芸術と宗教      (『霊界物語 第65巻総説』  大正十二年七月十七日)

 芸術と宗教とは、兄弟姉妹の如く、親子の如く、夫婦の如きもので、二つながら人心の至情に根底を固め、共に霊最深の要求を充たしつつ、人をして神の温懐に立ち遷らしむる、人生の大導師である。地獄的苦悶の生活より、天国浄土の生活に旅立たしむる嚮導者である。故に吾々は左手を芸術に曳かせ、右手を宗教に委ねて、人生の逆旅を楽しく幸多く、辿り行かしめむと欲するのである。

 矛盾多く憂患繁き人生の旅路をして、さながら鳥謳い花笑う楽園の観あらしむるものは、実にこの美わしき姉妹、即ち芸術と宗教の好伴侶を有するがゆえである。もしもこの二つのものが無かったならば、いかに淋しく味気なき憂世なるか、想像出来がたきものであろうと思う。人生に離れ難き趣味を抱かしむるものは、ただこの二つの姉妹の存在するが故である。

 そもそも此の二つのものは、共に人生の導師たる点においては、相一致している。しかしながら芸術は一向に美の門より、人間を天国に導かむとするもの、宗教は真と善との門より、人間を神の御許に到らしめむとする点において、少しく其の立場に相違があるのである。形、色、声、香などいう自然美の媒介を用いて、吾人をして天国の得ならぬ風光を偲ばしむるものは芸術である。

 宗教は即ち然らず、霊性内観の一種神秘的なる洞察力に由りて、直ちに人をして神の生命に接触せしむるものである。故に必ずしも顕象界の事相を媒介と為さず、いわゆる神智、霊覚、交感、孚応の一境に在って、目未だ見ず耳未だ聞かず、人の心未だ想わざる、霊界の真相を捕捉せしめむとするのは、宗教本来の面目である。

 芸術の対象は美そのものであり、而も美は神の姿にして、その心では無い。その衣であって、その身体では無い。『神は霊なれば之を拝するものも亦、霊と真とを以て之を拝すべし』と言ったキリストの言葉は万古不易の断案である。美を対象とする芸術は、よく人をして神の御姿を打ち眺めしむる事を得るも、未だ以て其の心を知り、その霊と交わり、神と共にあり、神と共に動き、神と共に活きる、の妙境に達せしむることは出来得ない。たとえ僅かに神の裳裾に触らしめることは出来得るも、その温き胸に抱かれ、その生命の動悸に触れしむることは、到底望まれない。

 芸術の極致は、自然美の賞翫悦楽により、現実界の制縛を脱離して、恍として吾を忘るるの一境にあるのである。それゆえ、その悦楽はホンの一時的で、永久的のものではないのである。其の悠遊の世界は、想像の世界に止まって、現実の活動世界でなく、一切の労力と奮闘とを放れたる夢幻界の悦楽に没入して、陶然として酔えるが如きは、即ちこれ審美的状態の真相である。

 もしそれ宗教の極致に至っては、はるかにこれとは超越せるものがある。宗教的生活の渇仰憧憬して已まざるところのものは、自然美の悦楽ではなく、精神美の実現である。その憧憬の対象は形体美ではなくて人格美である。神の衷に存する真と善とを吾が身に体現して、永遠無窮に神と共に活き、神と共に動かむと欲する、霊的活動の向上発展は、即ちこれ宗教的生活の真相であろうと思う。芸術家が、美の賞翫もしくは創造に依って、一時人生の憂苦を忘るるが如き、軽薄なものではない。飽くまでも現実世界を聖化し、自我の霊能を発揮して、清く気高き人格優美を、吾と吾が身に活現せなくては止まないのが即ち宗教家の日夜不断の努力奮闘であり、向上精進である。

 芸術家の悦楽は、単に神の美わしき御姿を拝するのみでなく、その聖善の美と合体し、契合し、融化せむと欲して進みゆく途上の、向上的努力にあるのである。死せるカンバスや冷たき大理石を材料とせず、活ける温かき自己の霊性を材料として、神の御姿を吾が霊魂中に認めむとする、偉大なる真の芸術家である。ゆえに宗教家の悦楽は、時々刻々一歩一歩神の栄光に近づきつつ進み行く、永久の活動そのものである。故にその生命のあらむ限りは、その悦楽は常往不変のもので、その慰安もまた空想の世界より来たるに非ず。最も真実なる神の実在の世界より来たるものである。

 『我が与うる平安は、世の与うるところの如きに非ず。爾曹心に憂うる勿れ、また懼るる勿れ』とは正しく這般の消息を伝うるものである。美の理想を実現するには、まず美の源泉を探らねばならぬ。その源泉に到着し、之と共に活き、之と共に動くのでなければ実現するものでは無い。而して其の実現たるや、現代人のいわゆる芸術のごとく、形体の上に現わるる一時的の悦楽に非ず、内面的にその人格の上に、その生活の上に活現せなくてはならないのである。真の芸術なるものは生命あり、活力あり、永遠無窮の悦楽あるものでなくてはならぬ。

 瑞月はかつて芸術は宗教の母なりと謂ったことがある。しかし其の芸術とは、今日の社会に行わるる如きものを謂ったのではない。造花の偉大なる力によりて造られたる、天地間の森羅万象は、何れも皆神の芸術的産物である。この大芸術者、即ち造物主の内面的真態に触れ、神と共に悦楽し、神と共に生き、神と共に動かむとするのが、真の宗教でなければならぬ。瑞月が霊界物語を口述したのも、真の芸術と宗教とを一致せしめ、以て両者共に完全なる生命を与えて、以て天下の同胞をして、真の天国に永久に楽しく遊ばしめんとするの微意より出でたものである。そして宗教と芸術とは、双方一致すべき運命の途にあることを覚り、本書を出版するに至ったのである。


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