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Gallery(2009年)




【表参道のイルミネーション】

表参道では1991年から1998年まで、けやきの木を豆電球で覆う大がかりなイルミネーションを展開。冬の風物詩として各地から人が押し寄せるなど人気が定着していたが、見物客に対する周辺住民の不満や資金難、木への負担が大きいことなどから中止に。2006年には電球の替わりに並木の間に巨大な「行灯(あんどん)」を置くライトアップ「表参道akarium(アカリウム)」を展開したが、「思ったより地味」「目立たない」などの声もあり、新たな試みが期待されていた。
期間中、明治神宮入口から青山通りまでの約1キロメートルに並ぶ約140本のケヤキに、LED63万個を点灯。LEDの取り付け方法も工夫して、枝や幹への負担軽減を目指すという。また老化により電飾が施せないケヤキには、その理由とともにケヤキの生態やCO2の吸収量などを紹介するプレートを設置。ウオークラリーなども企画して、これまで課題の一つとされた環境配慮の姿勢をアピールされている。
デザインは表参道ヒルズのクリスマスなどで活躍する空間デザイナー長谷川喜美さんが手掛け、LEDは「新芽」をテーマに配置。ケヤキの根本にある低木には風などで音が出る「ベル」を設置して、光と音を使った複合的なアプローチで「光と音が融合したイルミネーション」を目指す。また表参道ヒルズでは、メーンエントランスや本館地下3階「スペース オー」などでライトアップを連動展開されている。






【東京タワーのイルミネーション】

この鉄塔を建設する際、電波科学の権威を結集してそれぞれ綿密、慎重な検討を行なった結果、東京地区のVHFテレビ7局以上と将来開局が予定されるUHFテレビ局が、東京を中心とした関東一円(北は水戸、東は銚子、南は沼津、西は甲府)をサービスエリアとして電波を送る場合に、鉄塔の必要な高さは333mであるということがわかりました。
こうしてみると高さ333mのタワーが昭和33年に開業したのは、偶然の一致ということになります。また、開業前の昭和30年当時、東京タワー構想を練っていた前田久吉の心中はこうでした。
「科学技術が伸展した現代では、300メートルの塔をたてるくらい、あえて至難の業でもあるまいと考えた。やれば必ずできる、と私は膝をうつ思いだった。つまり私の東京タワー建設に対しての自信と決意は、京都東寺の五重塔からあたえられた、ともいえる。出来る!必ずやりとげてみせる!私はコブシをかたく握り締めて確信をえた。
私の練りに練ってまとめた東京タワーの構想は、これまでのお国自慢的な塔の背くらべとはケタはずれな、「どうせつくるなら世界一を……。エッフェル塔(320m)をしのぐものでなければ意味がない」というものだった。このエッフェル塔をしのぐ世界一の東京タワー建設の夢は、けっして平らな道ではなかった……。」




【カレッタ汐留のイルミネーション】

毎年入場制限がでるほどの人気を誇る、「音と光」で演出するクリスマスイルミネーション『Caretta OCEAN Xmas』も今年で4回目。今年は新たにヴァイオリニストの葉加瀬太郎氏を総合プロデューサーに迎え、過去の大海原から海の中へと舞台を移し、一面に敷き詰めた約30万球のLEDとレーザーで立体的な海中の散歩道を表現し、幻想的な空間を創り出す。
カレッタ汐留の冬のシンボルとして、淡いピンクに染まる珊瑚をイメージしたシンボルツリー『CORAL ☆ TREE』(コーラル スター ツリー)が初登場。内部にある貝殻の形をしたモニュメント『ハートフルパール』のパールに手をかざすことでツリーの色が5色に変化。その光の色には幸運のヒントが隠されています。波間には『珊瑚の花』も灯ります。








