■ タンスと牛乳
『季刊しずく ��4』(2019年4月発行)より |
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何だか昔の話ばかり、それも亡くなった友人のことばかり書いていて、すっかり老境に入った気分である。それもそうだ。好奇心と向上心では若者に負けないつもりだが、67才は立派な老人だ。そう言えばこの頃「老人」という呼び方は評判がよくなくて、代わりに「高齢者」が使われることが多いようだ。でも「後期高齢者」などという慇懃(いんぎん)かつ無礼この上ない呼び方に比べれば、「老人」には一人屹立(きつりつ)するかのような潔さがある。だいたいヘミングウェイの『老人と海』が『高齢者と海』だったら、いったい誰がそんな本を手に取るか。 と、前期高齢者がここで力(りき)んだら話が横道にそれるだけだ。ご拝察の通り、今回も半年前に亡くなった私の友人の話である。 青山正さんが70才でこの世を去ったのは昨年の9月19日。8月下旬から膀胱ろう(膀胱からカテーテルで直接尿をとる方法)の手術のために入院していたが、病状が急変して帰らぬ人になった。「本当は殺したんじゃねえもの」と無実を訴えて再審を請求している最中の突然の死だった。
数年前から体調はよくなかった。一人暮らしのアパートでよく転倒したり幻覚症状が出たりするようになったので、本人と相談し、2016年の春にサービス付き高齢者住宅に入居した。サ高住での生活は順調で、一時はかなり元気を取り戻したように見えた。ところが次第に覇気がなくなり17年の春あたりから入退院を繰り返すようになった。最後の入院となった膀胱ろうの手術は簡単なもので、精神科の治療も含めて2週間もすれば退院できるはずだった。ただ、入院する時は意識が朦朧(もうろう)とした状態で私ともほとんど話ができなかった。今にして思えば、その時点で身体の全体状況がかなり悪化していたのではないか。うかつにも医師も私たちもそのことに気づけなかった。そのことが悔やまれる。 そして彼が満期出所したのが1994年の8月。一審判決が出た87年以後『そよ風のように街に出よう』に何度か野田事件の取材記事を書いた私は、関西で青山さんを支援する会の立ち上げに関わり、お盆の真っ最中に千葉刑務所まで出所のお迎えにも行った。出所後、彼は千葉県内の作業所で代表の障害者と同居しながらクッキーづくりに励んだが、その生活は長く続かない。一緒に働く仲間から「あいつが小さい子を見る目はおかしい」「やっぱり犯人ではないか」という声が出始め、疑心暗鬼を生じて、ついに代表も青山さんを支え切れなくなる。そして関西の支援する会に「青山さんを関西で引き受けて!」というSOSが発せられた。 青山さんが代表たちと一緒に車で大阪にやってきたのは95年1月、阪神淡路大震災の1週間ほど前だった。彼は代表を「お母ちゃん、お母ちゃん」と呼んで慕っていた。だから、まさかそのまま一人大阪に置いていかれるなど夢にも思っていなかったに違いない。しかし、置いていかれた。その日の夜、代表たちが千葉へ発った後、彼はこれから住むことになるアパートで「オー、オー」と声を出して泣き続けた。私はただただ、涙がしたたり落ちる彼の頬を見つめるだけだった。 それから私たちは再審請求の準備を進めながら、彼の生活を支えることになった。同居してくれる人も見つかり、知的障害者の授産施設も彼を受け入れてくれた。それからの彼の変貌ぶりは見事としか言いようがない。最初の夜の号泣が嘘のように次第に天性の明るさが戻って授産施設でも人気者になった。 もちろん順風満帆というわけにはいかない。最寄りのJR駅でタバコを吹かしていて、近くの学校の生徒たちから繰り返しイジメを受けたこともある。時にストレスをためて夜中に部屋の壁をドンドン叩いて隣人とトラブルになったり、水洗トイレにアンパンを袋ごと流して詰まらせたり、向かいの家が干していた布団に水をかけたりしたこともあった。1ℓの牛乳パックを何本も買いだめするので、1本ずつ買うよう注意すると、それからしばらく経ってタンスの引き出しから腐ってヨーグルト状になった牛乳のパックが出てきたこともある。首からぶらさげた何本もの紐の先端にライターや財布や時計が結んであって、それは大事なものをなくさないための彼なりの工夫だったのだが、それでもいつも何かを探していた。人間関係だけでなく、そんな細々(こまごま)としたことが彼にストレスを抱えこませた。
それでも彼はたくましく生きた。目の前の状況がどんな文脈の中にあるのかという重層的な把握が苦手で、それが彼の障害だった。それはたいていマイナスに作用したが、時にプラスに働くこともあった。いつも「今、ここ」が大事で、その時その時を一所懸命に生きようとした。平穏な田舎の生活から突然引きはがされ、多くの悪意や“善意”に翻弄されながらも、青山正という個性をしっかり生き抜いたと思う。 |
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