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私の小さい頃


 父も母も同じ町内の出身で、父は性格的にもとてもおとなしい人だった。私は小さい頃から、父には全く甘えられなくて、極端に言えば、父と本当のところは話をした事がなかった。

 父は若い頃に満州へ行って、戦争体験もあり、どちらかの足に鉄砲の弾を取り出した傷跡があった。父の古いアルバムには満州の夕焼けや、戦友のお墓や、ひっくり返された満鉄の線路や、奇襲攻撃をして沢山の死体が転がっている所などの写真が沢山あった。

 そんな写真も家が火事になり、全部焼けてしまったが。

 私は4人姉妹の3番目として生まれた。小さい頃はとっても大人しい子ども だったらしい。生まれて半年ほどの時に「カイセン」という皮膚病になって全身にぶつぶつがいっぱい出来たと聞いた。

 母の言葉によれば「もうこの子は何時死ぬのかなあと思っていた」と言うぐらいひどかったようだ。生後半年ほどの私が、覆ってあるガーゼを取られるのが痛くてヒーヒー泣き、そんな私を父はお風呂に入れたと、これも母から後で聞いた。

 でも「あの時の酷いカイセンで病のケが抜けたらないかや」と母が言うほど小さい頃は丈夫だった。

 私の原風景は、母の背中で見た浜の地引き網の様子や、番屋でひたすら母が迎えに来てくれるのを待って、じっと座っていた時の事だ。

 私は今でも体は丈夫な方だ。 何せ女姉妹4人の中の3番目だから親に気にかけてもらうという事は、まずなかった。時代が時代だったから親の世代は子ども達に食べ物をしっかり確保すると言う事が第一のことだった。

 父が体が弱く、代わって母が働いていたから、本当に貧しかった。日本の国全体が貧しかった時代に、特に貧しかった。幼稚園頃の事だろうか、ご飯を食べるにもおかずが全然無くて、たまたま誰かに貰った飴玉があり、これをおかずに出来ないものかと思い“飴玉をおかずにご飯を食べようとした”が、飴玉は全然おかずにはならなかった。

 その時の“ああ、甘いものはご飯のおかずにはならないんだなあ”と子ども心に思った瞬間の事を何十年経った今でも時々思い出す。そして、切なくなる。  お昼ご飯を親と一緒に食べた記憶はない。思い出す限りでは、いつも一人で食べていた。

 また、今の米子空港に進駐軍の「美保基地」があり、アメリカの兵隊さん達がいた。そして、毎年クリスマスの時期になると近くの“恵まれない子ども達”を基地に招いてくれた。美味しいものを食べさせてくれたり、楽しいショーでのもてなしがあった。その時の“ショートケーキ”の美味しかった事を今でも時々想う。

 小学校の時は5年生ぐらいまではとても大人しい子どもだったと思う。6年生の時の担任の先生がとっても面白い先生で子ども達に人気があり、私達は大好きだった。

 その頃から段々と活発になってきて、中学の時はそれまで押さえられていたものが吹き出したのかもしれないが「しずかじゃなくてやかま」と言われた。行事や生徒会などにも積極的に参加していた。

 高校時代はしばらくの間バレー部に入り、とにかく運動をしていた。2年の秋に、やっとのことでレギュラーになれたが、一番上の姉の反対で運動部を辞めた。この事は今でも悔やんでいる。

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