神我とともにいます。
これは、私たちが意識するしないをとわず、神との第一接触。
滝沢克巳が述べられたことですが、これが正当であるかどうかは
私には判断できませんが、イエス・キリストに接する前にも、
この事がわたしに注がれているのではないかと思っています。
個の信仰がまず己のうちに確立しないと、共同体としての
うちになかなか入りがたいし、また共同体のなかに埋没し、
個として存在そのものがあやふやになってしまうのではなかろうか。
2教会内で
教会の中ではいろんな信仰の形態があります。
キリストともに歩むということが、一つの共同体の中では、
いろんなものに変わっていきます。
それぞれ本来の個の信仰の違いが何か差別のように
振り回されたりします。
求道者のまず感じる敷居の高さもこの辺らくるのかも。
3.共同体
いろんな形で共同体はあります。
しかし、現実には区別、差別が出てきます。
神の支配におけるなら、我々は何も区別されるものでないはずです。
しかし、現実の共同体にはやはり存在するのでしょう。
4 カトリック教会
カトリックの中では、左から右と幅広い形態がある。幅広いから私みたいなものも
信仰者としておられるのかもしれない。原理主義的なところの主張される方々には、
少し戸惑ってしまう。これは、幼児洗礼と成年洗礼との違いがあるかもしれない。
要は、それらが違う共同体として認識され、区別されるのが本来の姿と違うのでは
ないかという問いかけが必要ではなかろうか。
5カトリックにこだわるのか
勉強会の報告の中になぜ私はカトリックにこだわっているのかという自問をしました。
感想を送っていただいた向井さんの言葉の中になぜプロテスタントにこだわっているのかと。
一つの教会組織にこだわっている私が神の前において本当の私があるのであろうか。
一つ一つのこだわりの中に一線を超えなければならないものは何であろうか。
組織と私との間に何があるのであろうか。
6最近
最近やはりインマヌエルに戻ってきてしまう。
インマヌエルを自覚できるかどうか。インマヌエルを自覚できない私が罪であると。
その罪はやはりインマヌエルを自覚する、イエス・キリストを受け入れる、ともに歩む私が
いることで、この個が生まれ変わる行き方になる。
ウーーーム、迷いの世界らはいる。
7洗礼とは、生まれ変わるとともに、またキリストともに生きる、そしてインマヌエル
という自覚がこの身に備わるということかも知れぬ。
インマヌエル これこそ、キリストとともに歩む原点なのかも。
8 インマヌエル
zangaiの勉強会にてこのことが出てきました。
また、Chieさんが生かされていると生きるとの定義も出してもらいました。
インマヌエルがわたしの上に自覚されていないとき、そこには生かされているという
意識は生じないだろう。イエスとの出会いそして洗礼においてインマヌエルは、
わたしの上にあらわになり、生かされているという意識も生じる。
そして生きていくという意識もまたあらわになる。
その繰り返しの上にまたインマヌエルが燦然と輝く。
主に感謝
9 最近
いろんなかたがたとネット上でお付き合いさせてもらい感謝です。
そして、そのことがインマヌエルということも私の上にふりそぞきます。
いきる、生かされる この事は両輪。
感謝の毎日をいかに生きていけるか。
視野の角度を広げよう。
00/11/19 更新