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Gallery(2007年)




【吹き割の滝】


約900万年前の火山噴火に伴い発生した大火砕流が冷えて固まったもの(溶結凝灰岩)で、約1万年前より片品川の流れに溶結凝灰岩の割れ目に沿って侵食されて形成された。
昭和11年12月16日文部省より、天然記念物に指定された吹割の滝は、高さ7m、巾30m余りに及び、ごうごうと落下、飛散する瀑布は、東洋のナイヤガラと言われている。
この滝は、凝灰岩、花崗岩の川床上を流れる片品川の清流が、岩質の軟らかい部分を浸蝕し、多数の割れ目を生じ、あたかも巨大な岩を吹き割れたように見えるところから、”吹割の滝”の名が生まれた。             
吹割の滝に続く鱒飛びの滝の壮絶な景観、そして獅子岩と呼ばれる岩壁群の奇景など、独特の渓谷美を見せている。            






【世界自然遺産白神山地】


白神山地は、青森県(西目屋村・鯵ヶ沢町・深浦町)から秋田県(藤里町・八峰町・能代市)にかけて広がる総面積約130,000ヘクタールの地域で、手つかずのブナ原生林を主体とする、世界最大級の貴重な自然の宝庫です。
この地域には国の天然記念物のクマゲラやイヌワシを始め、学術的にも貴重な動植物が生息する、極めて価値の高い生態系が認められ、原生的なブナ天然林16,971ヘクタールが1993年12月に日本初の世界遺産(自然遺産)として登録されました。
この「世界遺産」とは、1972年の第17回ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)総会で採択された国際条約「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(通称『世界遺産条約』)」に基づいて決められる全世界共通の財産のことです。             
「ブナ林散策道」は、白神山地の奥深いブナ林を1時間ほどで気軽に散策することができます。腐葉土が積み重なった豊かな自然の中には野ウサギやカモシカ、ブナ林にしか生息しない珍鳥クマゲラなどの野生生物が棲んでいます。            






【服部農園のあじさい屋敷】

千葉県茂原市に位置する服部農園あじさい屋敷では、他に見ることの出来ない独創的なあじさい園を目指して、平成4年度より植栽に着手致しました。
以来苗の増殖と品種の収集に努め、色とりどりのあじさいの花で埋め尽くされたすばらしい景観の庭園を完成致しました。
現在、総面積27,000uの屋敷に13,000u、150品種、10,000株以上のあじさいの花が色彩豊かに咲き競います。
広い敷地内のどの地点からも美しく咲き乱れるあじさいを一望できるのも、当園の自慢です。
色とりどりのあじさいが繰り広げるパノラマはまさに圧巻です。


 


【尾瀬】

尾瀬は太平洋側と日本海側の境界付近に位置し、標高2,228mの至仏山、標高2,356mの燧ケ岳の2つの山に挟まれている広大な湿原でその面積は8,690haで東京ディズニーランド106個分に相当する。
尾瀬は、至仏山、燧ケ岳、中原山、尾瀬ヶ原(長径約6q、幅約2q)、尾瀬沼(1周約6km)と大江湿原などからなり、尾瀬は本州最大の湿原地帯である。
およそ標高1,400m〜標高2,400mにある尾瀬は、豪雪地帯で厳寒地でもあり、この厳しい環境の中で生き抜いている植物には、力強さ・美しさが満ち溢れている。
春の目覚めから再び眠りにつく秋の終わりまで、その短いシーズンを全力で駆け抜ける尾瀬。白い水芭蕉(ミズバショウ)に始まり、リュウキンカ、ワタスゲ、ニッコウキスゲと紫や紅に咲き競う尾瀬の花々。小鳥のさえずり、遥かかなたへ続く木道と緑で覆われた広大な尾瀬の湿原地帯。
この美しい自然の宝庫尾瀬は、昭和35年(1960年)に国の特別天然記念物に指定された。尾瀬は、学術的価値が高く、その保存が厳しく義務づけられている。わずかな変化でも、その影響は尾瀬全体に及んでしまう。尾瀬の環境そのものを保全するため、現状を変更してはいけないことになっている。


 


【尾白川渓谷】

尾白川は南アルプス・甲斐駒ヶ岳を源とする清流です。
尾白川渓谷道は昭和初期の文献に菅原山岳会が登山道として設置したという記述もあり、景勝地としての歴史も古い「尾白川渓谷道」です。
尾白川は「日本の名水百選」に選ばれていますが、これが納得できる水の美しさと、森林浴をしながら歩を進める心地よさ、野鳥のさえずりに時折吹く川面を伝う涼しげな風、激しく流れ落ちる滝の冷涼な水飛沫の爽快感、そして、尾白川渓谷道を彩る四季の花々、垣間見える日向山の木立の色彩など、筆舌に尽くしがたい自然の連なりにしばし時を忘れさせてくれます。


 


