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Gallery(2010年)




【稲村ヶ崎】

古代、奈良時代の鎌倉には「見越しの崎」あるいは「御輿の崎」「神輿の崎」と呼ばれる地名があったことが知られており、万葉集巻14-3365に、鎌倉の 見越しの崎の 岩崩(いわくえ)の 君が悔ゆべき 心は持たじと詠まれている。
この地名がどこを指すかについては、長谷の甘縄神社裏山という説と稲村ヶ崎という説があり、確定していない。しかし、岩崩の名所として知られていたならば、稲村ヶ崎説が有力となる。
現代、現在は鎌倉海浜公園として整備されていて、園内には逗子開成高校ボート部七里ヶ浜沖遭難事件(1910年)の慰霊碑、コッホ博士記念碑などもある。サーフィンのメッカとして有名であると同時に、海水浴場としても使用されてきたが、近年、砂の流出が進み、2003年(平成15年)からは海水浴場としての使用は行われなくなった。






【極楽寺】

極楽寺駅(ごくらくじえき)は、神奈川県鎌倉市極楽寺三丁目にある江ノ島電鉄の駅。
昭和ムードたっぷりの江ノ電極楽寺駅から桜橋という名の古い赤い橋を渡り、すぐ左手にあるのが「極楽寺」です。小さな茅葺の山門も境内も素朴で質素な印象を受ける静かな古刹。この地味さ加減が何とも和ませてくれるのです。
しかし春の2週間だけは話は別。参道の両脇に咲き乱れる桜のトンネル。そして宝物館の前にある八重一重咲き分け桜は古木ながら可憐で美しい花を咲かせます。普段はとても静かな境内にたたずむと、意外と極楽ってこういうことかもしれないなぁ、なんて思いが過りるのです。






【長谷寺】

長谷寺 鎌倉 あじさいの名所
伝承では長谷寺の創建は奈良時代とされているが、中世以前の沿革は明確でなく、創建の正確な時期や経緯についても解明されていない。寺伝によれば、天平8年(736年)、大和の長谷寺の開基でもある徳道上人を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したという。この十一面観音像は、観音霊場として著名な大和の長谷寺の十一面観音像と同木から造られたという。すなわち、養老5年(721年)に徳道は楠の大木から2体の十一面観音を造り、その1体(本)を本尊としたのが大和の長谷寺であり、もう1体(末)を祈請の上で海に流したところ、その15年後に相模国の三浦半島に流れ着き、そちらを鎌倉に安置して開いたのが、鎌倉の長谷寺であるとされる。当寺の梵鐘には文永元年(1264年)、当時の住職真光の勧進により鋳物師物部季重が造った旨の銘文があり、この頃には長谷寺が存在していたことと、当時は「新長谷寺」と呼ばれていたことがわかる。鎌倉時代にさかのぼる遺物としては他に弘長2年(1262年)および徳治3年(1308年)銘の板碑、嘉暦元年(1326年)銘の懸仏(かけぼとけ)などがある。
近世の地誌『新編鎌倉志』や、寺に伝わる『相州鎌倉海光山長谷寺事実』などによると、歴代の権力者が長谷寺の伽藍や本尊の修造を行っている。康永元年(1342年)には足利尊氏が伽藍と諸像の修復を行なった。明徳3年(1392年)には、足利義満が観音像の光背を修復し、行基の作という伝承のある像を前立(まえだち)として安置した。天文16年(1547年)に、北条氏康の寄進を受け、天正19年(1591年)、徳川家康から朱印状を受ける。慶長12年(1607年)、堂塔伽藍を改修し、正保2年(1645年)にも、酒井忠勝が堂宇を改修している。長谷寺は江戸時代の初め、慶長12年(1607年)の徳川家康による伽藍修復を期に浄土宗に改宗した。当時の住持玉誉春宗を中興開山としている。明治以降に単立となった。







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