今回はちょっと変化球。
 実はTH2のキャラでは一番好きな草壁優季の登場です(THでもヒロインのあかりではなく、綾香がいちばんだったりするので(笑))。
 優季は貴明や雄二と同じ小学校に通っていたわけです。となると、貴明のお向かいのこのみも同じ小学校だったわけで、当然ながら優季とこのみは顔見知り。ひょっとすると一緒に遊んでいたかもしれないという結論に至りました。ゲーム本編では優季と貴明が遊んでいた頃の学年が明示されていませんでしたので(たぶん四年生以下だとは思いますが)、あめおにのメンバーにはこのみも混ざっていたと推測しました。

 物語は当然ながら優季エンドの後です(ついでに設定はXRATEDの方です)。


ヴァーサス 2nd Stage

     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

 それは、わたしには予想外の、まさに青天の霹靂だった。

「優季、お姉ちゃん?!」

 このみは、その女性が小学校の頃に貴明や雄二と一緒に遊んでいた彼女だと一目でわかった。小学校の頃はおてんばなイメージのあった女の子だったが、いま貴明の横に立ち柔らかいほほえみを浮かべながらしゃべっている彼女は、同性のこのみでさえはっとするような魅力的な大人の女性になっていた。

 彼女はびっくりして立ちすくんでいたこのみに、貴明より先に気づいた。

「あれ? ひょっとして、このみちゃん?」

 貴明が優季と『あめおに』で遊んでいた頃、このみも同じ小学校に通っていて、途中から貴明たちと駆け回るようになっていた。

「やっぱり、優季お姉ちゃんなの!?」

「うん、久しぶり」

 貴明に見せていたのと同じ笑顔をこのみに見せた優季に向かって、このみは数メートルの間合いをぱっと駆け寄り抱きついた。

「うわっ」と言いながらも、優季はこのみに応えるように抱き合う。

 優季は環が九条院に転校してからは、いつも貴明達について回っていたこのみにとっても数少ない同性の遊び相手だった。

「このみちゃん、昔はもっとおとなしい子だと思ったのに」

 優季はこのみの活発ぶりにびっくりしたようだ。

「えへへー。それはタカくんとユウくんに仕込まれたんでありますよ、隊長」

「隊長?!って」

 それには貴明が応えた。今にも笑いそうで声が震えている。

「このみのお父さんは自衛官なんだ。その影響らしいよ。でも、仕込んだ覚えはないぞ、このみ」

 優季は貴明に視線を移して微笑む。

「ふーん、そうなんだ。でも、男の子と一緒に遊んでいたら自然とそうなるものですよ、『河野くん』」

 と優季。このみがいるので、彼女は「貴明さん」と呼ぶのは控えたようだが、当の貴明は気づいていないようだった。

「そうなんであります」

 優季から離れてビシッと敬礼をするこのみ。その姿に優季はコロコロと笑い出す。

「あ、でも、どうしてこのみたちの学校に?」

「あ、うん、お母さんが勤めている会社の支店が隣町にあって、こんどその支店にお母さんが転勤してきたの。それでどうせならこの町の高校に通おうって思ってついてきたの。向こうに残ることも出来たんだけど、一人で残ると大変だし、それにひょっとしたらみんなに会えるかもってね」

「そうなんだー」

 優季はそう言って、本当は狙って転校して聞いたことは意図的に隠した。彼女の成績なら西園寺女学院も難しくないのに、貴明がこの高校に通学していることを調べて、わざわざ狙ってきたのだ。

「草壁さんのお母さん、支店長なんだって。偉いんだぞ」

 と、貴明。

「ふーん。なんかタマお姉ちゃんみたい」

「うふふふ。わたしの通っていた学校は九条院みたいな名門校じゃありませんけどね」

 優季はそう言って、「いけない」と思ったが、誰も気づかなかったらしく反応が無かったため、内心ほっとしていた。本当は昔の級友を伝にして、事前に貴明達のことをかなり調べていたので、本当は知らないはずの環の情報も知っていたのだ。

 そう言いながら、貴明たちは校門を出て帰途につこうとした。

「おい、俺は全く無視かよ」

「あ、ユウくん居たんだ」

 いつものパターンで、がっくりと首を垂れる雄二。その姿を見て、優季はまたコロコロと笑い出した。

「でも、高城よ、なんで姉貴のこと知ってるんだ? 姉貴が九条院に押し込められたのはオマエが転校してくる前だぜ」

 先刻、舌を滑らしたことがバレなかったと安堵していた優季だったが、意外なところからの突っ込みに一瞬引きつった。だが、「だって向坂君のお姉さん有名だったじゃない」と誤魔化した。

