「塗り替えられる」ということ


畑 律江

2017/03/23

 

  頭の中で「こうだろうな」と思っていたことと、実際に現場に行ってみて感じることとが大きく食い違うことがある。新聞社で働いていると、度々そんな体験をする。

 駆け出し記者のころ、街で起きる様々な事件を取材して感じたのは、「現場は意外に静かだ」ということだった。私の頭の中には、現場にはサスペンスドラマのような喧騒があり、どこからか衝撃的なBGMが流れてくるのではないかという変な思い込みがあったのだが(これはもうテレビの見過ぎである)、事件の後の検証はどこかひんやりとした空気の中で行われていたし、周囲の家々も静かであることが多かった。

 世の中の出来事には多面性があると痛感したこともある。仕事が長引き、支局からタクシーで自宅に向かった深夜のこと。運転手さんと会話を交わしているうちに、彼の息子が、当時報道されていたある中学校での「いじめ問題」で、いじめた側のグループに属していたことがわかった。私を記者だと知って、つい打ち明けたくなったのかもしれない。彼は「学校でいじめがわかった時、相手のお子さんの家を、おわびの品を持って訪ねたのですが、許してはもらえませんでした。ご両親は報道機関に話されたようです」と言った。「息子には母親がいません。男手一つなので気をつけて育ててきたつもりなんですが……」。ハンドルを握りながら淡々と語る口調に、父親の苦労がにじんでいた。「事件はご近所でも話題になっているので、今の場所には住んでいられないと思います。近いうちに引っ越します」。いじめは大きな問題である。いじめられる子を助けねばならない。だが報道はまた、いじめた側の子とその家族にも影響を与えている。考え込まされた。

 そして1993年、「らい予防法」がまだ廃止されていなかったころのこと。私は、日本のハンセン病の強制隔離政策の問題を取材するために、岡山県の長島にある国立療養所を初めて訪ねた。入所者の方々の協力で仕事はスムーズに進んだのだが、その時に深く心に刻まれたのは、高く澄み切った青空と、ゆったりと波うつ海だった。取材に向かう時の私は、なにか重苦しい景色を勝手に思い描いていたのだろう。だが島にさす日光は明るく、海はあくまでも美しかった。だがそのことでかえって、海の向こうに故郷をしのびつつ、ここで懸命に暮らした人々の思いが胸に迫ってきた。それは予想外の体験だった。

 出来事のあった場所へ実際に足を運び、空気を吸い、かかわった人々の声を聞くことで、自分の思い込みが塗り替えられていくことがよくある。そんな経験をする度に、予定していた原稿の構成を組み直したり、「いい言葉だ」と自分で悦に入っていた情緒的な表現を削除したりしたものだ。物事を黒とも白とも決めつけられなくなって、何とも歯切れの悪い記事をまとめたこともあったし、企画そのものを取りやめたこともあった。でも、それが嫌だったかというと、そうではない。むしろありがたいとさえ思ってきた。

 後に舞台芸術欄を担当するようになって、取材の手法は少々変化し、劇作家や演出家、プロデューサーや俳優に、作品の意図や舞台への意気込みを聞く取材が増えた。たとえばある劇団が、シェークスピアの「トロイラスとクレシダ」という戯曲を、人気俳優と斬新な演出で上演する、という話題を紹介するとする。そもそも「トロイラスとクレシダ」とはどんな物語で、演劇史上ではどう位置付けられているのか? 演出家はどんな人で、その演出にはどんな特徴があるのか? 俳優はこれまでどんな作品に出て、どこが魅力なのか? それくらいはおさえておかないと、インタビューさえできない。そこで事典や演劇書を調べ、資料室で作品や劇団について書かれた過去の記事を探し出して読む。それでもわからないことは、その作品を実際に見たことのある人や、研究者や評論家に聞いてアドバイスをもらう。今の仕事は芸術にまつわる「膨大な蓄積」に目を向け、それを知ることが大前提となっているのだが、これはこれで結構、骨の折れる作業である。

 けれども今では、こうした蓄積の多くを、パソコンで一気に収集することができるようになった。資料室にこもったり、先輩に聞いたりするまでもなく、過去の紹介記事や批評がネット上で簡単に読めるようになったのだ。若い記者たちは、パソコンの扱いが実にうまく、みるみるうちに豊富な資料をネット空間から探し出し、紹介記事をすばやくまとめてくる。記事を一見しただけでは、書いた人が新米なのかベテランなのか、わからないほどだ。私のキャリアなどどれほどの役に立つのかと、自己嫌悪に陥ることもある。

 だがそれでも、である。ある程度読み応えのある記事を書こうとすると、実際の観劇体験を重ねないままでは筆に力がこもらない。現場でアーティストの行動や考え方に実際に触れた経験がなければ、的確な表現が見つけ出せない。パソコンの前だけで仕上げた原稿は、どうしても借り物の文章になりがちだ。一見しただけではわからないが、文章とじっくり向き合えば、筆者が現実の体験を持っているかどうかはわかる。つまりは記者の頭の中の考えが、現場の空気で塗り替えられていく点ばかりは、どの取材分野も同じなのだ。

 昨今、ネット上の「フェイク(偽)ニュース」が問題視されている。世間の人の注目を集めるため、あるいは自分とは異なる立場や考えを持つ人々をおとしめるためだろうか、うその記事に偽の写真をつけたニュースが生み出され、情報サービスなどを通して拡散しているという。そのニュースの見出しや写真がセンセーショナルであればあるほど、拡散のスピードは速い。遊びやパロディーだと割り切って面白がるならともかく、それを本当の情報だと信じ込む人も多く、一度拡散したらなかなか消せないから厄介である。

 おそらく既存メディアへの不信感や不満が今、ネットを利用した情報サービスの隆盛につながっているのだろう。記者はこの事実を重く受け止めねばならない。だが、少し冷静に考えれば偽だとわかる情報が拡散していくネットの世界が、いい方向に向かっているとは考えにくい。業界でも対応策が考えられているそうだが、まずは我々一人ひとりが、それぞれの批評精神を持って、日々流れてくる情報と付き合っていくしかないだろう。そして次には、できれば自分の目と足で現実を調べてみること、それが難しいなら、その情報について周囲の人たちと言葉を交わしてみることである。異なる見方に触れて考えを修正させられたり、議論に発展したりすることもあって、少々手間と時間はかかるけれど、自分に都合のいい情報の中だけに埋もれているよりは、世界が広く見えてくるはずだ。

 頭の中で発想したことを現実によって塗り替え、再び新たな発想を得ては、また塗り替える―。思えば、この繰り返しそのものが私の仕事だったのかもしれない。時に傷つき、疲れもしたが、この作業は人生の醍醐味でもあった。もし、スマートフォンの画面だけを見つめて一日を過ごす若い人がいるのなら、このことだけは伝えてあげたいと思う。

(はたりつえ/毎日新聞大阪本社学芸部専門編集委員。『そよ風のように街に出よう』に「取材ノートより」を連載中)

 

 


 


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