【朝焼けの桧原湖】

最大水深31m、湖岸周31.5kmと裏磐梯地域最大の湖。磐梯高原の自然に触れる散策路、遊覧船、キャンプ場などがあるほか、冬場の氷結した湖上でのワカサギ釣りや夏場のバスフィッシングなどで四季を通じてにぎわうアウトドアレジャーの拠点となっている。
1888年7月15日に磐梯山の噴火に伴う山体崩壊によりできた堰止め湖の中では最大規模。噴火の際には500人以上の死者がでたほか、現在の湖底の位置にあった桧原村が水没、地域社会が消滅した舞台でもある。現在でも湖水位の変動により、昔の集落にあった神社の鳥居や墓石が顔を出す場所があることで知られる。
磐梯高原の中心に位置する裏磐梯最大の湖 、桧原湖。磐梯山の噴火により、泥流が谷をふさいで自然にできた湖で湖岸線は複雑にいりくんでいるのが特徴。湖には50もの大小様々な島が浮かんでいる。夏はレジャーに冬はワカサギ釣りと遊びの名所としても名高い。








【比叡山延暦寺】

延暦寺(えんりゃくじ)は、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。
延暦寺の名より比叡山、また叡山(えいざん)と呼ばれることが多い。
平安京(京都)の北にあったので北嶺(ほくれい)とも称された。
平安時代初期の僧侶最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。




【奈良公園】

太政官布達により明治13年(1880年)2月14日開園。大部分が国有地で、奈良県が無償で借用し管理している。
都市公園としての正式名称は「奈良県立都市公園 奈良公園」といい、総面積は502ha。周辺の興福寺、東大寺、春日大社、奈良国立博物館、なども含めると総面積はおよそ660ha(東西約4km、南北約2km)に及ぶ。通常はこの周辺社寺を含めたエリアを奈良公園と呼ぶことが多い。
公園内には多くの国宝指定・世界遺産登録物件が点在し、年間を通じて日本国内のみならず外国からも多くの観光客が訪れ、日本を代表する観光地の一つとなっている。
奈良の大仏や鹿は国際的にも有名で、奈良観光のメインとなっており、修学旅行生の姿も多く見られる。東大寺修二会やなら燈花会、正倉院展、春日若宮おん祭など古都ならではの見ごたえのある行事も数多い。






【栂池自然園】

栂池自然園は本州の中央、長野県の北部、北アルプスの懐にたたずむ変化に富んだ湿原を持つ自然園です。
日本でも有数の高層湿原があり、様々な動植物を観察することが出来ます。
晴れた日には白馬連峰の大展望が直ぐ目の前に展開されます。素晴らしい景色です。
5月中旬は大雪原の雄大な景色、6月中旬の水芭蕉の大群落、シラネアオイ、チングルマ、ニッコウキスゲの大群落、9月の湿原の草紅葉、10月初旬の見事な紅葉、紅葉が終わったあとのダケカンバの作る珍しい景色へと続いていきます。






【東沢大橋】

八ヶ岳の地獄岳を源に、東沢、西沢と美しい渓谷を形成する。
東沢大橋の長さは90メートルの赤い橋。 通称「赤い橋」と呼ばれる。
春には新緑の八ヶ岳、秋には紅葉の八ヶ岳を背景に映え、スケッチや撮影の絶好地。




【あじさい屋敷】

服部農園あじさい屋敷では、他に見ることの出来ない独創的なあじさい園を目指して、平成4年度より植栽に着手致しました。以来苗の増殖と品種の収集に努め、色とりどりのあじさいの花で埋め尽くされたすばらしい景観の庭園を完成致しました。
現在、総面積27,000m2の屋敷に13,000m2、150品種、10,000株以上のあじさいの花が色彩豊かに咲き競います。








【新緑の奥多摩】

奥多摩(おくたま)とは、登山・ハイキングにおいて東京都西部を中心とし、埼玉県南西部、山梨県東部、神奈川県北西部に位置する、秩父多摩甲斐国立公園の東端を形成する山岳地帯・地域を指す言葉である。東京都西多摩郡奥多摩町を中心とするが、その周辺部の山域を含め「奥多摩」と称する。

