そよ風と私


岡本 尚子

2016/07/18

 

  今から34年前、26歳の私は、りぼん社のドアを恐る恐る開けた。当時仕事にあぶれていて、居場所がなかったからだ。読者だった私は、「何か手伝おか」みたいな感じで。

 「ああそう。手伝うことはいっぱいあるから」と当時りぼん社にいた人たちは、馬の骨の私を何の躊躇もなく受け入れ、その日から仲間扱いする不思議な人たちだった。

 1週間後には、「あっ、岡本さん、取材に行ってきて!」「ぎょえー、ほ、本気ですか」「あ、連絡先はここ」と河野編集長に紙切れを掲げられ、口答えできなかった(まるで黄門様の印籠のよう)。這這の体でそのローカルな歌い手に連絡を取り、取材したのだった。

 それからの私は、やれ、ここに行け、あそこ行って来い、ついにはメジャー路線で行けと言われ、有名な人たちに手紙を送り付け、取材を依頼したりするようにもなった。岡本.jpg

 中山千夏さん、落合恵子さん、将棋の谷川名人、脚本家の山田太一さん、永六輔さんなどなど。こういう人たちには約束を取りつけるのがまず大変だった。だいたい根が遠慮深い人間だから(ホンマか?)ゴリ押しできないのである。

 それでも、メジャーな人たちは、みな、さり気ない、気負いのない人たちだった。それでいて、くっきりと自分の生き方を貫いている…そんな感じがした。

 メジャー路線も何年かして、ローカルに戻っていくのであるが(この頃になると自分で取材先を探していた)、もちろん、その人たちも、それぞれに光るものを持っていた。素敵な人たちとの出会いに毎回感心しすぎて、ぽかーんと口を開けたまま、次の質問が頭に浮かばなくて、冷や汗の連続だった私。

 障害のある子どもを育てている、お父さんお母さんたちにも出会った。何を隠そう、私は5人の子の母である(少子化の昨今、子どもたちは、友だちから「5人全部一緒のお母さんなの?」と尋ねられるらしいが…)。

 りぼん社を初めて訪ねた年、私は1人目の子を産んだ。ヌーナン症候群(染色体に傷があり、心身の発達が遅いという症状がある)だった。

 その頃、淡路島で豆腐屋を営む、お父さんお母さんを取材した。1人目に重度の障害がある男の子がいた。そして、下に2人。3人の子持ちだった。お母さんはほほえみながら言った。「いくら障害があっても、1人ではねえ、と思い、2人目を産みました。すると、2人目の子の相手が1人目の子だけよりも、もう1人相手がいた方がいいかなと思いました」。

 他にもたくさん(10号から80号まで関わったから、何組の親御さんに出会っただろうか)のお父さんお母さんに出会った。子どもの立場になり、気持ちになり、慈しんで育てておられる方たちだった。もちろん、産まれた時のとまどいから、しんどさ、つらさ、迷いも含めて、全てを吐露してくださる内容にびっくりしたり感心したり…。有難かった。

 さて、原稿書きの話になるが、最初の5、6年は、原稿を書いても、何回も書き直しを命じられた。10回書き直したこともある。「もう少しそこの部分を膨らませて書け!」「いくら面白い人と会っても面白い面白いだけではアカン。文章の山を作れ!」「毎回、同じ内容のところで反応している。この父母はここ。その父母はこれ。特徴をつかめ!」

 それから20年も経ってくると河野編集長は何も言わなくなった。書き直しもなし(めんどくさくなったのか、あきらめたのかそれは定かではない)。原稿をホメられたこともない(あたり前か)。

 編集長に泣かされたこともアル(さすが鬼の変質長)。原稿の編集のことで希望を言うと、思いきり怒鳴られた。「あんたは、自分のページさえよかったらええんやろ!」と30分は怒鳴られた。衝撃だった。そんなこと考えたこともない。そうであったら、もともと「そよ風」に関わってもいない。この時だけは「辞めたろか」と思ったぜ、さすがに。10日ぐらいは落ち込んだ。

