大リーグの中止、ガソリンの値上げ、交通機関や楽しいはずのディスニーランドでもテロ対策の荷物検査、海外旅行の自粛、見えないテロの脅威など身近に戦争の影響は色濃く出始めている。

いつか我々が自由に唄えなくなってしまうのだろうか。

我々が最近唄っている曲「あと1マイル」の歌詞を以下に記す。

 あなたが銃弾に斃れたのは 味方まで1マイルの場所だった
 私が贈った腕時計の 日付がその日で止まっていた

 あなたの手紙が届いたのは その日から1週間あとだった
 右下がりの懐かしい文字は こんな風に綴られていた

 「誰があなたに射てと命じたのか そんな風にお前を育てていない」
 母の声がいつも耳に残って 僕はいい兵士になれそうもない

 あなたの手紙を読み終えたのは 戦が終わった翌朝だった
 最後の頁に520の 私の名前が記されていた

 あなたは一体誰の為に 私まで捨てて戦ったのか
 よその国では若者たちが そしらぬ顔で遊んでるのに

 「誰があなたに射てと命じたのか  そんな風にお前を育てていない」
 母の声がいつも耳に残って 僕はいい兵士になれそうもない

 あなたの手紙を何度も読み返した あなたの声は聞こえなかった
 最後の頁に520の あなたの愛が刻まれていた

 あなたが銃弾に斃れたのは 味方から1マイルの場所だった
(詞曲 さだまさし)


戦争は何も創造しない。作り出すものは悲しさと虚しさだけ。犠牲になるのはいつも弱い人ばかり。「うちの母のような子どもをこれ以上作らないで」と祈る。


ホームページあれこれ at 2003 03/26 00:36

最近は無料で掲示板使えたり日記が書けるので便利だ。写真だってアルバムサイトにおいてリンクすれば良い。自分で作らなくても、それらを使えばそれなりのホームページが出来てしまう。

そんなこんなで使いやすい掲示板を探して、現在試用中の「もうひとつのらくがき帳」とときえの日記「とっきーず・あい」をオープンした。マーチンルーサーと越後屋の日記も立ち上げたいと本人たちに先程メールをしたところだ。彼らがホームページに登場することで更に「るあ」の魅力がご理解頂けることかと思う。
ホームページはまだ進化を続けます。


100人を越えるお客さん、名古屋ツアー大成功! at 2003 03/30 23:44

このコーナー久々の更新です。

名古屋で唄ってきました。しかもお客さんは100名以上。気分良かった!
といってもライブではなく、知人の結婚披露宴での話。さすが名古屋、ド派手な、でも素敵な披露宴でしたよ。

知人である新郎が気を使ってくれ、出番は余興のトリ。私の前は新婦のお友達の「モー娘」が盛り上げてくれて、やり易かった。名古屋だし、曲はもちろん「関白宣言」。

今回は荷物の関係で、エレガットを持参。いつものライブ同様にプリアンプ(AD5)を通してミキサーに直接突っ込んで鳴らしてもらう凝り様。早めに行ってサウンドチェックもしちゃったりして…。

3月中旬の卒業生の結婚式でもいつも使っているTaylorを同じ使い方で鳴らしました。マイクで拾ってもらってハウるより余程ましです。披露宴で演奏するエレアコ派にはお薦めよん。

ただし、事前に会場の音響サンと相談しておくことが大切。プリからのケーブルを用意してもらわなくてはならないので。きっと当日だとイヤな顔されます。演奏終了後も音響サンに「いやー、お陰で良い演奏ができました」との心配りも忘れずに!