「そうだったっけ?」

 雄二は首をかしげる。優季は冷や汗をかきかけていたが、このみの一言で関心が違う方向に移った。

「あ、そうだ、優季お姉ちゃん、どこに引っ越してきたの?」

 いぶかしる雄二を全く気にかける様子もなく、坂道を後ろ向きに歩きながらこのみがそう尋ねる。優季がその問いに答えると、貴明もこのみもびっくりした表情になった。

「え? それってウチの近所だよ!」と貴明。

「ほんとだ。うちから2、3分だよそのあたり」とこのみ。

「えーっ! そうなの!」

 それには優季もびっくりしたようだった。

 それから、三人は昔話に花を咲かせながら帰り道を歩いた。このみにすっかり忘れられていた雄二は最初はふてくされていたが、途中から会話に加わり始めた。

 このみは優季の苗字が替わっていることにしばらく気づかなかったようだったが、校門のところで雄二が優季を旧姓の「高城」と呼んだことで思い出し、混乱したのか貴明に尋ねたが、貴明は優季を気遣ってどう答えて良いものか、返事に窮した。

 でも逆に優季は「もう子供じゃないから」と小学生の頃に両親が離婚したことや、母方についたために転校を余儀なくされたことなどを教えた。両親がそろっていて、しかも娘の前でも平気でいちゃついているのが日常なこのみには信じられないような話で、途中で涙目になりかけたのを優季が必死でなだめすかすという、場面もあった。

「ここの桜って、凄いんですよね。越してきてすぐに通学路を確認するために来たときに気づいたんですけど」

 帰宅途中の河原の土手の桜並木にさしかかったところで、優季がそう言った。

「ああ、そうだね。そういや、草壁さんここは知らなかったんだっけ」

「うん。わたし、小学校を挟んで反対側だったから。交通事故で入院さえしなければ、みんなと一緒に桜吹雪の中を歩けたのになぁ」

 残念そうに言う優季。と、そのとき、遠くから貴明達を呼ぶ声が聞こえた。

「ゲ、姉貴?!」

 雄二がぎょっとした表情でそう言う。

「ちょっとー、みんなーっ。置いていくなんてー、ひどいじゃなーい!」

 その声を聞いたこのみがびっくりした表情になる。

「あー、忘れてたー!!」

「このみ?」

 貴明が怪訝そうな表情で尋ねる。

「お昼にタマお姉ちゃんに、きょうは一緒に帰るからタカくんたちに待っているように言っておいて、って言われてたんだった」

「をひをひ」

 雄二は頭を抱えた。

「そんな大事なこと、なんで…」

 優季はそこでピンと来た。

「ひょっとすると、わたしのせい、かな?」

 優季がそう言いながら貴明とこのみの表情を伺った。貴明は苦笑いし、このみは真剣に焦っているようだった。

「ごめーん、タマお姉ちゃん、忘れてたー!」

 そう言いながら環に駆け寄るこのみ。

「んもー。ハアハア…たまたま通りかかった、ハアハア…小牧さんに教えてもらわなければ、ハアハア…ずーっと校門で待ってるところだったわ。ハアハア」

 環は至近距離まで来ると、息が上がった口調でそう言った。ずっと走ってきたようだ。

「タマお姉ちゃん、ホントにごめんなさい」

 このみはすでに半泣き状態。環は怒るに怒れず、逆に途方に暮れかけていた。

「すみません、たぶん、わたしのせいです」

 優季が恐る恐る環にそう言った。

「え? えーっと、あの、どちらさまで」

 環はようやく貴明の後ろに立っていた優季に気づいたようだった。とっさに貴明が紹介する。

「タマ姉、紹介するよ。俺や雄二の小学校の頃の同級生で、草壁優季さん。今度転校してきたんだ。草壁さん、タマ姉が九条院に転校してきてから俺たちの小学校の途中で転校してきたんだけど、二年くらいでまた転校しちゃったんだ。だからタマ姉とは初対面だと思うよ」

「じゃぁ、このみとも?」と環。このみはこくんと頷く。

「ああ、よく休み時間にあめおにで廊下を走り回った仲さ」と貴明。

「なんとなくわかったわ。そう言えば、随分前にこのみからそんな名前を聞いたような気がする。んもー、このみったら、懐かしくて舞い上がって、わたしの言ったこと、どこかに吹っ飛んでたんでしょう?」