 けれど、毎回緊張し、苦しかった取材も、あれこれ迷い辛かった原稿書きも乗り越えられたのは、初めのころ聞かされた河野編集長の言葉があったからでもあるのだ(ホンマ訳わからんオッサンや)。

 今でも河野さんのその表情まで覚えている。「岡本さん、施設の片すみで、毎号、『そよ風』を楽しみにしてくれてる障害者がおるねん。発行し続けようぜ!」。

 だけれども、私は「そよ風」に関わって29年経った5年前、書けなくなった。認知症を患った母の介護に続いて、父の看病をし、亡くなった後、人と会うのが嫌になったのである。取材だけでなく編集部の人たちとも。

 その間、過去に取材した人たちから時々電話がかかって来た。「イベントをするのでまた取材に来て下さい」「本を出したいので書いてくれませんか」などなど。全て断った。「人が変わったみたい」と言われるのは辛かったし、断るのもストレスだったが自分の体の方が大事だった(後で引き受けられたかも…とかごちゃごちゃ考えたが)。

 編集部の人たちは誰も「書け」とは言わなかった。小林副編集長さえも(この方は原稿集めの責務を負っている)。あの河野さんからは「書きたくなかったら書かんでええねんで」と電話をもらった…。

 今、これを書くまでの5年は早かった。「そろそろ取材に行って書けるかな」と思っているうちに過ぎた。

 最近気づいたことがある。私は子育て、老人介護、これに多くの時間を費した。しかしこれって、ずい分、つかみどころのない、不確かなものだなと。

 認知症の人間が、「あんたの介護はよかったよ」とか「あんたの介護はここが嫌だった」とか言うはずもないし、子育てもしかり。結果が出るはずもないし、感想を言われるわけでもない。

 そう気づくと、この、取材をして書くということ、これは確かなものであると思えてきた。

 発行後に取材相手から手紙なり電話なりが来ると文句なしにうれしかった。記事のここがよかったとかありがとうとか言われると、本当に飛び上がっては何度も1人でバンザイをした。

 編集部の仲間からもたまに誉められることもあった(河野を除く(笑))。もちろん、読者から苦言をいただいたこともあったが、それも結果が明らかにされるので有難いことでもあった。確かな手ごたえ、確かな結果…。

 先日、西田しのぶさん(視覚聴覚障害があり、身体にも障害のある女性。私がそよ風で記事にし、後にささやかな本を出版した)が亡くなった。享年60歳。しのぶさんの通訳介助者が連絡を下さり、駆けつけた通夜の席。びっくりした。遺影は、私が撮影した笑顔の写真だった。

 遺影の前には、『つるつるの不思議の手のひら』(私がしのぶさんのことを取材して書いた本)とその本を取り上げてくれた新聞記事。かの通訳介助者は、「しのぶさん、あの本のこと本当にすごく喜んでおられたので、岡本さんにお別れをしてほしかったの」と言われた。しのぶさんは手紙を書くことも電話をすることもできないから、出版当時、通訳介助者から「ありがとうと言われてますよ」と電話があったが、私は「よかったなあ」とは思ったものの、そこまでは感じていなかった。

 出版5年後に、しのぶさんの思いを伝えられ、実感として受け取ることとなった。
 食欲がなくなり、原因ははっきりしない死ではあったが、しのぶさんの死に顔は本当に可愛らしかった。触れた顔はつるつるで、頬は桜色だった。「そよ風」で取材してきたこと、書いてきたこと、それは、自分の人生で唯一確かなものだったのだと実感した晩春の夜だった。

■追記:『つるつるの不思議の手のひら』はまだ残部があります。無料。送料もいりませんので、お読みになりたい方は編集部までご連絡を!
TEL:06-6323-5523 FAX:06-6323-4456
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(おかもとなおこ/『そよ風のように街に出よう』80号まで「それぞれの花花インタビュー」などを連載)     

   
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