奥多摩ハイキングフリーきっぷというのは、西武鉄道が発売している周遊券のことです。奥多摩ハイキングフリーきっぷは奥多摩ハイキングにとても便利。西武線発駅〜西武拝島線拝島駅までの往復割引乗車券と東日本旅客鉄道青梅線拝島駅〜奥多摩駅間および五日市線拝島駅〜武蔵五日市駅間が乗り降り自由の周遊券なのです。

奥多摩むかし道は、旧青梅街道です。小河内ダム建設の際に新道(現在の国道411号線)が出来たために寂れていましたが、ハイキングコースとして整備されて、再生されたものです。JR青梅線奥多摩駅−奥多摩むかし道南氷川入口−白髭神社−しだくら橋−浅間神社−奥多摩湖−(バス)−JR青梅線奥多摩駅というコースです。道沿いの見所も多く、道標やトイレなどもきちんと整備されているので安心して歩くことができます。

東京都立奥多摩湖半公園 山のふるさと村。園内には、20分〜90分程度で歩ける複数の散策コース(ネイチャートレイル)が設置されています。そして小河内神社バス停から続いている「湖畔の小道」(約2km)や水と緑のふれあい館から続いている「奥多摩湖いこいの路」(約12km)の拠点でもあります。園内の施設を利用しながら、気軽にハイキングを楽しむことが出来るのが魅力です。










【潮岬】

潮岬(しおのみさき)は、和歌山県東牟婁郡串本町に属し、太平洋に面する岬。北緯33度25分58秒,東経135度45分45秒。本州最南端(クレ崎)。
潮岬灯台(しおのみさきとうだい)は、紀伊半島南端の和歌山県東牟婁郡串本町にある太平洋に突き出た潮岬に建つ白亜の灯台である。
この灯台は明治初期の江戸条約によって建設された8基の洋式灯台(条約灯台)の一つで、「日本の灯台50選」にも選ばれる歴史的文化財的価値が高いAランク保存灯台である。
参観灯台として資料展示室を併設し常時公開されており、本州最南端に位置する灯台から望む太平洋の風景は地球の丸みを感じることができるパノラマである。周辺一帯は南紀の景勝地で、吉野熊野国立公園に指定されている。








【大門坂】

大門坂(だいもんざか)は、和歌山県の那智勝浦町にある坂道で、熊野那智大社への参道。熊野古道・中辺路の一部。
かつて坂の入り口に大門があり、通行税を徴収していたことが名称の由来とされる。 坂道の両側にまるで門柱のようにそびえる夫婦杉をくぐり、九十九王子最後の一社・多富気王子を横目に、樹齢数百年の深い杉木立の中に石畳の道をたどる。坂を上りきったところは、青岸渡寺と熊野那智大社があり、那智滝へも直ぐの位置にある。
京都と熊野三山を結ぶ熊野古道には、美しい自然や史跡、石碑、熊野九十九王子を祀る神社が点在している。大門坂は熊野那智大社などに続いている。坂の入り口から樹齢800年の杉が立ち並び、石畳が昔のままの姿を残す。坂を登ると那智の滝が見られ、熊野古道で最も美しいと言われている神秘的な道。
古来より、多くの参詣者たちを受け入れてきた熊野古道。大門坂は、その面影をもっとも色濃く今に残している場所です。全長約500m、高低差約100mの苔むした石畳道と樹齢800年を超す老杉等に囲まれた古道では、夫婦杉、古の関所跡や霊場への入り口といわれた「振ヶ瀬橋(ふりがせばし)」などがつぎつぎと姿をみせます。






【千畳敷】

新第三紀層の砂岩から成る、太平洋に面したスロープ状の岩盤。砂岩は非常に柔らかいため、打ち寄せる波の浸食を受け、複雑な地形を形成している。 その広さはおおよそ4ヘクタールで、畳を千枚敷けるほどの広さであることが名前の由来。三段壁・円月島と並んで、白浜町の景勝地として知られている。