 これが貴明や雄二ならほっぺたをつねられるか、アイアンクローなのだが、さすがにこのみ相手では腰に手を当ててあきれ顔でため息をつくのが関の山だった。

「えへへへ、そのとおりであります。ごめんなさい、タマお姉ちゃん」

 環が怒っていないとわかるととたんにごまかし笑いを浮かべるこのみ。「まったく現金な奴だと」言いながら、貴明は彼女の頭を軽く小突いた。

「なんでそんな大事な事を忘れるかな」と貴明。

「タカくん、痛いであります」

 そんなやりとりを見ながら優季はコロコロと笑う。

 一行は桜並木を抜け、住宅街の路地に入る階段を下り、公園を過ぎ(るーこが滑り台の上で「るー」をしてきたので、手を振って挨拶をした)、昔話に花を咲かせながら歩いた。だが、楽しそうに談笑する雄二や貴明とは違い、このみは次第に口数が少なくなり、環たちと分かれる頃には環と二人で先を進む三人の後ろをついて歩いていた。

 環たちと別れ、優季と貴明、そしてこのみの三人で歩いていたが、それでもこのみは一歩後ろをうつむき加減で歩いていた。そして、優季が貴明とこのみの自宅の少し手前で分かれようとした時。

「うちはこっちなので」

 軽く会釈して歩き出す優季に、それまで静かだったこのみが声をかけた。

「優季お姉ちゃん、今度競争しない?」

 このみは真剣な表情でそう言った。

「はいぃ?」

 優季はあまりにも出し抜けなこのみの問いかけに不思議そうな表情で振り向きながら、ちょっと間抜けな返事を返した。

「このみちゃん?」

「だって、小学校の頃は一度も追いつけなかったんだもん。でも、いまはタカ君よりも早く走れるようになったんだよ。今度は追いつけると思うんだ」

 このみは左手を腰に手を当てて、右手を優季に向かって伸ばし、Vサインを出す。目が笑っていない。貴明は気づかなかったが、それはこのみから優季への挑戦状だった。

−そっか、このみちゃん。やっぱりそうなんだ。

 優季はこのみの意図をすぐに理解した。「タカ君は渡さない」、このみはそう言っているのだ。小柄で可愛いというイメージが先行するこのみだったが、しっかりとした意志を持った大人の女なんだ、と優季は思った。

「うん、わかった。でも、負けないよ」

 優季も腰に手を当て、右手をまっすぐに伸ばしてこのみにVサインを送る。

 当の貴明はわけがわからず、当惑した表情を見せるばかりだった。


     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇


−とは言ったものの....。

 優季は心の中でそうつぶやきながら、まだ慣れぬ自宅の玄関を開けた。

「ただいま」

 と言っても返事は無い。母親はまだ会社だろう。昇進を伴っての転勤だったため、責任が増えたこともあり、優季の母親の帰宅時間は転居前より遅くなっていた。彼女の母親は「慣れないうちはどうしてもね」と言い訳していたが、優季ももう子供ではない。母親が活躍している事は正直に嬉しく、誇りでもあった。

−このみちゃん、どうしよう。

 自室に戻った優季は鞄を椅子に載せ、そのままベッドにごろんと横になった。

 表面上は普段となんら変化は無いように見えるはずだが、心は先刻のこのみとの会話でかなり昂ぶっていた。母親が帰宅する前に夕飯の支度などを終えておかなければならないのだが、すぐにはその気になれなかった。

 先月まで暮らしていた2DKのアパートとは違い、小さいながらも社宅扱いの一軒家なので、優季と母親の二人暮らしには広すぎるくらいだった。以前は半分母親と兼用だったが、今は自分専用の部屋もある。

−制服、皺になっちゃうかな。

 登校は今日が初めてだったが、時間と空間を行き来していたため、制服はもうすっかり身体に馴染んでいる。

「ちょっと、落ち着かないと....」

 優季は自分にそう言い聞かせてはいたが、やはりこのみの事が頭から離れなかった。身長差は以前より大きいような気がしたが、このみのイメージは小学生の頃と随分変わっていた。昔は貴明達の後ろに隠れていた印象が強かったが、いまは明るくて人なつっこく、そして、なんていうかぎゅっとしたいほどに可愛い。活発さは子供の頃の面影がないほど旺盛になっているし、ミニマムにだがバランスが取れた容姿は同性の優季の目にも将来素敵な女性に絶対なると思えた。

