標語やスローガンにだまされるな


二日市 安

2005/03/01

 わたしが小学校に入学する少し前に「満州は日本の生命線」ということばが広く日本国内に流布され、いつかそれが流行語とも合言葉ともなった。ラジオやレコードで繰り返し聞かされたので、60年ばかりたったいまでも耳に残っている歌の一節がある。
 「ぼくの父さん満州で死んだ。/わたしの兄さん満州で死んだ。/忠義な兵士のお墓の満州。/守れや、守れ、われらの権利」
 表題さえ忘れてしまった当時の愛国歌謡のひとつであるが、こういう歌が子どもを含めた一般市民のあいだで気軽にそして真面目に歌われた。ほかにも同じような趣旨の同じような歌がたくさんつくられ、そして歌われた。繰り返し歌っているうちに、歌詞についての疑問や違和感が摩滅していき、中身だけが頭と体の奥のほうに浸透していった。そして、満州つまり現在の中国の東北地方では明治以来たくさんの日本人が死んでおり、だから日本はこの地域に特別の権利をもっているのだという考え方が、一般市民のあいだに広くそして深く根づいていった。そしてそこから「満州は日本の生命線である」という思想が結論として導き出された。

 一般市民はとかく何らかの形での標語やスローガンを求めたがる。むろんそれが常に悪い働きをするとは限らない。「民主主義の擁護」「原爆許すまじ」もその種のスローガンであり、第二次大戦終了直後から現在にいたるまで多くの日本人の思想や行動の原点になっていることは否めない事実である。
 標語やスローガンの危険は、それが無批判に受け入れられて深く浸透し、一人歩きを始めるところにある。冒頭に引用した「満州は日本の生命線」もそのひとつだった。
 明治の
30年代から大正時代を経て昭和の10年代にいたる時期に数多くの日本人がいわゆる「満州」で死んだことはひとつの事実である。それは、数多くの日本人がそこに出かけていって「開拓」したり「定住」したりした結果であり、そしてその「開拓」や「定住」は、日本が当時のロシアから戦争でもぎ取った「権益」だった。そしてそのロシアの権益は、中国の清朝の弱体化に乗じて不法にもぎ取られたものだった。要するに、日本の権益は、不法に得られたものを一見合法的に獲得したものであり、不法なものはいくら中間の手を経たところで不法なことに変わりはない。アメリカで日常的に行われているというギャングの資金の「マネーロンダーリング」と似たような性格だったといえよう。
 ひとことでいってしまえば「満州は日本の生命線」という考え方は、ギャングが弱いものからもぎ取った金品を別のギャングが手に入れて「これはおれの合法的な所有物だ」とうそぶいているにすぎなかったのだ。

 恥ずかしいことながら、昭和一桁生まれのわたしはこの標語ともスローガンともつかない言い方に手もなくだまされてしまったひとりだった。いや、言い訳がましいかもしれないが、その言い方以外の考え方があろうとはまったく知らなかったといったほうが正確である。「満州は日本の生命線」は、わたしと同時代の少年少女たちにとっては疑うことのできない自明の原則だったのだ。
 わたしが小学校に入学した年の7月に日中戦争が始まった。当時は日支事変と呼ばれ、中国人が日本人を侮辱し排撃したことから戦争が始まったのだと教えられた。けっきょくこれは「満州は日本の生命線」に始まり、日本の傀儡国家としての満州国を中国政府や中国人が認めないのが戦争の勃発につながったのだという論理だった。わたしたちだけでなく、それより少し上の世代の人たちもこの論理をまるごと信じ、その多くはその信じるところにしたがって戦争に参加し、自らも死んでいった。
 中国との戦争が容易に終結しないのは、アメリカ、イギリスその他多くの国々が中国を支援しているからだという論理にしたがって、日本の軍隊はフランス領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)に進駐し、その進駐を非難されて石油の輸入を止められると、石油がなくならないうちに戦争を始めなければという論理にしたがって、日本はアメリカやイギリスと戦争を開始した。それが
1941年12月のことで、この戦争が1945年8月に日本の惨めな敗戦に終わったことは、いまさらいうまでもあるまい。
 要するに「満州は日本の生命線」というスローガンが日本の敗戦をもたらしたのである。これは冷静に物事の基本にさかのぼって考えれば誰にでもわかる理屈である。繰り返していうならば、強盗が不法に奪った物品を、強盗から暴力的に横取りした人間が、その物品をあくまで守ろうとして袋叩きにあったということなのだ。
 ひところこのような考え方を「自虐史観」と呼んで攻撃した人々がいた。日本が戦争を始めたのを日本の責任であるように考えるのは自虐的であると称して非難したのである。しかしいくら非難しようが攻撃しようが、過去の歴史的事実を変えることは不可能である。それでもこの人びとは「新しい日本史教科書」などというものをつくって自分たちの論理を世間に広げようとした。

 スローガンや標語にだまされてはいけないというのは、たんに過去の歴史に関することには限らない。現在進行中の事柄に関しても、スローガン的な表現でいわれていることを無条件に信じるのは危険でありおろかなことである。ましてやそれが戦争の勃発や拡大につながる場合はなおさらである。
 アメリカのブッシュ大統領は一般教書の中で、イラク、イラン、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の3国を名指しで非難し、この3国を「悪の枢軸」と呼んだ。この3国がお互いに連携してミサイルや核弾頭の開発や貯蔵に励んでいるというブッシュ氏の主張が当を得たものであるかどうかはわからないが、「悪の枢軸」という言い方は明らかにスローガン的であり標語的であり、その内容を検討する前に人間の心理の奥深く浸透してしまう危険がある。
 スローガンや標語に同調するのはある意味では簡単であり気楽である。だからといってその昔「満州は日本の生命線」という言い方を無批判に受け入れて、他国の領土を侵略し最後に自滅してしまったおろかさを、いくら「友好国」アメリカのためであろうと、繰り返していいとはとても思えないのだ。

(ふつかいちやすし/翻訳家、『そよ風のように街に出よう』に連載「日の光があふれていた」を執筆)

2008年2月16日、二日市安氏は急性肺炎のため78歳で逝去されました。独学で何カ国語もマスターされ、翻訳家として活躍される一方、文学や歴史の中の障害者像に着目した考察、障害者運動史の執筆などにも精力を注がれました。そうした創作活動だけでなく、常に障害者運動の現場に身を置かれ、積極的に反差別・人権擁護のための活動を続けてこられました。1986年にお連れ合いだった推理作家の仁木悦子さんに先立たれてからは、その喪失感を穴埋めするのに懸命な、愛の人でもありました。ここに謹んでご冥福をお祈りいたします。


 

 

 


 


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