「戦争の役にたつ」「革命の役にたつ」って

どういうこと?


川端 利彦

2003/11/02

 「ニーチェって一体何者なんだ」「友情って何だと思う?」。晩に突然訪ねて来た中学時代の親友にいきなり言われてとまどった。そのまま会話もすすまず、彼はぶっきらぼうに「帰る」と言って出て行った。日本の敗戦から間もない頃のことである。中学3年生から海軍兵学校にすすんだ彼は、敗戦後、旧制の高校に編入学して寮にいた。
 「一体何があったんだ」と心配になって翌日にその寮を訪ねた。しかし彼はいなかった。他の入寮者に会って彼のことを尋ねると、「最近どうも言動がおかしい。日本はまだ負けてなんかいないんだと言ったり、外国の学者にへつらうなと教師につっかかったりでね。時々海軍兵学校の制服を着て外出することもあるよ」という。家族は遠くに疎開していて連絡がとれないとのことであった。
 1週間あまり経って訪ねた時にはすでに彼はいなかった。やっと家族が訪ねて来たところ、話の途中から突然彼が暴れだして手がつけられなくなり「精神病院に入院させられた」とのことであった。kawabata.jpg
 早速、その病院を訪ねたが、家族でない私は面会を拒否され、病状も教えてもらえなかった。そして3カ月後、彼が死亡したことを別の友人の便りで知った。死因は不明とのことであった。
 後に医学部に入った私は、先輩の紹介でその病院を訪ねた。たまたま、受付の女性は初めての時に出会った方であった。たった一度だけなのに、私のことを覚えていてくださった。事務室に案内され「あの時によほど話そうかと思ったけど言えなかった。亡くなった彼のことはよく覚えている。死因は肺炎ということになっているけど、ほんとは栄養失調、餓死といってもおかしくないくらいだった。あの頃、同じ原因で亡くなった方がたくさんいて、入院患者さんが少なくなっていた」とのことであった。
 その後、先輩で精神病院を経営されている方に出会う機会があってこの話をした。先輩は「自分の病院に300人余りの患者さんがいたが、米の配給がほとんどなかった。たまたま週1回の配給がハムだというので喜んでいたら小さいハムが1本だけだった。これでは患者さんがもたないと言ったら、『戦争の役に立たない人間にやる食糧はない。それだけでも喜べ』と憲兵の下士官に言われて、すごく腹が立ったががまんした。仕方がないので土地をはじめ自分の資産を全部はたいて闇の食糧を買った」とのことであった。
 その後、資料で精神病院のベッド数の推移を調べたところ、太平洋戦争前のベッド数は2〜3万であったのに、1945年終戦時は4000に減っていることを知った。「精神障害者は戦争の役に立たない」という言葉が頭にこびりついてしまった。

 昼休みの時間、医学部の構内をぶらぶら歩いていた私は、たまたま一人の先輩に出会った。「民医連」の診療所などで時々出会うことがあって、顔見知りの先輩である。突然彼に「君は卒業したらどの診療科を選ぶつもりか?」と尋ねられた。私は大いに迷っているところであった。一種の憧れのような気分で医学部に進み、はじめの解剖学や生理学などには関心をもった。しかし、臨床の講義と実習がはじまり、内科や外科のいわゆる医局なるところに行くと、そこでは実にくだらない話がうずまいていて、医者というのは何という俗物の集まりかと、ついがっかりしていた矢先だったのですぐには答えられなかった。
 その時、当時実習に行き始めていた精神科の医局が頭に浮かんだ。精神科の医局ではくだらない話は比較的少なかった。しかし、患者の現実とはなれたアカデミックともいえる話が多いのも事実であった。それでも、他科にくらべればまだしもましかなどと考えていた時だったので、「精神科を選ぼうかと思っています」と答えた。その途端に「なに!精神科? それはやめろ」と即座に言われてとまどった。「どうしてですか?」と怪訝な顔をした私に、先輩は「精神障害者は革命の役にたたない。それより外科、内科などの技術を身につけて山村工作に加わるべきだ」と言った。山村工作という言葉は私には多少とも魅力的に響いた。常々そういったことも夢想していたからである。しかし、何よりも「精神障害者は革命の役にたたない」という言葉が頭に充満した。そしてその言葉は「精神障害者は戦争の役にたたない」という言葉に置き換わって、精神病院で栄養障害で死亡した中学からの親友の顔で頭がいっぱいになった。「やはり、僕は精神科を選びます」と言ってさっさときびすをかえした。
 「戦争って何だ! 革命って何だ!……要するに弱者の生存を認めないということなのか」。この言葉は、その後ずっと私の頭を離れなかった。