 でも、優季も自分自身が傍目にも同世代の少女より容姿では優位に立っている自信はあったし、貴明に対する想いも誰にも負けないと思っていた。

−だからこそ。

「正々堂々と戦わなくっちゃ、このみちゃんに失礼だよね」

 優季はそう自分に言い聞かせていた。

 少し、気が楽になった気がした優季だったが、そのまま意識が混濁し....。



「…季、優季、居ないの? 変ねぇ、靴はあるのに...」

「えっ!」

 優季は母親の声に跳ね起きた。部屋はすでに真っ暗。

「いっけなーい、寝ちゃってた!?」

 あわてて、部屋の灯りを灯けて、勢いよく自分の部屋のドアを開ける。

「お母さん、ごめん、寝ちゃってた!」

 そして、制服のままダイニングに飛び出した。優季の母親は優季の髪を首筋でバッサリ切ったような髪型で、銀行の支店長というお堅い職業柄か、紺の地味なスーツ姿。身長はすでに優季が追い越していて、優季が父親似のため顔はあまり似ていないが、微妙にミニサイズの優季という雰囲気だ。

「みたいね。綺麗な髪の毛が台無しよ」

 そう言われて、優季はぱっと頭に手を伸ばす。頭頂部にこんもりと違和感がある。変な寝癖が付いたのは明らかだ。

「あ....」

 ロングヘアは寝る時にかなり気を遣うのだが、居眠りをしたために、そのケアが出来ていなかったのだ。

「あーん、もう」

 とっさに手櫛でさっと整えはしたが、優季はお風呂に入るまで鏡を見ないことにした。

「で、コンヤクシャの河野君とは会えたの?」

 あり合わせの材料を使った遅めの夕食後、ダイニング・テーブルで向かい合った母親がお茶を飲みながらそう聞いてきた。

「うん」

 優季の母親は時空の狭間で貴明と優季が逢瀬を繰り返していたことはおろか、二人がすでに深い関係に成っている事も知らない。

「その割には、イマイチ元気が無いじゃない。期待を裏切られるほど変わっちゃってたとか?」

「そんなことないよ。ただ…」

 優季はこのみとのいきさつを掻い摘んで話した。自分より長い時間を貴明と過ごして来た幼なじみの、しかも可愛い女の子の存在、そしてその娘(こ)も優季と同じ想いを抱いていると言うこと。明言はしていないが、貴明を賭けて勝負をすることになったこと。

「で、その勝負、受けるの?」

 優季は頷いた。

「頑張んなさい」

「お母さん!?」

 優季の母は嬉しそうな表情でそう言った。

「ほんとに、そういうところは優季、あの人に似ているわ」

「え!?」

 優季の母はそう言いながら、遠くを見つめた。

「今の優季ならわかると思うけど、お母さん、決してお父さんが嫌いで別れたわけじゃないのよ」

 優季は頷いた。

「お母さん、家庭より仕事を取っちゃったでしょ。だからあのまま結婚生活を続けていたら、きっとお父さんを傷つけることになると思ったの」

「そうだよね。だから、いまでもたまに会ってるんでしょ?」

「…知ってたの」

 優季の母はそう言いながら、頬を染めた。

「でも、わたしを引き取ったのはお母さんのわがままでしょ?」

「苦労かけたわね」

 優季は「何をいまさら」という雰囲気でふっと笑った。

「それに、わたしが優季くらいの頃に、似たような事があったの。幼なじみ同士で男の取り合い。お母さん、その勝負に負けちゃってね。で大学の時にお見合いをして、お父さんと結婚したの。結果的には良かったと今は思ってるけど、出来れば優季には負けてほしくないわ」

