あゝ既成宗教        (『庚午日記』七の巻 昭和五年八月一日)

 人類の祖先と称するアダム・イブが、神様の禁制の知恵の果実を神意に反いて採食した罪悪の報いによって、その子孫たる世界の人類は、開闢の始めより今日に至るまで祖先の罪悪の血を受けているので、残らず大罪人いわゆる罪の子として生まれて来ておるから、地獄にその霊魂は落とされ、消えぬ火に焼かれて無限の苦悩を味わうべきものである。その惨状を、全智全能にして絶対の権威にまします無限愛なる神はいたく憐れませ玉いて、最愛の独り子なるイエスを現世に降し、十字架に釘付けてこれを殺し、キリストの名によって天帝に祈願するもの而巳これを天国に再生せしめ賜うと説くのが、既成宗教キリスト各派の教理である。

 以上のごとき教理は、数千年以前の人智蒙昧なる野蛮時代においては、多少の脅嚇も誤魔化しも効力があったであろうが、現代のごとく、不完全ながらも科学の進歩に向いつつある時代には、何人といえども常識を備えたる者が信じがたいのは、当然過ぎるほど当然の帰結である。誠に思え、現今のごとき矛盾と欠陥の多い自己愛のみの社会に生まれた現行刑法、すなわち神ならぬ凡人の作った法律でさえも、祖先または父母兄姉が大罪を犯したとしても、その子孫または弟妹にまで罪を科するというような不合理は施行しないのである。

 いわんや全智全能であって愛の本体とも称する神が、祖先の罪を何十万年末の子孫にまで及ぼし、これを地獄に投ずべき理由は無いはずだ。万々一左様な没分暁漢の神とすれば、それは世界の大魔神であって、吾々人類の赦すべからざる敵としてこの宇宙から宜しく放逐すべきである。しかるに現代の立派な紳士といわるる人の中にも、こんな不合理な不徹底な教理いな狂理を信じ、かかる没分暁漢の魔神に憐れみを乞い赦されんことを祈り、安心立命を得んとするは、木によりて魚を求めんとするにもまさった愚劣さであり、卑怯さである。

 文化の進んだ二十世紀の現代には、すでにすでに大部分の人民より見捨てらるべきでありましょう。既成仏教といえども、キリスト的の脅嚇や誤魔化しはあるが、これとてもすでにすでに宗教としての価値は認められていない。仏教の大乗部は別として、小乗部の教理なぞは婆媽だましの世迷言である。数千年以前の人智未開の世に適した宗教の教理を今日に施行せんとするのは、三冬厳寒の頃に用いた綿入れ着物を、土用三伏の酷暑の時代に着用せよと教うると同様にして、愚の骨頂である。かかる教理を臆面もなく誠しやかに説いているその野呂さ、迂愚さといったら、とうてい論ずるの価値さえなきものである。かくして既成宗教の各派は日に日に破産して行くのである。滅亡の淵に向って直進しつつあるのである。

(『庚午日記』七の巻 昭和五年八月一日)


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