【青岸渡寺尊勝院】

青岸渡寺尊勝院は、那智山開山の裸形上人像と如来像を安置。中世以降は天皇、皇族の熊野詣での宿泊所にあてられていました。不開門は同院の入り口にある唐破風の四脚門で有名。なお、大正7年に那智の滝参道口・沽池と呼ばれるところから発掘された、飛鳥・白鳳時代から鎌倉時代初期にかけての熊野信仰を知る貴重な那智経塚出土品のうち、白鳳、奈良時代の観音菩薩立像、また藤原時代後期の金剛界三昧耶形(曼荼羅を立体的に表現)が国指定重文になっています。境内からは那智の滝、那智原始林、太平洋の眺めもよく、鎌倉時代の重文・宝篋印塔(4.3m)や梵鐘があります。




【三段壁】

三段壁(さんだんべき)は和歌山県西牟婁郡白浜町の景勝海岸である。
紺碧の海に直立する長さ2km、高さ50〜60mの大岩壁で、断崖絶壁の名勝として名高い。 断崖の先端には展望台が設けられており、雄大な南紀の海景を楽しむこと ができる。この地下36mには海蝕洞窟が形成されており、断崖上から地中をエレベーターで降りると洞窟内部を観覧できる。
千畳敷の南海岸にそそり立つ高さ50mの断崖。
その昔、漁師たちが通りゆく船や魚の群れを見張った場所「見壇」に由来するといわれるこの大岩壁は、南北2kmにわたって展開され、岩肌に打ち寄せる黒潮が激 しくぶつかり合うダイナミックな光景には、自然の迫力を感じずにいられません。
三段壁とは太平洋に突き出す延長2km高さ50mの断崖のことで、その昔、漁師達が通り行く舟や魚の群れを見張った場所「見壇」に由来すると言われ、岩肌に打ち寄せる黒潮が激しくぶつかる勇壮な光景に大自然の迫力を感じられずにはいられないでしょう。
内部には洞窟、外には遊歩道がありどちらも大自然の壮大さを感じる事ができること間違いありません。
洞窟は有料ですが、一見の価値はあります。遊歩道はどうやってこんな物が出来上がったのだろうか?自然の神秘もあわせて感じることでしょう。
白良浜からも近いので、定番の観光スポットと言えばそうかもしれませんが、言ってみる価値は十分にあると思いますので、皆さんも是非訪れてみては。








【橋杭岩】

橋杭岩(はしぐいいわ)は、和歌山県東牟婁郡串本町の観光名所で吉野熊野国立公園に属している。同町の大字鬮野川(くじのかわ)の小字橋杭の、紀伊大島に対向する海岸から紀伊大島方面へ南西一列におよそ850mもの長きにわたって大小約40の岩が連続してそそり立っており、橋杭岩とはその岩の総称である。直線上に岩が立ち並ぶその姿が橋の杭のように見えることから橋杭岩と呼ばれている。また干潮時には岩の列中ほどに附属する弁天島まで歩いて渡ることが出来る。
伝承によると、昔弘法大師が天の邪鬼と串本から沖合いの島まで橋をかけることが出来るか否かの賭けを行い、弘法大師が橋の杭をほとんど作り終えたところであまのじゃくがこのままでは賭けに負けてしまうとニワトリの鳴きまねで弘法大師にもう朝が来たと勘違いさせ、弘法大師は作りかけでその場を去ったために橋の杭のみが残ったということになっている。
橋杭岩を通して見る朝日はとても美しいと評判で日本の朝日百選の認定も受けている。また、国の名勝や国の天然記念物の指定も受けている。