【藤棚 亀戸天神】

江戸の人々は植物と花が大好き。
ソメイヨシノだけでなく新種のアサガオや菊を開発するなどして、庶民たちもガーデニングを楽しみました。
神社やお寺の境内にも花の咲く木を植え、季節ごとに、人々の憩いの場として人気を集めました。
現在も東京随一の藤の花の名所として有名な亀戸天神も、江戸時代からの名所で、安藤広重の「江戸名所百景 亀戸天神境内」という浮世絵に、現在の様子とよく似た太鼓橋と藤が描かれています。


 


【新緑の大柳川渓谷】

鰍沢町の十谷地区に位置する大柳川渓谷は、源氏山を源流とする大柳川沿いに数々の美しい滝を配し、新緑の春、清涼の夏、紅葉の秋、そして銀白の冬と、四季折々に大自然の息吹を感じさせてくれるすばらしい渓谷です。
遊歩道の整備も充実しており、長さ68mの竜仙橋をはじめとする大小10本の吊り橋は、周囲の景観と調和して、美しい渓谷を一層引き立ててくれます。


 


【秩父 羊山公園の芝桜】

秩父のシンボルともいわれる武甲山の麓、羊山丘陵の斜面を利用して様々な色の芝桜を組み合わせて植裁されており、文字通りの「花のパッチワーク」で、あらたに名称を「芝桜の丘」と命名されました。
毎年拡張と増殖作業が行われ、広さは約16,000平方メートルに広がり、ピンクや白、紫色など8種(ハナシノブ科フロクス属)35万株以上で日本最大級の芝桜です。
東側から眺めた斜面のデザインは、秩父夜祭の笠鉾、屋台の山車に乗った囃子手(はやして)が着こんだ紅白襦袢(じゅばん)模様をイメージしたものです。




【好古園(姫路城西御屋敷跡庭園)】

姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」は、姫路城を借景に、発掘調査で確認された遺構を生かして、市制100周年を記念して、平成4年に造営された日本庭園です。
姫路城の南西に位置し、面積は、約1万坪(3.5ha)で、滝や池のある池泉回遊式の「御屋敷の庭」や本格的数奇屋建築の茶室、双樹庵のある「茶の庭」など9つの庭園群で構成。江戸時代をしのばせる築地塀や屋敷門・長屋門、渡り廊下で結ばれた活水軒と潮音斎のたたずまいが特別史跡地にふさわしい歴史的景観を創り出し、時代劇や大河ドラマのロケ地としても使われています。


 


【姫路城の桜】

姫路城は白漆喰で塗り固められた白壁ゆえ、別名白鷺城と呼ばれています。
白漆喰 を使っている理由は防火のためです。
他の日本の現存城郭と同じで、姫路城は石造り ではなく、木造です。従って、防火は大変重要なのです。
白漆喰は火に大変強く、な おかつ強固な補強材と言われています。
そのため、壁だけでなく、軒から柱に至るま で、ほとんどの外面を白漆喰で塗り固められています。
城は海抜45.6mの姫山という小山の頂上に建っています。
城の中心を成し、シン ボルである天守閣の高さは46.4mで、都合、海抜92mということになります。
姫路城はこの巨大な天守閣だけでなく、大変効果的かつ迷路のような複雑な防御の仕 組みで有名です。


 


【長浜城】

織田信長が浅井長政(あざいながまさ:信長の妹・お市の夫)の居城、小谷城(おだにじょう)を攻めたとき、横山城を守る木下藤吉郎(きのしたとうきちろう:後の豊臣秀吉)は大活躍しました。小谷城が落城する直前にお市と三人の娘を救出したエピソードは有名です。
天正元年(1573)9月、浅井氏が滅亡すると、藤吉郎は戦功により浅井氏の領地の大部分を与えられ、 羽柴秀吉(はしばひでよし)と名乗り、はじめて城持(しろもち)の大名に出世しました。
翌年、今浜(いまはま:現在の長浜)が交通の要衝であると考え、お城を造り始めました。築城工事のため領内の住民を集めたり、竹生島(ちくぶしま)の材木を運んだりした古文書は残っていますが、当時のお城の絵図面などもなく、長浜城がどのようなものだったか分からないことがたくさんあります。
天正3年秋頃、お城が完成すると地名を今浜から「長浜(ながはま)」に改め、秀吉は小谷城から家族とともに移り、天正10年(1582)まで住んでいました。 この間、秀吉はこの長浜城から信長の先兵として北陸攻めや中国攻めへと出発していったのです。
天正10年(1582)信長亡きあとの清洲(きよす)会議で長浜城は柴田勝家(しばたかついえ)の甥の勝豊(かつとよ)が城主となりました。 しかし、はやくもその年の11月、秀吉は勝豊を降伏させて長浜城を取り返し、賤ヶ岳(しずがたけ)合戦の拠点としました。
その後長浜城は山内一豊(やまうちかずとよ)、内藤信成(ないとうのぶなり)、内藤信正(ないとうのぶまさ)を城主に迎えました。豊臣氏が滅亡すると、長浜城は跡形もなく取り壊され、石垣など多くの材料が彦根城の建設のために使われました。今見られる大通寺台所門・知善院表門・彦根城天秤櫓(てんびんやぐら)は長浜城の遺構であると言われています。




