生の無条件の肯定へ

野崎泰伸さんに“障害者問題と倫理”を尋ねる

小林 敏昭

 


 

 白地に丸ゴチックの文字を点在させた、いかにもシンプルなカバーをまとった『生を肯定する倫理へ—障害学の視点から』が白澤社から発刊されたのは今年の六月(発売は現代書館)。その六二ページに次のような記述がある。

— ある日のこと、私が出勤する際に乗った電車に、女子高校生とみられる三人組が乗り合わせていた。それまで談笑していた彼女らであったが、私が身体を揺らしながら電車に乗り込み、彼女らの向かいの席に座るや否や、なんと「ムリ〜!」ということばを放って、彼女らは私の前から立ち去り、隣の車両に移ってしまったのだ。/このことは私にとって大変ショッキングな出来事であった。その場で唖然としながら、彼女たちが移動するのを見送ることしかできなかった。—

 バタバタと駆け去る少女たち、それをぼう然と見送る「私」、無関心を装う周囲の乗客たち……。その情景を想像すると、一瞬にして凍りついた車両全体の空気がきしむ、その音さえ聞こえてくるようだ。取り残された「私」を襲うさまざまな思いに、思いを巡らせてみる。その出来事は恐らく、この本を世に問おうとした「私」の原体験を象徴するものに違いない。これはぜひとも、この本の著者であり私の知人でもある野崎泰伸さんから話を聞かねばならない。彼とは障害者問題に関する研究会などで幾度も顔を合わせているが、これまでじっくり話を聞いたことはない。いい機会だと考えてEメールを送ったら、すぐに「私でよかったら」と快諾の返信が届いた。

 一〇月半ばのそう暑くもない一日だったが、野崎さんは白のTシャツで新大阪駅近くのインタビュー場所に現れた。脳性マヒによる身体の緊張が、歩くのにもかなりのエネルギーを使わせるのだろう。そのTシャツの首のところから、両肩に貼った肌色の絆創膏が皺だらけの顔を覗かせている。細かなことをいちいち気にしてはいられないのだ。

 野崎さんは一九七三年、兵庫県尼崎市で生まれた。もうすぐ三九歳になる。「これは聞いた話ですが…」と言って、自分が脳性マヒ者となったのは出産時にへその緒が首に巻きついたからだと説明してくれた。「聞いた話」って、そりゃあそうだろうと二人で大笑いしたところからインタビューが始まった。

 彼の来し方を早足で振り返っておこう。中学校までは阪神競馬場近くの尼崎養護学校に通った。肢体不自由と知的障害の子どもたちの学校で、自宅からは片道一時間半くらいかかった。養護学校の場合は、地域の学校と違って広い範囲から障害児が通ってくる。スクールバスはあちこちを回って子どもを乗せるから、それだけの時間がかかる。

 

—自分の障害を意識したのはいつ頃ですか?

 それが、あまり記憶にないですね。養護学校の中ではみんな障害者ですから、特に障害者としてという意識はあまりなかったです。気がついたら障害者たちと一緒に育っていたというのが実感ですね。

—養護学校の中学部を出た後、普通高校へ進学するわけですよね。それは野崎さんの意思で?

 養護学校時代に算数や数学が好きになって、僕の場合は特別に教えてもらいました。例えば小学校六年なのに中学の内容を教えられる。横の同級生が一学年下の内容を教えられている時に、僕は一年先のことを教えられるという具合です。それで優越感の裏返しというか、引け目のようなものを感じました。クラスには九人いましたが、教科教育を受けていたのは僕を含めて二人だけ。後の七人は「生活」という名でテレビを観たりしていました。知的障害と重複の人や寝たきりの身体障害の人もいました。面倒だということで、そんな扱いを受けていたんです。

—養護学校では一人ひとりのニーズに応じたきめ細かな教育がされると言われていましたけど…。

 それすらも行われていなかった時代でしょうね。今はどうなっているか分かりませんけど、ある意味で普通学校でなされる序列がそのまま入ってきていた感じですね。

 

 小学二、三年生の時、担任の教師が訓練室にあった大きな丸いボールや積み木を使って球や立方体を教えてくれたのがきっかけで算数が好きになった。それからは教師も特別に目をかけてくれて、他の生徒が機能回復訓練をやっている時に、一人パソコンに向かったりした。つまりは「できる障害者」だったわけだ。もっと数学を勉強したいという思いで普通高校への進学を希望したのは、野崎さんにとっては自然な成り行きだった。養護学校の一つ上の先輩も通っていることを知って、兵庫県立尼崎高校を受験した。

 入学早々、担任の教師が「野崎は障害があるけれども三番の成績で入った」とクラスの生徒に彼を紹介した。「障害があるけれどもよくできる」というのは、今から思えばかなり差別的ではあるけれども、その時は問題を感じることもなく、少し気恥ずかしい気持ちでその言葉を聞いた。

—養護学校とはまったく違った環境だと思いますが、とまどいとかはなかったですか?

 最初に担任がそんな紹介をしたからかも知れないですけど、クラスではあまり話しかけられることもなく、放課後のクラブ活動で将棋を指すのが楽しかったぐらいですね。でもその時は勉強しようと思って高校へ行ってたので、そのニーズ自体は満たされていました。もともと性格的にも別に友だちなんかいなくてもいいかと思っていたんで、それが作られた気持ちだったかも分かりませんけど、クラブ活動の付き合いだけでいいやと思っていました。

—クラスでは孤立していたんですか?

 そうですね。いじめや差別を受けた経験はありませんが、敬して遠ざけるような、敬されていたのかどうか分かりませんけど、そんな対応ですね。で、テストの前になると「ノート貸してくれ」と言ってくる。それと、高校にはエレベーターがなくて、クラスはいつも一階にしてくれてましたが、たまに授業によっては四階に上がらないといけないこともあって、そんな時は荷物を持ってくれたりというような関係はありました。でもその程度で、お昼に一緒にご飯を食べるなんてこともなかったですね。

—高校の三年間で友だちはできなかったんですか?

 できなかったですね。でもその当時はそれでいいと。

—でも本心では友だちがほしかったんじゃないですか?

 う〜ん、そうですねえ。自分から閉ざすのではなくて、働きかけて、それでダメだったらしょうがないかと思えるようになりたかったというのはあります。自分から壁を作っていたようなところがありましたね。

—高校生くらいになると、友だちと人生を語り合ったり、恋をしたりという多感な時代だけど、それもなかった?

 ないですね。勉強一筋と思われてたのかなあ。ところで友だちとは何でしょうねえ。お互い悩みをぶつけ合うって、今の健常者の高校生でもあまりないんじゃないかと思います。当時、僕のように友だちがいない人がクラスに二、三人はいたんで、それが障害によるものなのか、単に友だちがいないだけなのか、微妙なところですね。

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