私は「渡し」?


小杉  礼一郎

2007/12/07

 “What are you? 当地(アメリカ)では、たまたま初めて会った人から自然な流れでそう尋ねられます。「何やってるの?」「お仕事は?」みたいな、まあ万国共通の質問ですね。「エンジニアです」「ナースよ」「化学を勉強してます」みたいなアバウトな返事から次の会話に入るわけですが、でも時おり、字義通り「お前は何か?」と自問して「そうだ、私は何なんだろう?」と一瞬途方に暮れることがあります。みなさんはどうでしょう? 

 今の私は“What are you?”と聞かれて「ネイチャーガイドです」と答えるものの、それでは食べていけずに、バスドライバー、街のガイド、木材の買い付けなどで月々の収入を得ているからです。

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 次女が3つくらいの頃、まだ舌足らずで自分のこと(名前Yuca)を“ウータン”(ユウチャンの意)と言っていました。ある時、「クニちゃんがオネエチャンでぇ、ユウチャンがイモート」という母親の何げない語りかけに、次女は2、3秒口をんっと結んでから「ウータンウータン」と怒った。(『オネエチャン』は何となくわかる。『イモート』というのがどんなものかは知らない、でもわたしは…ウータンは…ウータンのほかの何か訳のわからないものではない)イヤだ。ウータンはウータンだ。はっきりとそう主張していました。

 当人は全くそのことは覚えていないでしょう。が、私はことあるたびに「ウータンウータン」を、その時の娘の表情と共に思い出します。自分は今、あれほど一人のヒトとして自信をもって生きているだろうかと思いながら。

 ひとは成長し、家族の一員になり、社会の一員になり、いろんなシガラミでいろんな呼び方をされていきます。お父さん。お姉さん。〇〇ちゃん。先輩、主任、先生…。ときに進んで自分でそれを演じたりして。

 私は子供の頃から旅が大好きでした(今もそうです)。そして「旅は一人」が私の信条です。旅に出ると私は私でいます。きっと、自分が自分を連れ出して旅に出ているのかもしれません。

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 私の少年時代、昭和30年代の日本にはコンピュータもTVゲームもなかったが、自然は身近にありました。木に登ってセミ捕りをしたりフナを釣ったり、子供はとにかく日の暮れるまで外で遊んだものでした。野原で「すみか」を作って遊ぶのが好きだったどこにでも居るそんな少年を、親はボーイスカウトに入れた……入れてしまった。ハイキング、キャンプ、山登りへと高じ、やがて日本から世界へとその子は旅立ってしまうのでした。

 

 時は移り、日本から米北西部の一角へ来て、今の時代にこの地の多様で広大な自然を舞台に自然と人間を結ぶこと、書くことや話すことで自分にその機会が与えられていることに、たぶん何かの意味があると私は思っています。

 私が住んでいる米北西部には、雨林からキャニオン、氷河から沙漠まであり、かつ美しい。こんな多様な自然の景観が集まっているエリアは地球上でも稀です。それに惹かれてあっちの山こっちの谷へと探訪しています。人から「自然が好きなんですね」とよく言われます。確かに自然は好きですが、私は自然と人間が接する場面により引きつけられます。自然と関わってきた人間の行状(歴史)が特に面白いからです。有史前から人間は自然と闘って、勝ったり負けたり折り合ったりして生存圏を広げてきました。特に“新大陸”の広大な山野は、文明を得た人類全体の壮大な実験場に思えます。時間を横軸にした実験結果を現在進行形で見ることができる。それが北米の歴史と風土であり、なんとも面白くてたまりません。

 よく「(ヨーロッパや中国に比べると)アメリカは歴史が無いから興味が湧かない」と言われます。文明の歴史という意味ではその一面はあります。しかし、地球の歴史、地学史、自然史、人間と自然の関係史という面から見ると、アメリカは興味の尽きない地球の一角です。だからエコキャラバンは「自然探訪」が主ですが、米北西部の自然とそれを舞台とした風土、歴史も探訪・紹介しています。

 

 「自然観察指導員」なる制度が日本にあり、小生もその末席に名を連ねています。英語ではインタープリター(Interpreter)つまり「通訳者」ですが、「解説者」の意味があります。目の前の自然の事象を解説するインタープリテイション(Interpretation)、その原則は参加者の知っている事柄に引きつけて未知のものを伝えるという当たり前なことです。でもこれは簡単なようで、なかなか難しいことです。

 話すときに参考にするのは、パンフレットやトレイル・ガイドなどで、解説板に書かれている内容も紹介します。いずれも事前にネットで調べることができるし、現地に行けば接する情報です。しかし現実は、悲しいかな大自然の中に入ってすら皆さん忙しい。ゲートでパンフレットをもらっても車を運転しているし、トレイル・ヘッドでトレイル・ガイドを手にしても、大方の人は立ち止まって読まない。解説板についても同じです。自然の驚異の景色を見ても、写真を撮ると次へ行ってしまう。目の前の自然と自分がどうつながっているか、異なっているかを、知ることも確かめる時間もありません。それならば、目の前の自然や風土について関心を持てる言葉で伝えようというのがエコキャラバン活動をはじめた動機です。

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 昨秋の母の死去、この秋の一周忌があって「宿善」という言葉を改めて想いました。前世での善根という意味ですが、人が自然の景色と出会って「うわあ〜っ」という感動に突き動かされる。これはヒトだけに与えられた「宿善」なのではないか? 人間の悪い業というものもあります。それを補ってくれるOS(オペレーションソフト)のように、万人の心に組み込まれた天からの施しではないかと思っています。自然はあらゆる人に平等にこの恵みを与えるのに、心が錆ついて全くその恩恵を受け入れない人も大勢います。

 一人ひとりが五感を出来る限り使って、目の前の自然や風土と何らかの結び付きを確かめる。自然と人間の橋渡し、さらにバーチャルからリアリティーへの「気付き」、過去と未来、世代と世代、東洋と西洋、アメリカと日本の橋渡しをすること。これら「結ぶこと」が自分のライフワークだと思っています。「万人の旅」「五感の旅」、まだまだやりたいことがたくさんあります。そうだウータンはウータン、私は「渡し」なんだ。

 

(こすぎれいいちろう/『そよ風のように街に出よう』79号まで「オレゴンを渉る風」を連載)



  
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