【熊野那智大社】

熊野那智大社社伝に「神武天皇が熊野灘から那智の海岸“にしきうら”に御上陸されたとき、那智の山に光が輝くのをみて、この大瀧をさぐり当てられ、神としておまつりになり、その御守護のもとは、八咫烏の導きによって無事大和へお入りになった」と記録されております。
命の根源である水が豊富にあふれ落ちる「那智大瀧」を、この熊野に住む原住民の人々も神武天皇御東征以前からすでに神として奉祀されていたとも伝えられていますが、いずれにいたしましても古代からこの大瀧を「神」としてあがめ、そこに国づくりの神である「大巳貴命」(大国主命)をまつり、また、親神さまである「夫須美神」(伊弉冉尊)をおまつりしていたのであります。
その社殿を、お瀧からほど近く、しかも見晴しのよい現在の社地にお移ししたのは仁徳天皇五年(三一七年)と伝えられています。この時、大瀧を「別宮飛瀧大神」とし、新しい社殿には「夫須美大神」を中心に、国づくりに御縁の深い十二柱の神々をおまつりしました。 やがて仏教が伝来し、役小角を始租とする修験道がおこり、古来の神々と仏とを併せてまつる、いわゆる神仏習合の信仰が行なわれるようになりました。
その後、「蟻の熊野詣」といわれる程に全国から沢山の人々が熊野を目指すことになるのですが、中でも、皇室の尊崇厚く、延喜七年(九〇七年)十月、宇多上皇の御幸をはじめとして、後白河法皇は三十四回、後鳥羽上皇は二十九回もご参詣の旅を重ねられ、また花山法皇は千日(三年間)の瀧籠りをなされたと記録されております。
なお「熊野」という地名は「隈の処」という語源から発しているといわれていますが、だとすれば、ここは奥深い処、神秘の漂う処ということになります。また「クマ」は「カミ」と同じ語で、「神の野」に通じる地名ということにもなります。
その「神の里」に詣で、漂う霊気にひたり、神々の恵みを得ようとして、古代から多くの人々が熊野へ、そして那智山へ参詣されています。








【熊野速玉大社】

熊野速玉大社は、熊野三山のひとつとして全国に祀る数千社の熊野神社の総本宮です。今から約二千年ほど前の景行天皇五十八年の御世に、熊野三所権現が最初に降臨せられた元宮である神倉山から現在の鎮座地にお遷りになり、これより神倉神社の『旧宮』に対して『新宮』と号したと古書にみえます。
御祭神は、熊野速玉大神(いざなぎのみこと)・熊野夫須美大神(いざなみのみこと)を主神に、十二柱の神々を祀り上げ新宮十二社大権現として全国から崇敬を集めています。
特に、孝謙天皇の御世、日本第一大霊験所の勅額を賜り、熊野三山の中でも逸早く『熊野権現』の称号を賜りました。「権現」とは仮に現われるの意味で、神様は御殿の中のもっとも清浄な奥処に鎮まりましますので、私達の目にはそのお姿を直接見ることができません。そこでそのお姿を仮に仏に変えて、我々の住む俗世界に現われるという考え方が浸透していきます。
奈良朝末期にいたって、熊野速玉大神は衆生の苦しみ、病気を癒す薬師如来として過去世の救済を、またお妃の熊野夫須美大神は現世利益を授ける千手観音菩薩、家津美御子大神は来世浄土へ導く阿弥陀如来として位置づけられ、山伏や熊野比丘尼によって熊野権現信仰は飛躍的な拡がりを見せ、全国に数千に及ぶ御分社が祀られるにいたりました。
さらに、中世熊野信仰の興隆にともない、皇室、公卿、武士中心から庶民信仰へと発展し、過去世救済、現世利益、来世加護を説く三熊野詣こそ、滅罪・甦りへの道であるとして、「蟻の熊野詣」の諺のごとく熊野街道は賑わったのです。








