標語やスローガンにだまされるな |
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わたしが小学校に入学する少し前に「満州は日本の生命線」ということばが広く日本国内に流布され、いつかそれが流行語とも合言葉ともなった。ラジオやレコードで繰り返し聞かされたので、 60年ばかりたったいまでも耳に残っている歌の一節がある。「ぼくの父さん満州で死んだ。/わたしの兄さん満州で死んだ。/忠義な兵士のお墓の満州。/守れや、守れ、われらの権利」 表題さえ忘れてしまった当時の愛国歌謡のひとつであるが、こういう歌が子どもを含めた一般市民のあいだで気軽にそして真面目に歌われた。ほかにも同じような趣旨の同じような歌がたくさんつくられ、そして歌われた。繰り返し歌っているうちに、歌詞についての疑問や違和感が摩滅していき、中身だけが頭と体の奥のほうに浸透していった。そして、満州つまり現在の中国の東北地方では明治以来たくさんの日本人が死んでおり、だから日本はこの地域に特別の権利をもっているのだという考え方が、一般市民のあいだに広くそして深く根づいていった。そしてそこから「満州は日本の生命線である」という思想が結論として導き出された。 一般市民はとかく何らかの形での標語やスローガンを求めたがる。むろんそれが常に悪い働きをするとは限らない。「民主主義の擁護」「原爆許すまじ」もその種のスローガンであり、第二次大戦終了直後から現在にいたるまで多くの日本人の思想や行動の原点になっていることは否めない事実である。 ひとことでいってしまえば「満州は日本の生命線」という考え方は、ギャングが弱いものからもぎ取った金品を別のギャングが手に入れて「これはおれの合法的な所有物だ」とうそぶいているにすぎなかったのだ。 恥ずかしいことながら、昭和一桁生まれのわたしはこの標語ともスローガンともつかない言い方に手もなくだまされてしまったひとりだった。いや、言い訳がましいかもしれないが、その言い方以外の考え方があろうとはまったく知らなかったといったほうが正確である。「満州は日本の生命線」は、わたしと同時代の少年少女たちにとっては疑うことのできない自明の原則だったのだ。 要するに「満州は日本の生命線」というスローガンが日本の敗戦をもたらしたのである。これは冷静に物事の基本にさかのぼって考えれば誰にでもわかる理屈である。繰り返していうならば、強盗が不法に奪った物品を、強盗から暴力的に横取りした人間が、その物品をあくまで守ろうとして袋叩きにあったということなのだ。 ひところこのような考え方を「自虐史観」と呼んで攻撃した人々がいた。日本が戦争を始めたのを日本の責任であるように考えるのは自虐的であると称して非難したのである。しかしいくら非難しようが攻撃しようが、過去の歴史的事実を変えることは不可能である。それでもこの人びとは「新しい日本史教科書」などというものをつくって自分たちの論理を世間に広げようとした。 スローガンや標語にだまされてはいけないというのは、たんに過去の歴史に関することには限らない。現在進行中の事柄に関しても、スローガン的な表現でいわれていることを無条件に信じるのは危険でありおろかなことである。ましてやそれが戦争の勃発や拡大につながる場合はなおさらである。 (ふつかいちやすし/翻訳家、『そよ風のように街に出よう』に連載「日の光があふれていた」を執筆) 2008年2月16日、二日市安氏は急性肺炎のため78歳で逝去されました。独学で何カ国語もマスターされ、翻訳家として活躍される一方、文学や歴史の中の障害者像に着目した考察、障害者運動史の執筆などにも精力を注がれました。そうした創作活動だけでなく、常に障害者運動の現場に身を置かれ、積極的に反差別・人権擁護のための活動を続けてこられました。1986年にお連れ合いだった推理作家の仁木悦子さんに先立たれてからは、その喪失感を穴埋めするのに懸命な、愛の人でもありました。ここに謹んでご冥福をお祈りいたします。 |