「うん」

 優季はうつむいて、そう言った。


     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇


「貴明さん」

 翌日の放課後、そろそろ帰ろうとしていた貴明を優季が呼び止めた。

「ちょっと、いいですか?」

「え? 何かな?」

 貴明が中途半端な返事をしているうちに、優季は貴明の腕を抱えるようにして、ぐいぐいと引っ張り始めた。

「とにかくっ! 大事なお話がありますっ」

 優季が貴明を連れてきたのは屋上だった。二人にとって特別な思い出のある、結ばれた場所だ。

 優季は男の貴明を引っ張ってきたせいか、少し肩で息をしていたが、それが収まるとフェンスに背をもたれかけるようにして貴明に向き直った。

「貴明さん、このみちゃんとの勝負、明日の放課後になりました」

 貴明はまだ当惑している。

「しかし、このみもなんでいきなり。まぁ、あいつの『いきなり』は今に始まった事じゃないけど、わけわかんないよ」

 貴明は苦笑するしかなかった。だが、優季は真剣な表情だった。

「貴明さん、気づいてないんですか? もう、鈍感にもほどがあります。それじゃ、このみちゃん可哀想!」

 いつもはちょっと控えめなしゃべり方をする優季の語気が少しきつめになっていた。

「このみちゃん、貴明さんのこと、ずっとずーっと一途に想ってたんですよ。それなのに、それじゃ可哀想」

「草壁さん...」

「このままだと、わたし泥棒猫みたいだから、だからこのみちゃんとの勝負を受けたんです。わたしはこのみちゃんにも環さんにも、わたしと貴明さんのことを認めてもらって祝福してもらいたいから」

 優季はの目にはうっすらと涙がたまっている。

「草壁さん....でも、タマ姉は」

「貴明さん、ホントにもう、なんて鈍感なんです! なんで環さんが九条院を辞めてまでこの町に戻ってきたのか、まだわからないんですか?」

 優季はそう言いながら、本格的に泣き始めた。

「草壁さん、もういいわ」

 貴明の後ろからそういう声が聞こえた。環だった。

「タマ姉...」

 貴明はびっくりして振り向いた。

「あなたは、ちゃんとタカ坊に意思表示をしたじゃない。わたしも、このみも、それが出来なかった。その差は大きいわ」

 環はそこでふぅっとため息をついた。

「わたしが帰ってきたのは優季さんの言うとおり。でも、このみは近すぎて、わたしは遠かったのね」

 環は今まで見せたことがないような愁いに満ちた表情で二人を見ている。

「それに、わたしってこういうの苦手なので、子供の頃はタカ坊の事はかわいさ余っていじめてばかりだったからろくな印象無いはずだし。改めて自分がバカだったことに気づかされたわ」

 貴明も優季も返事が出来なかった。

「優季さん、あなたがわたしの名前を出さなければ、このまま無かったことにして、一生言わないつもりだったんだけど、タカ坊に知られてしまったから後に引けなくなっちゃったじゃない」

 環は苦笑を浮かべながら、そう言った。そして、

「明日の勝負、私も参戦して良いかしら。あなたに勝つのは大変そうだけどね」

 と続けると、一瞬、いつもの雌豹が獲物を狙うような表情を見せたが、すぐに作り笑いを浮かべ、ゆっくりと身体を回し、後ろ手を振りながら立ち去った。


     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇


−参ったな。強敵出現。

 環は屋上の階段を下りながら、そう心の中で呟いた。

 環は自分の容姿に関してだけは自信があったが、正直、普段の行動が貴明の目にはどう映っているのかに関してはまるで自信が無かった。貴明に対する想いは負けない。でも、それ以上に。

 このみと優季がどういう勝負をするかも知っていたから、余計に彼女は自信が無かった。

−でも。

「だからこそ、負けるとわかっていても、そうよ、負けるのなら正々堂々と勝負して、思いっきり負けなきゃ。こういう時、お姉さん役って不便よね」



−参ったな。最悪だ。

 貴明はベッドに仰向けに転がってそう心の中で呟いた。

 貴明はこのみの想いは知っていたし、環が何故今頃戻ってきたかも−こっちはすぐにではなかったが−気づいてはいた。

 だが、このみにも環にもそういう感情は抱けなかった。そして、優季との邂逅。そこで弾けた優季への想いは、二人への物とは根本的に違っていた。

 曖昧にしているつもりは無かったが、気づかないふりをしていれば、いずれ諦めてくれるだろうと甘い考えを持っていたのも事実だ。

−明日、優季が負けたらどうしよう。止めさせるべきだろうか。いや、優季が負けても俺は。


     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇


 圧勝だった。

 スタート直後はこのみがリードしていたが、中盤以降、優季のトップスピードがどんどん伸び、ゴール直前にはこのみを2m弱引き離していた。環はこのみに追いつくのもやっとという状態で、このみからさらに1mほど後ろだった。

