現代の神話
「人はなぜ人を大切にしなければならないか?」
を書き終えて


関 隆晴

2006/05/06

 

 「人は人を殺してはいけない」 
 「何でやねん。人は仰山(たくさん)殺したら英雄として褒められるんとちゃうか」
 「それでも人は人を殺したらあかんのや」 
 「ナニを甘っちょろいこと言うとるねん」
 そんな会話から取っ組み合いが始まり、周りの学生があわてて止めに入ったのは、私の研究室の3回生歓迎コンパの席でした。年甲斐もなく酔った勢いで学生とつかみ合いになりましたが、殴らせてはいけないと手首は押さえていました。それまで講義でもあまりいい反応はなく、少し鬱陶しく思っていた学生でしたが、私は久々に、少し爽やかな気分を感じていました。

 翌日、その学生、T君から長々と携帯メールが送られてきました。一応謝りを述べた後、チェチェンの独立を要求する北オセチア共和国の学校占拠テロにも触れながら、人は人を殺してはならないという命題と、人を殺したくなる状況への理解と、人殺しが続いている世界の現状の中での錯綜した気持ちが綴られ、それに対する自分なりの精一杯の説明が述べられていました。もちろん、まだ正解はないがこれからも考えて行きたいという思いや、そのための考える方向性も示してありました。

 話は少しそれますが、そのメールの中で「はっきりと(悪い言葉で言えば)批判してくれる先生」として私を評価してくれていました。「批判」を悪いこととして捉えていることに私は新鮮な驚きを覚え、ある授業で学生の発表に対して私が批評した時、学生の感情的な反発に驚いたことを思い出しました。夕食のとき高3の娘に聞くと、やはり「批判」することはあまりよくないこととして捉えられているそうでした。

 学校でも最近は褒めて伸ばすということがかなり定着しているように見えます。それは大切なことだと思いますが、批判を否定するものではないはずです。私も最近は丸くなってかずるくなってか、人の非は責めないことが身についてきたようです。しかし、私にも私なりの世界を説明するいい加減な理屈があり、その理屈に合わないことを言う人に対して、遠慮がちに批判的な意見を言うときもあります。授業のときには学生に簡単な質問を投げかけ、その答えを肯定的に受け止めながら私の論理を展開することに心がけていますが、ゼミや発表の授業ではあまり遠慮せずに批判的な私の意見を言うことが多いようです。

 私にとって批判とは、相手の人格に対しての評価ではなく、相手の論理に対する私の異論なのですが、どうも最近の若者は論理と人格の区別がついていないようです。といったような若者批判をするから、学生から感情的な反発を買うことになるのでしょう。論理と人格の区別がついていないのは、若者に限らないのかもしれませんが、「最近の若者は」という言葉を使い始めると、私ももう立派な年寄りです。

 話をもどし、T君とはその後研究室でゆっくり話し合いました。彼は消防士になる希望を持っており、人を殺してはならないという倫理観も、その準備として自分の中で考えを煮詰めていたのでした。家で消防士になるための試験勉強に励んでいるとのことでしたので、地元の消防組合でインターンシップとして受け入れてもらい、現場で卒業研究のテーマを探すことにしました。数年前の卒業生に続き、2人目の消防士が私の研究室から誕生することが、今年度の楽しみの一つです。

 「そよ風のように街に出よう」という爽やかな雑誌の貴重な紙面を7年にも渡って占拠させていただき、やっと終わってほっとしているというのが正直な気持ちです。人はなぜ人を大切にしなければならないか?というとてつもないタイトルをつけてしまい、四苦八苦しながら何とか最終回まで書き終えることができました。

 ××で○十人死亡、△△が□□を殺害、といった見出しが紙面に踊らない日はない毎日。笑顔で向き合える人と人なのに、どうして恨み憎しみ傷つけ殺しあうのか? いや逆に恨み憎しみ傷つけ殺しあう人なのに、どうして笑顔で向き合えるのか?と問うべきなのか。

 不可解この上ない人を、自分を、私なりに説明したいというのが、この執筆を引き受けたときの私の思いでした。T君とのつかみ合いは、実は自分自身との掴み合いでした。

 養護教諭養成課程という保健室の先生を養成する講座に着任し、その後、教員養成が主目的ではない教養学科という部局の健康科学講座に所属して20年余、ずっと、健康とは何かということが私にとっての中心課題でした。

 健康とは病気でないこと? 健康とは長生きすること? 健康とは環境に適応していること? 健康とは一人一人ちがうもの? 健康とは一時的な幸せな状態のこと? 健康には程度の違いがあるもの? いろんな健康の説明がありますが、私にとって最終的に納得できたのはかの有名な世界保健機関(WHO)の定義でした。1946年、新たな平和な世界の実現をを目指し、WHOを設立するに当たり、世界中の学者が集まって決めたという、世界保健大憲章の一文です。

 「健康とは肉体的、精神的、社会的に完全によい状態(well-being)のことであり、ただ単に病気でないとか虚弱でないということではない」
というものです。これは病気の反対概念として健康を定義したのではなく、肯定的な概念として健康を定義したところに意義があるという説明もありますが、私は理想概念として健康を言い切ったところにその意義があると考えています。

 多剤耐性菌の出現により、人類が唯一克服したと誇っていた病原菌との戦いも振り出しに戻りつつあり、肉体的に完全に良い状態の実現はまだまだ先のようです。精神的に完全によい状態とはどんな状態のことか、私にはよくわかりません。社会的に完全によい状態は未だかつてあったことはないでしょう。人は皆健康ではないということを言い当てているのです。

 人は皆よい状態を求めています。健康食品や健康グッズが良く売れる健康ブームは私の子ども時代から変わりません。心の平安を求めていろんな本や集団が次から次へと現れています。平和な世の中を求めていない人はいないでしょう。みんな理想概念としての健康を求めています。その理想に向かって、WHOも本気で努力しています。

 そんな理想概念である「健康」を「科学する」とはどういうことか、私にはよく分かりませんでした。なぜなら私にとって科学の対象は何らかの現実でしたから。とすると、「健康」の現実は健康でないということ、つまり人は皆よい状態にないのが現実ということです。この現実こそ健康科学の対象のはずです。これが私の健康科学の出発点でした。そしてヒトとひとという二人の神に仕える人の二面性に、人は皆よい状態にない原因があるという仮説に立ち、ヒトとは何か、ひととは何か、そしてヒトとひとの接点は何かということを私なりに説明したいというのが、私の「健康科学」のテーマになりました。そんな私のわがままを受け入れ、連載を許していただきました。紙面の向こうの読者には、私の謎解きを共に楽しんでいただきたいと思いましたが、とてもそんな筆力のあるはずも無く、毎回赤面の連続でした。しかし、何人かの投書のご意見と小林副編集長の有言無言の励ましに支えられ、何とか書き終えさせていただきましたこと、心より御礼申し上げます。

 この連載で得た結論を基に、20年後、30年後の時代を生き抜く力を持った子どもを育てることのできる教員の養成に、微力ながら尽力したいと四苦八苦している今日この頃です。

(せき たかはる/大阪教育大学准教授。『そよ風のように街に出よう』61号から73号まで「現代の神話−人はなぜ人を大切にしなければならないか?」を連載)

 


 ホームページへ