注意:このページは翠嵐同期生のためのページです。
アルバムの表紙の文字には「何年か経って苦しい時があるだろう。そんな時にこの卒業アルバムを開いてくれたら、きっと当時の仲間の笑顔が憂いを忘れさせてくれるはず。このアルバムにはそんな忘れ草のような存在であって欲しい」という想いが込められています。
賛否あるかと思いますが、私が名付け、大師君に毛筆で題字を書いてもらいました。
参考文献
「私のかまくら」No.140、1990年8月号、アルファ、P4-5
日刊工業新聞、1989年5月12日付、32面
3年生の時同じクラスになった故中川君。学校に雑誌「鳩よ」を持ってくるような文学青年でした。みんなが勉強にスポーツに遊びに夢中だったあの時、彼は白血病に倒れ帰らぬ人となりました。
卒業アルバムを作るにあたり故人の写真を掲載するか否か迷いました。みんなと同じ時に写真を撮る事が出来なかったからです。でもにこやかに笑っている写真を載せ「故」を使う事もやめました。そして何千枚もの写真の中から体育祭で「野菊の墓」を演じる中川君の写真を見つけ出して行事の写真の中に載せました。体育祭のモノクロ写真のページで着物姿の女性を抱えているシーンです。
扉の紫陽花の写真を撮った葉山君。鉄道マニアだった彼の写真の中で私が個人的に大好きだった写真を大伸ばしで載せました。校歌の載っているページの左です。
この深夜の鉄道線路の風景を渡して「この写真に合う詩を書いて下さい」とアルバム委員会顧問の小松先生に依頼しました。先生はあえてご自分の名前は出さず、しかし親しみのある肉筆で詩をしたためて下さいました。
私はこの詩も大好きです。
アルバム委員23名中10名が元1年2組という偏ったメンバーでした。そのうち5名が写真部という事で、既に撮ってあった1,2年生時の写真は顔見知りが写ったものばかり。
みんなが卒業の記念に買ってくれるアルバムです。偏った写真集じゃ申し訳が立ちません。
陸上競技大会や球技大会の写真などは虫眼鏡を使って「ベタ焼き(ネガフィルムと同じ大きさのモノクロ写真)」を穴の開くほど調べ上げいろんな人が載せられるようにしました。
また、全員の名簿をチェックし学年全員が「学年集合写真」「クラス集合写真」「個人写真」「サークル活動写真」以外にも最低1枚載せられるように配慮しました。でも、全員を載せる事は難しく困っていた折りに、全員の子供の頃の写真を載せる事を決意しました。
果たして僅か1週間の間に447名中423名の幼児期の写真が集まりました。
最近関家ではこのアルバムを引っ張り出して楽しんでいます。下の娘は鼻と口がママ似で目がパパ似である事がこのアルバム写真から分かります。
翠嵐の卒業生の一人に写真家の土門拳氏がいます。山形県には氏の写真を収蔵展示した美術館までありますが、その偉大な写真家の貴重な写真が母校にあるのです。
ある年の卒業アルバムでは土門氏の写真を(先輩の作品として)扉に掲載しておりました。
当時写真に熱中していた私は、何としてもこの偉大な先輩の写真をアルバムのどこかに載せたかったのです。
そこで最後のアルバム委員の集合写真の背景として強引に載せてしまいました。