真田幸村(真田信繁)


一、
三途の川の 渡し賃
六紋銭の 旗掲げ
戦国時代 駆け抜けて
真田丸にて 敵打ち負かし
名をば馳せたる 冬の陣

二、
刃交えし 宿敵伊達に
愛し我が娘を 託すのは
最後に見せた 親心
赤い甲冑 身にまとい
覚悟を決めた 夏の陣

三、
敵は幾万 ありとても
目指すは家康 ただ一人
奮戦するも あと一歩
思い届かず 討ち果てた
時に幸村 四十九

okuno



≪参考ホームページ≫
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真田信繁

全興寺
首の地蔵尊
珍しい仏さまも、堂内におまつりされています。首の地蔵尊は、平野郷の樋之尻口(ひのしりぐち)という地にあった地蔵堂の本尊・地蔵菩薩のお首のこと。徳川家康と豊臣方が争った"大阪夏の陣"のときに、真田幸村が、家康が立ち寄ると見られた陣地横の地蔵堂に爆薬を仕掛けて待っていた。果たして家康は、ここに到来したが、たまたま席を立ったときに地雷が爆発したため、家康は助かったが、地蔵尊のお首だけが、ここ全興寺の境内へ飛んできた・・・家康の身代わりとの首の地蔵尊として、ここ全興寺に伝わっています。
(全興寺ホームページより)

真田幸村休憩所由緒 真田幸村休憩所由緒
かっての戦国武将真田幸村(1567〜1615) 大坂夏の陣のおり南河内誉田方面において 東軍伊達政宗軍と一戦を交えた後古市街道 を経て大坂城へ帰城途中この地にて休憩し 志紀長吉神社へ戦勝を祈願すると共に 軍刀一振りと六紋銭の軍旗を奉納した後 1615年6月(元和元年)大坂落城の前日 天王寺茶臼山にて東軍松平忠直軍と奮戦の末 壮烈な戦死を遂げた、時に幸村48才の終焉であった、 乱世の世に生まれ天下の智将としてその名を馳せ 武士道の精神を体現した幸村その意味では 戦国時代最後の武将であったとも言える、 ここに幸村を偲び謹んで由緒の一端を記すものである。
「戦国の 幸村偲ぶ 霧の朝」
平成15年6月吉日 長原歴史保存委員会


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