相模原事件を訪ねて

副編集長 小林 敏昭

 津久井やまゆり園 津久井やまゆり園


 昨年7月26日に神奈川県相模原市の知的障害者施設「県立津久井やまゆり園」で起きた障害者殺傷事件には多くの人が衝撃を受け、多くの人がそれを今も内に抱えたままだ。私もその一人である。ただ、最初に告白しておかなくてはならない。私はこれまで「40年以上障害者運動に関わり『違いを認め共に生きる社会を』と呼びかけ続けてきたのに、それを真っ向から否定する事件が起きたことがショックだった」というふうに語ってきた。そこには事件を生み出すような土壌を許したことへの自責の念と「でも自分はそれなりに一所懸命やってきたのだ」という自負とが入り混じった思いがあった。

 しかし当初は自分でも気づかなかったのだが、事件が私に衝撃をもたらした理由はそれだけではなかった。私はしっかり見ていなかったのだ。何を? 本人の意志とは無関係に街の中心から遠く離れた施設に入れられ、そのことの問題を広く訴える手段を奪われた人たちの存在を、だ。もちろん事実としては知っていた。以前は実際に収容型施設の障害者や職員を訪ね、記事を書いたこともある。もっと前には、日本脳性マヒ者協会青い芝の会の障害者たちと一緒に「施設解体」を訴えて活動したこともある。それからかなりの時間が経った。今、地域で苦労しながらもたくましく生きる障害者の友人はたくさんいる。以前は「多動性情緒障害児」と呼ばれ最近は「強度行動障害者」とラべリングされる奈良の梅谷尚司さんとの長い付き合いもある。それらの人たちとの関係は私にとってとても大切なものだ。しかしそうして日々出会う人たちがいる所とは別の隔離された場所で、「施設から地域に」の掛け声とは裏腹に10万人を超える知的障害者が生きていることを、うかつにもこの間、自分の関心の外に置いていた。そのことを事件は私に突きつけた。事件の背後から立ち上がる優生思想という巨大な怪物は、私がこれまで障害者問題を考える時の関心の中心と言ってもいい。しかし小誌の最後の号で事件に関わる人たちの話を聞いて記事にしたいと思ったのには、その関心だけではなく、以上のような自分の“無関心”への苦い思いが貼りついている。

 5月中旬、春を一気に吹き飛ばすような暑さの中、新横浜の駅に降りた。この1泊2日の小さな旅で、私は3人の男性から取材のアポイントを取っていた。最初に会うのは、横浜市緑区で知的障害の人たちと一緒に「NPO法人ぷかぷか」を運営する高崎明さん(68)である。めったに会うことはないが、彼が養護学校の教員をしていた30年ほど前からの付き合いだ。小誌の終刊を知ってからはフェイスブックを始めるよう私に勧めてくれ、自身も「ぷかぷか」のさりげない日常をフェイスブックやホームページで発信している。

 「障がい者 豊かな日々知って」という高崎さんの投稿が新聞に載ったのは、事件から1週間ほど後だ。そこで彼はこう書いている。「相模原市で起きた事件以来、障がい者について『不幸だ』『生きる価値がない』といった声が、ネット上などで見られます。私たちが日々ネットで発信している『障がい者も、こんなすてきな毎日を送っています。作ったものを販売する店に来る人たちの心を癒やし、豊かにしています』というメッセージは、そうした声に対する異議申し立てでもあるのです」(16年8月3日朝日新聞朝刊)。まだ訪ねたことのない「ぷかぷか」の日常を一度覗いてみたいと思った。

 新横浜からJR横浜線に乗って十日市場駅で降り、バスに10分ほど揺られて着いた霧が丘グリーンタウンの一画に「ぷかぷか」はある。6階建ての建物の1階に「アート屋わんど」(アート作品の制作)「おひさまの台所」(弁当と惣菜の店)「カフェベーカリーぷかぷか」(パンの店)の3つの店舗が並んでいる。雇用契約を結ばず比較的自由に働ける就労継続支援B型で、現在知的障害のメンバー42人、スタッフが22人働いている。経営は決して楽ではないが、「ここにはぷかぷかのペース、ぷかぷかの文化があって、そのファンも徐々に増えているから何とかやっていける」と言う。話を聞いている間もメンバーが次々にやって来て、アニメソングに合わせて踊ってくれたり、高崎さんの隣に座って話しかけたり手を握ったり。「障害者に惚れたところから今の活動が始まっている。一緒にいると面白いし楽しい」と語る高崎さんは、「ぷかぷか」の毎日で障害者とお客さんたちとの間で繰り広げられるエピソードをいろいろ話してくれた。決まりらしい決まりのない「ぷかぷか」でも、一緒にやって行くのが難しくて去って行った精神障害者のことも。
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