【総本山金剛峯寺】

高野山は、およそ1200年前に、弘法大師によって開かれた、真言密教の修行道場であり、全国に広がる高野山真言宗の総本山です。標高およそ900m。
山の上の盆地に、壇上伽藍と称する聖地があります。そこには、さまざまなお堂や塔が立ち並び、 仏像や曼陀羅が参拝者を迎えます。また、うっそうと杉の樹の茂る奥の院には、太閤秀吉から太平洋戦争の英霊まで、さまざまな人々のお墓が立ち並んでいます。
高野山(こうやさん)は、和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称。平安時代の弘仁10年(819年)頃より弘法大師空海が修行の場として開いた高野山真言宗、ひいては比叡山と並び日本仏教における聖地であり総本山金剛峯寺がある。山内の寺院の数は117ヶ寺で、多くが宿坊を兼ねている。平成16年(2004年)7月7日、熊野、吉野・大峯と共に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界文化遺産に登録された。高野山は金剛峯寺の山号でもある。太平洋戦争当時、海軍航空隊があった。

総本山金剛峯寺

このお寺の場所は真然大徳(しんぜんだいとく)のご住坊があったところでした。天承元年(1131年)10月17日には覺鑁(かくばん)上人が鳥羽上皇の勅許を得て小伝法院を建立され、その後の文禄2年(1593年)には豊臣秀吉公が亡き母堂の菩提を弔うため、木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)に命じて建立されました。当時は、秀吉公の母堂の剃髪が納められたため、剃髪寺と名付けられたそうですが、のちにその名を青厳寺(せいがんじ)と呼び、応其上人の住坊となりました。その後は法印御房の住坊となり栄華を誇りましたが、再三の火災によって焼失し、現在の本殿は文久3年(1863年)に再建されました。
明治元年に行政官から青巌寺を金剛峯寺へ改号するよう指導されました。また、明治2年には古くからの高野山の管理制度を改めて総宰庁がおかれ、執政、副執政、参政、顧問、監司といった五役を設け、さらには隣接していた興山寺というお寺を庁舎として使用することになりました。その後、この二つのお寺は合併され、総本山金剛峯寺として現在に至っています。ちなみに、このお寺の住職は座主と呼ばれ、高野山真言宗管長が就任することになりました。
「金剛峯寺」という名称は、お大師さまが『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと伝えられ、東西30間(約60メートル)、南北約70メートルの主殿(しゅでん 本坊ともいう。重要文化財)をはじめ、座主居間、奥殿、別殿、新別殿、書院、新書院、経蔵、鐘楼、真然堂、護摩堂、阿字観道場、茶室等の建物を備え、寺内(じない)には狩野派の襖絵や石庭などが設けられ、境内総坪数48,295坪の広大さと優美さを有しています。






【久能山 東照宮】

久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)は、静岡県静岡市駿河区にある神社である。
晩年を駿府で過ごした徳川家康が元和2年(1616年)に死去した後、遺命によりこの地に埋葬された。後に改葬され日光の日光東照宮に移された。
50年に一度、社殿を始めとした諸建造物の漆塗り替えが行われており、2006年に社殿の塗り替えが完了した(現在も一部、修復作業中)。 また、2015年には御鎮座四百年を迎えるため、様々な催し物が企画、開催されている。
久能山(標高216m)は、元々日本平と共に太古海底の隆起によって出来たもので、長い年月の間に浸食作用等のため堅い部分のみが残り、現在のように孤立した山となった。推古天皇(592年〜628年)のころ、久能忠仁が久能寺を建立し、奈良時代の行基を始め、静岡茶の始祖といわれる聖一国師など、多くの名僧が往来し隆盛をきわめた。永禄11年(1568年)、駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を矢部(静岡市清水区)に移し(今の鉄舟寺)、この要害の地に久能城を築いた。しかし、武田氏の滅亡とともに駿河は徳川家康の領有するところとなり、久能城もその支配下に入った。
家康は、大御所として駿府に在城当時、「久能城は駿府城の本丸と思う」と、久能山の重要性を説いたといわれる。死後、その遺言により当山に葬られ、元和3年(1617年)には二代将軍秀忠によって社殿が造営された。その後三代将軍家光によって造営された日光東照宮へは、ここから御霊の一部を移したとされている。なお、駿府城代支配の職である久能山総門番として代々久能の地を領し久能山東照宮を管理したのは、交代寄合の榊原家宗家であった。
落成当初以来の多くの建造物が現存するが、明治初期の廃仏毀釈によって五重塔を失っている。








