“制度”の中の障害者たち ・・ 35


福本 千夏

2017/03/23

 

 1年の計は元旦にあるという。だから年末に掃除を済ませて、ゆったりとした気持ちで元旦を迎えなさい。元旦にほうきを持つと、その年1年、ばたばた暮らすことになりますよ。

 久しぶりに実家に帰ったら、三十路前の孫に祖母がお年玉を渡しながらそういうことを言う。母である私の顔を見て、もらってもいいのかなというテレパシーを送りながらも、息子はそそくさとポチ袋を鞄に入れる。「あーあ。受けとっちゃいましたか。家に帰ったら、散らかり放題の部屋を掃除して、今年からぱたぱたとまめに働いておくれ」の言葉を私はぐっと呑む。日本文化は奥深く?解釈もそれぞれちがうのだ。
「ばあちゃん、来年はカラ袋でいいよ。この子が入れるから」とカニの身を父に出してもらいながら私は言う。「今年もカラや。ばあちゃん呆けてきたから。わしゃ困っとる」と父は大声で笑う。こんな嬉しそうな父の顔をみるのは久しぶりだ。うつむく孫に「カニ食べや。ばあちゃんむいたろか」。はにかむ顔はそれなりにかわいいが、カニの身は自分で取れるの。そんな私の言葉よりも先に「ばあちゃん、どうぞ」とカニの身が入った皿を私の前をスル―させる。「じいちゃんは母ちゃんに、僕はばあちゃんにレディファースト」と、4人のバランスのとれる役割になった息子の背中がこの時ばかりは大きく見える。

 5人家族から4人家族になる。私たちがそのことに対して費やした年月は10年だ。夫がこの世を去ってから私たちは家族ではなくなった。実父母がいる実家に行くたびに娘婿の死を受けいれられない母は泣いた。激しく嘆き悲しむ姿は、障害を持つ娘を今さら背負いたくないというふうにも見て取れた。守ってくれる健常者の夫がいないただの障害者には関わりたくない。私にはそんな風にさえ感じた。親といっても人間だ。育てた子供の付加価値によって距離感が決まるのも仕方がない。私はいつでも私であるのだけど……。

 夫がいなくなってから10年。何もできない私は福祉制度がご縁で私と関わるヘルパーさんや同僚、友人たちに支えられて生きてきた。昨年は念願の商業出版(飛鳥新社『千夏ちゃんが行く』)の夢を叶えていただけた。そんな姿を見つづけていたのか、母は最近あまり泣かなくなった。私が一人での移動が難しくなり、心許せる他人と短時間の訪問で、泣く姿を見なくなったともいうが……。まあ、とにかく、母の涙を見ずに、私と息子、父と母の2人家族がふたつ集まり、4人でカニを食べた正月は、1年の計である。先に逝ってしまった夫が一番喜ぶ4人の姿かもしれない。

 正月明け、「お前、少し……」ふっくら? お仏花の水を取り替えて、洗面所の鏡越しに一瞬聞き覚えのある声がした。「うわっびっくりした。あんたの声」「何……」父ちゃんに似てるってか、なんてやぼなことを言う息子ではない。「それより、たまには」と足元の体重計を指さす。そう言えば、水を飲んでも空気を吸っても太るのでは?の中高年の心配事をしばらく忘れていた。でも、うなぎ上りに上昇した体重計の数字をみた途端、ご飯がおいしかったはずだわと妙に合点した。

 少し動けていた障害者が少し太るだけで足に大きく負担がかかる。歩けなくなるの次は立てなくなるだ。この時点でトイレで用をたせなくなるなどのお困りごとがどっと増える。テレビのCМのようにパッドや紙パンツは簡単に薦めてはくださるな。パットはかぶれるし紙パンツは尿感覚を鈍感にしてしまうことは経験済みだ。それに羞恥心だって、なさそうに見えるが一応ある。

 夫が最後のホスピス入院の時、何もできない私を待ってトイレで用を足そうとしたことが、若かったあの頃は不思議で理解できなかった。が、10年経った今ようやく想像できる。「歩けません。歩く体力が亡くなりました。だから、無理してトイレに行かないで、尿瓶や紙パンツを使いましょう」と言われても出るものでない。それは、看護や介護する側の理屈だ。誰が人にお世話などされたいものか! 自分を託すということはとても切なく勇気がいるものなのである。それに一度だけのつもりの勇気がうっとおしいことになることもある。和式トイレしかない場面で「体を支えて」とお願いしたら、出会うたびに人前はばからず大きな声で「千夏さん、トイレは?」と子供に聞くみたいに言う彼女。何度かめにたまりかねて「トイレは大丈夫だから、聞かんでええよ」と大声で先に言った。まったく、健常者のお相手も少々疲れる。

 他力本願とは楽な響きに聞こえるが、容易なことではないのだ。信心などなかなかできないが、仏様の教えとされているこのことの大変さはこの身で感じる。わが身一つを動かすことにこだわり、お世話になるのを拒む、失敗を繰り返す姿はとても人間らしい。最後に仏様の懐に入る覚悟だけできていれば……。私はその覚悟さえできずに、最後の最後までじたばたと生きるはめになるだろうが。

 死は生の延長線上にある。懸命に生まれ懸命に生き、気づいたら死んでいる。懸命に生きる人の支えになるのが宗教であり、手伝いをするのが福祉だ。ただ今の日本の福祉制度は障害者がよりよく生きるためには作られていない。教育的行為も通勤通学介助もできないのは、学んで働いて生きるという、人として当たり前の権利さえ念頭にない制度だ。障害者を何の役にも立たないものとし、生かさず殺さず。

 生きることは人としての最低限の権利だ。殺されてたまるか。だが相手の都合だけで生かされるだけの福祉は福祉とは言わない。福祉という枠に閉じ込められて、福が止まらないように気をつけようと思う。あらがい続けようと思う。腹についたぜい肉浮き輪も毎日揉んで……。




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