「ハァ、ハァ、ハァ」

 三人とも荒い息でへたり込んでいる。

 貴明は一言も発せないでいた。

 その膠着にも似た状況を破ったのは環だった。

「ハァ、ハァ、ハァ。さ、さすがね、優季さん。インターハイ県代表は伊達じゃないって事ね」

「た、環さん、ど、どうして、そのことを」

 優季は多少口調が乱れているが、肩で息をするほどというわけではなく、まだ余裕がある雰囲気だったが、環は荒い呼吸を繰り返しながら、右手の手のひらを立ててちょっと待ってというジェスチャーを見せ、しばらく返事をしなかった。呼吸が落ち着くのを待っていたようだ。

「…九条院は、あなたが前にいた高校の隣接校、よ。とは言っても、物理的な距離的は結構遠かったけど。わたしは特に運動部には参加してなかったけど、県内のインターハイ予選の情報くらいは知ってる。どこかで聞いた名前だとは思ってたのよ、草壁優季って」

「わたしも...」

 今度はこのみだった。

「わたしも知ってたよ。だから、これで負けたらすっぱり諦めるつもりだったの」

「このみちゃん!」

 今度は優季がびっくりする番だった。

「それならどうして!」

「このみに勝てる人なら、タカ君を安心して託せると思ったから。だから」

 とっくに平静に戻っていたこのみはかなり無理をした笑顔でそう言った。目尻に少し涙が溜まっている。

「ホントは今は凄く悔しいけど。でも、大好きなタマお姉ちゃんや優季お姉ちゃんと勝負して、納得したんだもん。だから、後悔はしない」

 その時、ずっと黙っていた雄二が口を開いた。

「ちび助、いつのまにそんな大人な台詞を言うようになったんだ」

「惚れちゃいそう?」

 このみがいたずらっぽい表情を見せてそう切り返す。このみを昔から知っている者達でも、彼女の今の表情は見たことがなかった。

「でも、今は駄目だよ。ユウ君の事、嫌いじゃないけど、このみを落としたいのならハードル高いよ」

「ちょっと、このみ!」

 今度は環がびっくりする番だった。環もこのみの大人っぽい台詞に驚いたようだった。でも、このみももう高校生だ。それに、寺女に行ってる吉岡チエと山田ミチルの情報で自分が同級生どころか上級生の男子からもかなり注目されているのを知っていた。知らず知らずのうちにみんな大人になっていく。