【井の頭恩賜公園】

井の頭恩賜公園は武蔵野市の南東、三鷹市の北東に接する、約380,000平方メートルに広がる公園。
公園の中心である井の頭池は北西方向の先が二つに分かれた細長い池の形をしており、東南方向からは井の頭池を源流としている神田川が流れている。
神田川に沿って公園がしばらく続いており、並んで走る京王井の頭線の井の頭公園駅がある。
また、池の西側には御殿山の雑木林があり、東京都建設局井の頭自然文化園が吉祥寺通りを挟んで存在する。
雑木林の南側には玉川上水が東南方向に流れており、そのさらに南に400mトラックと三鷹の森ジブリ美術館のある西園に出る。
玉川上水の下流側の脇には小さな広場のある東園がある。


 


【蔵王の樹氷】

樹氷は特別な気象条件のもとでしかできないため、東北では山形蔵王のほか、宮城蔵王や八甲田山でしか見られない。
シベリアからのふいてくる季節風が、日本海で水分を含み湿った状態で朝日連峰を越え過冷却水滴となります。
その湿った季節風がアオモリトドマツに衝突し、その上に雪がたたきつけられるように付着し凍り付きます。
これを何回も繰り返していくうちに、アイスモンスターとよばれる人の形に似た様々な形の樹氷となります。






【山形山寺】

松尾芭蕉が「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」と詠んだ宝珠山立石寺は、奥の院まで約1000段の石段が続く山寺。
その幽玄さに魅了され、訪れる人が後を絶ちません。
比叡山延暦寺から移し灯して以来、1100年余り途絶えず灯る「不滅の法灯」のある根本中堂をはじめ、芭蕉の史跡や句碑、点在する古刹を巡りながら参拝することができます。
1100余年前、円仁さんこと慈覚大師によって創建された名刹立石寺は、別名山寺の名で親しまれている




【松島観瀾亭】

伊達家の御仮屋御殿として建てられたもので、5代藩主伊達吉村によって観瀾亭と命名された。
文禄年中に豊臣秀吉から伊達政宗が譲り受けた伏見城の1棟で、江戸の藩邸に移築したものを更に2代藩主伊達忠宗が松島月見崎に移したと伝えられている。
桁行8.5間・梁間5間、屋根は寄棟造、こけら葺。
素木造で、四方に縁をめぐらした簡素明快な亭風の建築である。
床の間の張付絵や襖絵は、壮麗な桃山式極彩色で描かれている。
柱間1間6尺5寸の京間であること、軽快な起りを持つ屋根や壮麗な張付絵などから推して、桃山時代の建築であると考えられていたが、最近発見された御仮屋絵図により、正保ないし慶安の火災後に再興された御仮屋御殿の一部居間とみるのが妥当であろうとされている。








【松島五大堂】

日本三景の1つである松島の中にあり、五大堂自身も海岸側の小島にある。
大同2年(807年)、坂上田村麻呂が奥州遠征の際に、毘沙門堂を建立したのが始まりといわれる。
その後、慈覚大師が延福寺(瑞巌寺の前身)を創建した際に堂を設け、大聖不動明王を中央に東方降三世、西方大威徳、 南方軍荼利、北方金剛夜叉の五大明王像を安置したことより、五大堂と呼ばれるようになった。
慶長9年(1604年)伊達政宗により再建され、現在は国の重要文化財に指定されている。
五大堂へは橋で繋がっている。
平成18年8月18日〜20日の3日間に33年に一度の「三聖堂、五太堂、日吉山王神社 三十三年御開帳」が開催される。
正確には「五大堂」が正しいが、前回の御開帳のときも「五太堂」という表記であった。




【修善寺虹の郷】

広大な丘陵地に広がる自然公園。
街並みが再現されたイギリス村やカナダ村、日本の伝統工芸見学と陶芸体験などができる匠の村、西洋式庭園の広がるフェアリーガーデンなど多彩なエリアから構成されている。
園内にはそれらを結ぶクラシックバスやイギリス製のロムニー鉄道が走る。
レストランやショップ、博物館など各エリアの雰囲気に合った施設めぐりも楽しい。
シャクナゲ、花菖蒲、アジサイ、バラなど四季折々の花が園内に彩りを添える。


 


【白鳥の郷】

本埜村白鳥を守る会の皆様により餌付けに成功、その数は年々増加し、現在では800羽を超える白鳥が越冬しています。
平成4年11月14日、千葉県鳥獣保護委員をしていた故・出山光男氏は印旛沼上空を飛ぶ6羽の白鳥を確認。
その後姿を消した白鳥は12月7日に家の前で農業用水排水工事の為に溜まった田んぼの溜め水に再び舞い降り、これを発見した出山氏は地主に協力を求めたところ、快く土地(50a)を貸してくれる事が出来、直に朝、昼、夕、同じ時間同じ洋服で1日3回に分け約3ヶ月に渡り餌を与え続けたところようやく心通じ餌を持っていくと向こうから寄ってくるまでになり、誰もが無理と思った餌付けに3年間かけ成功。
この間テレビ、新聞等に取り上げられ今や本埜村の季節名所になり、年間5万人にも及ぶ見物人が訪れるようになる。




 



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