■ そして彼女は箒(ほうき)になった
『季刊しずく �bQ』(2018年10月発行)より |
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1970年代の初め、私はとても若かった。怖いものなどなかったし、駅のベンチでもどこでも熟睡できた。人並みに恋をし、長髪を振り乱して岡林や拓郎を歌い、世の不条理を嘆いた。そんな時に日本脳性マヒ者協会青い芝の会と出会った。「われらは強烈な自己主張を行う」、「われらは愛と正義を否定する」など5つの行動綱領は、そのラジカルさと文学的な格調の高さで若者たちの心を奪った。私もその一人だった。 出会って、まずは介護をやった。公的な介護保障制度などまったくない中で、24時間介護が必要な障害者たちが家や施設を出て街で暮らす。それはとても大それたことではあったが、みな若く意気盛んだった。障害者たちは街に繰り出してバスや電車の乗車をめぐって騒動を起こし、街で暮らすための制度を求めて行政と渡り合った。健常者たちは仕事を終えて夜の介護に入り、大学の授業をさぼって昼の介護に入った。それでも介護者の数はまったく足りない。毎日が次の日の介護枠を埋める闘いだった。 そんな無理を重ねながらも青い芝運動が全国に拡がり、関西でも大きなうねりを起こしたのは、それが障害者一人ひとりの当たり前の欲求と結びついていたからだ。外に出たい、自分の好きなものを食べたい、恋をしたい…。それらすべてが否定される時代だった。重度の障害者には山奥の収容施設に入るか親の庇護の下で在宅生活を送るしか命をつなぐ術がなかった。
介護の次が在宅障害者訪問だ。障害者が街に出るきっかけを作るための重要な活動だったが、苦労も多かった。まず、どこに障害者が住んでいるかという情報がない、やっと情報を得て訪ねても「うちにはそんな子はいない」と追い返される、そのうち玄関の中には入れてくれるが本人には会わせない、やっと会えても一緒に外出するのは許されない、という何重もの壁があった。どうして親や家族はそんな対応をとるのか。その後親たちと話を重ねるうちに、それまで自分の言いなりだったわが子が、私たちと出会ってさまざまな欲求に目覚めることが怖かったのではないかと思い至る。地域で利用できる制度など皆無だから、わが子の当たり前の欲求は即、家族の金銭的、肉体的な負担となる。親たちはいわば差別的な社会に背中を押されながら、わが子と私たちとの出会いを阻止しようとしたのではないか。 私は彼女を相手に口角泡を飛ばしながら差別の実態を語り、障害者が外に出ることの意味を訴えた。その間彼女は反論することはもちろん、口を開くことすらなかった。後で知ることになるが、13才で父を亡くして以来苦労に苦労を重ねた彼女と生意気な学生との話がかみ合うはずがない。しばらく聞く一方だった彼女が最後にぽつりとこう言った。
「五体満足な人の中にもいい人はたくさんいる。それをそんな狭い見方で、差別、差別と言うのはおかしい」。その時の彼女の真剣な眼差しは今でも忘れることができない。 法も制度もまったく整っていない中でバリアフルな街に出ることは、そんな大小の危険を引き受けることでもあった。それを怖がっていては世の中は変わらない。世間からは過激だと批判されもしたが、彼女も他の青い芝のメンバーもただただ自分の当たり前の欲求を実現させるのに懸命だったに過ぎない。その後入部さんは25才で一人暮らしを始め、大恋愛を経て28才で結婚し、2児の母となり、40才で市会議員となって、その後離婚を経験し、5年前に62才で病没した。その後半生は車いすから引き出すのも大変な体型に変貌してしまったけれど、一本の箒となる危険も辞さないスリムでしなやかな気概は最後まで健在だった。 |
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