『そよ風のように街に出よう』91号 編集後記

 1979年の「そよ風」創刊当時「3号雑誌」という言葉が巷に流布していた。熱い想いで創刊された雑誌も、3号目あたりで金銭的な壁にぶつかって廃刊になる例が多かったのだ。「そよ風」もその例にもれず、0号、1号の時の飛ぶ鳥を落とす勢いはあっという間に失速し、7号を発行した時は新聞に「ピンチの雑誌『そよ風』―僕らの灯消さないで」という5段抜きの記事まで掲載されたのだった。記憶ははっきりしないが、編集長の河野秀忠が毎日新聞のY記者に、「読者を増やしたいので協力してほしい」と泣きついたに違いない。こうした困難に直面した時の彼の馬力のすごさは自他ともに認めるものだった。

 その河野が倒れて1年。西村吉彦の記事中(73ページ)に車いすに乗った写真があって、少し首を傾げながらカメラマン(私)にしっかり視線を向けている。ただ、これは今年4月に撮ったもので、その後容態は悪化した。今は中心静脈栄養と酸素マスクで何とか命をつないでいるが、意識はほとんどなく、主治医は「苦痛などの感覚もないだろう」と推測している。しかし、したたかな河野のことだ。ある朝突然「よお!」と片手を上げてベッドから起き上がるのではないかという希望は捨てていない。

 彼がまだ元気な時に、酒の席で「人間は死んだらどうなるんだろうねえ」と私に聞いてきたことがある。若い頃マルクスの洗礼を受けた私は、「自分が生まれる前、例えば江戸時代に“無”だったと同じように“無”になるんだよ」と答えた。ありきたりの回答なのに、彼は「そうか! 生まれる前と一緒か」と妙に感心した素振りを見せた。その後すぐに別の話題に移ったのだが、私は本当はこう付け加えたかった。「“無”になるのは一緒だけど、決定的に違うところがある。生まれる前と違って、死んだ後は人々の記憶に残るんだから」。

 そういう意味で、生と同様、死も社会的な(=人々の関係の只中にある)ものだ。50代の若さでガンで亡くなった私の友人は、医師に告げられた余命が残りわずかになると、小中学校の同級生に片っ端から電話をかけて自宅に呼び寄せ、腹水がたまって膨らんだお腹を見せながら思い出話にふけった。3時間余り車を飛ばして駆けつけた私は将棋の相手をさせられて、しんどいくせに変なヤツだなと思ったが、彼はその時、友人たちの記憶に自分を残すために必死だったのだろうと思う。

 「そよ風」の38年は多くの障害者やその仲間に先立たれた年月でもあった。死後の“無”を認めるか否かに関わらず、それらの多くの人の生が人々の記憶に宿り、「そよ風」の誌面に刻まれている事実は動かしようがない。私たちはそうやって歴史に参加することができたのだと思う。長年にわたるご愛読、ご支援、本当にありがとうございました。またどこかでお会いしましょう!   (副編集長 小林 敏昭)