「二人とも、ごめん。でも、二人の気持ちは嬉しいよ。でも俺の気持ちは、最初から決まっていたんだ」

 貴明が真面目な表情でそう言った。

「タカ坊、そう言うことはもっと早く言ってくれなきゃ」と環。

「タマ姉、もし俺がこのことを話しても真面目に聞いてくれた?」

「そ、それは」

 多分、はぐらかして聞こうとしなかっただろう。環はそう考え、視線を泳がしたまま言葉を継がなかった。

「俺だって、俺なりに真剣に考えてたよ。それが難しくて、時間がかかるかもしれないとは思っていたけど。だから、この勝負、優季が勝っても負けても、その」

 そこまで言ったところで、このみが横やりを入れた。

「タカ君」

「なんだ、このみ?」

「タカ君の彼女やお嫁さんの場所は“今のところ、とりあえず”…は諦めたけど、妹の場所は空いてるよね。それと、お姉さんの場所も」

 貴明は黙って頷いた。

「だったら、今すぐは無理かもしれないけど、きっと、いままでのこのみたちに戻れるよね」

「…」

 貴明は言葉に出して返事をすることが出来なかった。そんな簡単な事じゃない。それがわかっているから、優季や環も何も言えなかった。

「優季お姉ちゃ....ううん、優季さん。タカくんをお願い。でも、スキを見せたら奪っちゃうよ。家が向かいだから、アドバンテージはまだあると思うんだ」

「うん。受けて立つわよ。このみちゃ....ううん、こ・の・み!」

 立て膝で地面に座っていた優季はそう言いながらVサインを出した。

「優季さん、わたしも『優季』って呼び捨てにして良いかしら? どうやらわたしはこのみの配役では長女役でセットされちゃったみたいだから」

「はい、かまいませんよ」

 優季は笑顔でそう言った。

 その光景を見ていた雄二は、そこはかとない恐怖を感じていた。雄二は貴明に近寄ると耳打ちした。

「おい、貴明、なんかすごくヤバくないか? 姉貴とこのみだけでも結構なパワーなのに、そこに草壁が入ったら、オマエ、命に関わりかねないぞ」

「ゆ〜う〜じ〜。聞こえてるわよ〜」

 実のところ、雄二はわざと微妙に聞こえるくらいの声で言っていた。

「あれー? お母さん?!」

 出し抜けにこのみが叫んだ。

 このみの視線の先には春夏と、もう一人、女性が座っていた。そして、今度は優季が素っ頓狂な声を上げる番だった。

「お、お母さん!?」


     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇


「春夏、今度はわたしの勝ちね」

 このみ達の勝負をグラウンドの外の道路を挟んだ土手に座って見ていた春夏はその声に驚いて声の主に視線を向けた。

 その声はの主は、最初逆光で顔がよくわからなかったが、近寄ってくるうちに次第に顔がはっきりしてきた。

「…えっ!?、あなた、ひょっとして、ゆうか!?」

 その声の主は頷いた。

「ひさしぶり。高校卒業して以来だから、20年ぶりかな」

 優季の母親、草壁優佳はそう言った。

「あの娘(こ)、まさか、貴女の…」

「そうよ。わたしの一人娘の優季。わたしもびっくりしたわ。まさか優季が言っていた勝負相手が貴女の娘さんだったなんて」

 そう言って、優佳は春夏の横に座った。

「春夏の娘さん、昔の春夏に雰囲気がそっくりね。どこか似ている、と思ったんだけど、貴女を見つけて納得したわ

「優佳のところだって。あの日の再現みたいで、鳥肌が立ちそうだった」

 春夏はそう言って、ふっと視線を逸らす。

「それと、もう一つびっくり。あなた高校の頃とほとんど変わって無いじゃない。悔しいけど同い年だとは思えないわ」

「ちょっと、いきなり、なによ、もう」

 そう言いながら、春夏は胸を張る。ここは変わったわよと言う自己主張らしい。

「う、…随分育ったわね…」

 いまでこそ、ナイスバディの春夏さんだが、高校時代はこのみほどでは無いにしろ、どちらかというと幼児体型に近かったのだ。

「あの子をおなかに宿した時にね、急に体形が変わっちゃって。で、産んだ後も元に戻らなくて。でも、優佳だって。随分綺麗になったじゃない」

 春夏がクスっと笑い、少し間が空いた。

「春夏、いま幸せ?」

 優佳はそう言っった。

 春夏はびっくりしたような表情で優佳の横顔を見たが、すぐに娘たちの方に視線を戻し、そしてちょっと俯いて言った。

「うん。幸せじゃなかったら、貴女に会わせる顔がないわ」

 優佳も春夏と同じ方を見つめる。

「私は、あれから色々あったかな。娘さんから聞いてない?」

「うん。聞いた…。でもまさか貴女のことだったなんて。草壁姓だったから、不思議な偶然もあるなぁとは思ってたけど。貴女、結婚して高城って苗字に変わってた筈だから」

「リコンしちゃったの。原因は私の不徳だったんだけど、もう5、6年経つわ。さすがにあの頃はちょっと荒れたけどね」

「不徳って、貴女」

「あ、違う違う。家庭より仕事を取っちゃったの。そのくせ娘を引き取ったりして、結構無茶苦茶だったわ」

「そう....」

 専業主婦の春夏にはちょっと想像できないシチュエーションだった。

「でも、長い目で見ると、充分幸せよ。娘も真っ直ぐに育ってくれたし。リコンはしちゃったけど、原因はわたしが家庭向きじゃなかっただけで、お互い愛想が付いたわけじゃないし。娘も気づいてるけど、彼とは今も友人以上の関係だしね。それに…今は…」

 優佳はそこでちょっと間を置いた。

「今は?」と春夏。

「貴女とこうして普通に話せるようになったのが嬉しいわ、春ちゃん」

 優佳はそう言いながら柔らかい笑顔を春夏に見せた。春夏も良く知る、優佳の飾りのない普通の笑顔。

「懐かしい呼び方ね。でも、偶然というのは恐ろしいわね。まさか、こんな近所になるなんて」

 と春夏。

「わたしたちの田舎からは遙か彼方なのにね。子供たちが小学生の頃もこの町に居たんだけど、そのときは駅を挟んで反対側だったから、貴女がこの町に居たなんて気づかなかったな」