 精神科に入局した私は、その時名古屋から来られたばかりの新任の教授に、「君は子どもの精神科をやれ」と言われた。2年上の先輩と同期に入った友人と3人で、とにかく子どものことを学ぼうとしたが、子どもの精神科に関する本など日本には1冊もなかった。ちょうどその頃に、京都の児童相談所が不登校の子どもの調査をするのでいっしょにやらないかと言われた。
 しかし、不登校の子どもが病院に来るなどということは考えられない。「とにかく子どもの家に出掛けて行くより仕方がない」ということで、あらかじめ児相から連絡してもらって、子どもの家に出掛けて行った。
 行く先はさまざまで、サーカスやテントで芝居の興業をしている人たちは、興業が終わったらまた移動するので、一々学校への届けなどできないと言われた。
 祇園などのいわゆるお茶屋に行くと、「学校? 学校へ行ったら三味線や踊りの稽古がでけへんやないか、そしたら、大きなってどなして食べて行けいうねん。学校が全部保障してくれるんか?」と言われて頭が混乱の極に達した。
 そのころから、今で言う「ひきこもり」の子もかなりいた。訪ねて行くとまず家族にだけ会って様子を聴き、「また来るので、その時にはご本人に会いたいですね」と言って帰るしかなかった。しかし、何度も訪ねるうちに、本人が「どんなやつが来てるねん」と気にし始めたらしめたもの、その時の雰囲気にもよるが、少しだけ話せることもあって、何度も訪ねるうちに、いっしょに外出できた子も少なくなかった。 「来るのを待ってもしょうがない。とにかく足で稼がんとしょうがないな」というのが私たちの一つの結論であった。
 この2年余りの間に学んだことは、その後、子どもにかぎらず大人の場合にでも通用することを実感した。

 「精神病院で拘束された生活から、開放された地域での当たり前の生活へ」。その後40年あまりの私の精神科医としての営みを支えてくれたのは、さまざまな障害をもつ人たちとともに歩んで来ることができたことであったと思う。
 それと同時に、「戦争の役にたたない、革命の役にたたない」という言葉を裏返して、「戦争って何なんだ?」「革命って何なんだ?」とことあるごとに頭に響く言葉もまた、私に力を与えてくれたと思っている。

 たまたま今年の8月、帯広、北見の教員の人たちの招きで北海道に行った。多少ゆとりをもって出掛けたおかげで、「浦河べてるの家」に行くことができた。そこで出会ったさまざまな人たち、ことに「統合失調」の人たちが、自己紹介の時に自らの「幻聴」「妄想」体験を堂々と白板に黒のマーカーで描いて説明する様子は忘れられない風景であった。

(かわばたとしひこ/『そよ風のように街に出よう』70号まで「ドクトル川端の外来診察室」を連載)

川端利彦氏は2015年3月24日、86歳で病没されました。精神科医として20年以上にわたって児童青年精神医学会の理事や「子どもの人権に関する委員会」の委員長を務められたほか、地域で障害児・者が当たり前に生きていける社会をめざす活動にも積極的に関わってこられました。心からご冥福をお祈りいたします。

 


 ホームページへ