【白銀の大内宿】

大内宿(おおうちじゅく)は、福島県南会津郡下郷町にある宿場町。
日光今市から会津若松に通じる旧会津西街道、別名下野街道、南山通りに沿った山間の平地にある。江戸時代の宿場の雰囲気をよく残しており、春秋のシーズンには観光客が多数訪れる。街道沿いには茅葺き民家も見られる。 大内宿本陣跡には大内宿町並み展示館がある。
全長約450mの往還に沿って、道の両側に妻を向けた寄棟造、茅葺の民家群がほぼ等間隔に建ち並んでおり、伝統的建造物群及びその周囲の環境が地域的特色を顕著に示しているものとして、重要伝統的建造物群保存地区に選定された。1981年(昭和56年)4月18日に選定されたもので、宿場町としては長野県の妻籠宿、奈良井宿に次いで、全国で3番目である。






【田貫湖・本栖湖】

周辺にはボート乗り場があり、ヘラブナ釣りも盛んに行われている。また、レンタル自転車があり、湖を1周20分〜30分位で楽しむことができる。北岸では4月中旬〜5月中旬に多くのレンゲツツジ・ヤマツツジが姿を見せる。
当地は富士山の大沢のほぼ正面方向にあたり、富士山の険しい山容を望める適地である。
4月20日と8月20日頃の天気の良い早朝に、湖畔にある休暇村富士の正面からダイヤモンド富士を見ることができ、多くのカメラマンで賑わう。 キャンプ場も設けられているため、キャンプを間に入れた富士山観光も可能である。


湖岸は山梨県南都留郡富士河口湖町(旧西八代郡上九一色村)及び南巨摩郡身延町(旧西八代郡下部町)に属するが、湖面は境界未定である。旧上九一色村では、湖面全てが村に属すると主張していた。最大水深は富士五湖で最も深く、面積は3番目の大きさ。
同じ富士五湖の西湖、精進湖と同一の水脈を有しているためか、湖水の水位が連動する傾向がある。この三湖はかつては同一の湖であったと思われる。






【山中湖の朝】

富士北麓に点在する富士五湖の中ではもっとも南東に位置し、南都留郡山中湖村の中央に位置。山中湖は相模川の源流である。なお、相模川は山梨県では桂川(かつらがわ)と呼ばれている。また、山中湖は富士五湖で唯一 天然の流出河川を持った湖でもある。湖面の形は北を上にして見ると鯨の形に似ている。
湖面標高が高く、また水深が浅いことから厳寒期には全面結氷することもあり、近年では2006年1月10日にほぼ全面の結氷が確認された。砂嘴の「みさき」(通称大間々岬)で区切られる平野湾処(ひらのわんど)は水深が浅く、コイやウグイ、ワカサギが生息。明治期にはヒメマスの放流が試みられたが失敗し、1919年(大正8年)に、東京帝国大学教授の雨宮育作により、ワカサギの試験放流が成功し、ウナギやコイなどが放流された。波が穏やかなため毎年結氷し、ワカサギの穴釣りが行われる。近年はブラックバスやブルーギルなどの外来種が増殖。「みさき」のズミの大木は山中湖村の天然記念物に指定されている。
平野地区の通称・ママの森の沖合には、フジマリモが生息することが、1956年(昭和31年)に小学校の授業中に発見された。通常、高緯度地方に生息するマリモの分布南限であることから、山梨県の天然記念物に指定されている。







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