 優佳はそう言った。

「このみたちが優ちゃんに引き合わせてくれたのかもね」

 春夏も優佳の幼い頃の呼び名を使った。

「そう言えば、優佳、銀行の支店長なんだって?」

「信用金庫に毛が生えた程度の地銀よ」

 そう言って、優佳は笑う。

「すごいよね、専業主婦のわたしには想像もつかないわ」

「なに言ってるのよ。好きで選んだ専業主婦でしょう?」

 優佳はそう言いながら、高校時代のように、春夏の頭を拳骨でグリグリとした。

「こら、優佳、痛い、痛いって」

 優佳は春夏の反応に、女子高生時代と変わらぬ表情を見せた。春夏も女子高生時代のように素直に返事をする。

「…まあ、ね」

 春夏はそう言った後すぐに思い出したように続けた。

「あ、そうだ、今度ウチに遊びに来ない? ウチの人もびっくりすると思うし、娘の彼氏の家も確認しておきたいでしょう? タカ君んち、ウチの向かいだから」

「うん、それもそうね。なんなら、今から帰りがけに寄ろうかしら? 昔話をする気は無いけど、これからはご近所だし。でも、貴女と私が幼なじみだなんて知ったら、あの子達、相当びっくりするでしょうね」

「ついでに晩ご飯でも食べてく? 二人分追加だとちょっと待たせるけど」

 そう言いながら二人は笑い会った。

「あれー? お母さん?!」

 視力が異常に鋭いこのみが、ようやく春夏に気づいて叫んで声をかけてきた。その声に優季も自分の母親が来ていることに気づいた。

「お、お母さん!?」

 優佳と春夏は「やれやれ」という表情で土手を降りてグラウンドの中に入っていった。それからしばらくして、優季とこのみの「えーっ!!」という、ハモった絶叫が夕暮れのグラウンドに響いた。


     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇


 それは、わたしには予想外の、まさに青天の霹靂だった。

−まさか、優季お姉ちゃんのお母さんが、わたしのお母さんと....。

−まさか、このみちゃんのお母さんと、わたしのお母さんが....。

 幼なじみで、恋のライヴァルだったなんて。


     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇


「で、お母さんの時は何で勝負したの?」

 家路を歩きながら事の次第を聞いたこのみは春夏にそう尋ねた。

「あ、わたしも興味あります、おばさま」

 春夏が「おばさん」呼ばわりされるとどういう反応を見せるか知ってる貴明とこのみの表情が引きつる。

「うわっ、優季、まずいって」

 優季のその言葉に貴明が焦る。

「お・ば・さ・ま、じゃなくて、は・る・か、さん」

 春夏はそう言うと優季をギロっと睨んだ。事情を知らない優季はきょとんとしている。

「なによ、充分オバサンじゃないの。アタシと同い年なんだから」

 と、言いながら春夏の頭を小突く優佳。

「ちょっと優佳!!」

 いつもは有無を言わせない春夏だが、優佳の前では形無しだ。

「現実はちゃんと認めないと」

 同級生の強さか、優佳は焦る子供達の前で平然と言いのける。

「ううっ」

 春夏も同級生相手では形無しだ。

「わたしが教えてあげようか、このみちゃん」

 と優佳。

「はい、是非」

「料理勝負。わたしが作ったのは10段重ねホットケーキだったけど、春夏が作ったのは必殺カレーだったっけ?」

 このみの目が点になる。

「えーっ!! それじゃ、いまのこのみじゃ勝ち目無いよぉ。優季お姉ちゃん、家事全般何でもござれでしょう?」

「大丈夫、わたしがみっちり仕込んであげる」

 春夏はそう言いながら、このみの背中をポンと叩いた。

 だが、春夏の凄さを知ってるこのみの表情は微妙に引きつっていた。


     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇


 翌朝から、朝の登校に仲間が一人増えた。このみと貴明に優季が合流し、そして雄二と環が加わる。

 まだ、新緑には少し早い時期。環が卒業するまではまだしばらくある。この幸せで素晴らしい時間を大切にしたい。このみも、優季もそう願うのだった。


     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇


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作者註:
 ちなみに、優佳の元ネタは「まじアン」の結花です。
 あと、優季はともすると「天然」っぽく描かれていますが、自分で時空を超えたほどの意志の強い女の子です。用意周到というとちょっと可哀想ですが、ちゃんと色々手を打ってから行動に移るしっかりした女性だと思っています。貴明との件は、その反動でしょうね。
 このみは、元のままだとホントに天然さんなので、ちょっと賢い女の子にアレンジしています。