編集長の右往左往ダ〜!  再録

70才の闘争宣言

「そよかぜ」No.141(2012年12月17日発行)より


河野 秀忠

 

 1942年9月23日、ボクは、死んだようにして、この世に生まれた。日本が太平洋戦争に敗北する3年前だった。そして、今年の9月に、70回目の誕生日を迎えた。つまり、戦後の現代史と共に、ボクは、今日に至ったことになる。文字通りの生き方の私的右往左往史でもある。

 正直なところ、さほどの実感はない。また、奇妙なことだが、あの、チェ・ゲバラと同い年でもあるのだ。もちろん、彼ほどの闘い方や歴史を創造したこともないし、現実のこととして、彼は、闘いの渦中で死んでいる。ボクはといえば、へろへろと自分史を耕しながら、生き残っている。今回の、「右往左往」は、そのような私的世界の変遷を、右往左往して、書き綴りたい。

 ボクは、50才と、60才の節目にも、自分自身に空元気を注入するために、「闘争宣言」を発している。70才の今、更なる空元気のために、この一文を「70才の闘争宣言」としたい。読者の皆さんには、余計話と映るかもしれないけれど、お許しあれかし。

 ボクは、16才の時に、義父と高校授業料を巡り、大ゲンカ。その果てに、家出をした。実家も貧乏ゆえのあり場所転々。だから、今日まで、実家の家族と同居することはなかった。実母と義父は、すでに亡くなって久しい。学歴もない、カネもない、コネなし少年に、いったいどのような暮らし方が、あっただろうか。自分でも不思議に思うくらいに、今日まで、なんとかかんとか、その難関をクリアーして、実に多くの仕事をこなして、口に糊をしてきた。

 2店舗の酒屋の住み込み店員に始まり、町工場の鉄工所、お寺の小僧、クリーニング店員、ミルク販売とセールス、新聞配達、トレーラー運転手などなど。雑多で、多彩だった。共通しているのは、住むところを持てないがゆえに、ほとんどが住み込み身分。中小企業。労働組合とは、無縁の賃金労働なのだった。

 いわゆる、正規の労働者とは、とても言いがたい労働環境。それが後年、同心円的、ピラミット型組織、運動はキライだぁの心情となって、ボクのからだに染みついてしまった。どんな人間になるのか、毎日そればかりの眼配りで、脳の中がグルグル回っていた。ひょんなことから、マルクス・エンゲルス全集に出会い、当時、日本社会党の浅沼稲次郎が演説会中に刺され、暗殺されるという事件があり、「日本は、民主主義国ではないのか」と、若く幼い正義感が、忽然と眼を奪った。

 街頭でもらったビラを頼りに訪れたのが、日本社会主義青年同盟東淀川支部の扉だった。いわゆる社会党系青年組織。そこに至るまでも、イロイロあったが、とにもかくにも加盟書を提出。いとも簡単に同盟員になれた。

 それからは事あるごとに召集されて、学習会だの、ビラ配りだの、選挙の動員だのと、こき使われるばっかり。ほとんどの同盟員は労働組合員で、ボクよりも年上ばかり。学習会では、マルクスの著書、レーニンの著書を回し読みして、意見を交換、議論するのだが、その内容と意見が、ボクには、サッバリ、ちんぶんかんぷんなのだった。焦ったボクは、元々、本を読むのが好きだったこともあって、左関係の本を、乱読に継ぐ、乱読。でも、所詮、つけ焼き刃にしかならなかった。

 そんなボクが、左側世界に分け入れたのは、当時の社会状況もあったし、ボクは、小柄だったが、クルクルと気軽に動くし、口達者で、ひとと話をするのが大好きだったことを見込まれ、便利使いできる柄だったのだ。

 とうとう、日本社会党東淀川総支部の書記に引きずり込まれた。それからは、党の機関紙配りのために、区内を自転車でクルクル。ボクの人生は、文字通り、クルクル人生。今でもクルクルしている。21才になった頃、今度は、日本社会党大阪府本部にトレードされた。この職場では、オルグ職。ここで、ボクの時代を区分すれば、1950年代末は、転職クルクル。1960年代から70年代始めは、左側世界でのクルクル。1970年代中頃からは、障害者市民解放運動でのクルクル人生。それぞれに奇妙な出合いだった。

 それらの全てに起きた、様々な事柄を書くには、圧倒的に紙数が足りないが、その一端を、そよ風本誌の「私的放浪史」に書き続けているので御覧あれ。

 本当に、実に、多くの事柄や関係に出合ってきた。涙のちょちょ切れるようなことや、涙が零れるような笑いごと。沢山の出会いと、別れ。息を飲むような事柄もあった。闘争や糾弾、にんげんの尊厳を傷つける事件。泣きじゃくるひとの肩を、そっと抱いたことや、叩き合ったことが、日常の風景として、橋の下を流れる川のように、ボクの視界と知力の中を流れていった。そのひとつひとつの事柄のつらなりで、ボクの今が作り上げられているといっても過言ではありますまい。

 その時代、時代の、代表的な事柄を書きつけよう。転職時代は、働く環境の悪さが記憶に残る。朝早くから、深夜まで、コテコテに働かされた。労働基本権など、どこを探してもチリほどもなかった。左側世界の頃、日本社会党大阪府本部に入ってびっくりしたのは、書記局にいるひとのほとんどが、東大を始めとした、国立大学出身のひとたちの、論客ばかりだったこと。中卒は、ボクだけだった。これが労働者の党を標榜する党なのかと。障害者市民解放運動の時代では、全国青い芝の会に同道して「79年養護学校義務化阻止」の、当時の文部省前実力闘争で、当局を交渉の場に引きずり出したこと。日本で初めて障害者市民が、国家権力と対峙した瞬間だった。「日本社会が変わるんだ」と実感した瞬間でもあった。

 70才の今、ボクには、使える時間が確実に少なくなっている。それは自覚できる。しかし、ボクがひとである限り、生きるように死ぬまでは、「社会の上部を変えるだけではなく、社会の底辺から底上げをしなければ、本当の意味で、社会総体は、ひとの社会として豊かにはなれない。そのためにこそ、ひとは闘うのだ」との理念を抱きしめる。差別や人権侵害、ひととしての尊厳を傷つけられ続けるひとたち、社会的格差に追いつめられているひとたち。東日本大震災の被災の中で苦闘しているひとたち。社会の底辺の住人たちと共に、ボクもそのひとりとして、残りの人生を闘い続けたい。それだけが、時代と世界と歴史を共有しうる方法なのだ。そして、それは、人間解放の道に通じる方法でもある。それをボクの「70才の闘争宣言」としたい。

■河野が感傷を入り混じらせながら自分を振り返るのはめずらしい。お寺の小僧やミルクの販売員をやったことはこの原稿で初めて知った。彼がキャノワードのキーを人差し指1本でポチポチと叩いて書いた5年前の文章を再録します。(小林)

       ほろ酔い気分で、河野秀忠と語ろうかい!」
         
2018年4月19日(木)午後4時(3時開場)〜
           たかつガーデン8F(大阪・上本町)

 

 




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