波の音は消えず……


志鷹 豪次

2015/03/22

 

 新年、福井県小浜を再訪した。生憎、みぞれ混じりの天候だったが北国の旅を望んでいたので、私には恰好の旅日和になった。

 大阪から高速バスで3時間半、車窓に流れる景色が若狭に近づいて来ると独りの作家のことを思い出した。その方は水上勉氏だった。氏は福井県大飯郡本郷村(現・おおい町)のご出身である。

 既に鬼籍に入られておられるが、氏の作品を愛してやまない読者は今でも多くいると信じている。私もその一人である。

「越前竹人形」福井県武生市竹神部落を舞台に、竹細工を生業にしている喜助と元娼妓・玉枝が織りなす物語。氏の世界に触れてみたくなりまた若狭を訪ねてみた。

 しかし、元々越前には竹人形師も居なければ竹を栽培する村もなく、全て空想の産物であり、氏の小説が書かれたのちに生まれたものであることを既に知っていた。

 バスは小浜に到着。バスを降りると冷たい風に混じり細かいヒョウが足下に降って来た。シャッター通りのアーケードに立ち、さてこれから何処へ向かおうか思案した。

 JR小浜駅から北西に向かい歩くこと10分、鯖街道の起点となる商店街を右手に、目の前を荒波が打ちよせる小浜湾が広がっていた。風を遮る建物は観光客相手のホテル以外何も無く、人影一つ見えなかった。小さな入江の湾、海原を白い兎が幾つも飛んでいた。

 風によって起きる波を波浪と呼ぶが、小浜のそれは白い兎と呼ぶ方が相応しかった。ヒョウが小雨に変わり差していた傘に雨が打つ。鉛色の雲から明るい陽がこちらに射し、光る海を期待するが風で押し寄せられた雲がまた遮り二度と陽を見ることはなかった。私は護岸工事が整った海岸沿いを西に向かい小浜公園を目指した。

 小浜香取地区、かって江戸時代に栄えた花街・三丁町である。現在も古い町並みが残っており、水上氏の小説「波影」の舞台にもなった元遊郭跡地である。小さな数軒の料亭・勘亭流で記された文字が当時を偲ばせ、しばし立ち止まり見入ってしまった。

 細い路地に2階造りの家屋が軒を連ね、北国の厳しい寒さに耐える男たちに、束の間の暖を与える桃源郷だったに違いない。

 昼間にも関わらず、千本格子の向うから今にも芸妓の三味線の音が流れ、情緒豊かな雅の時が流れている。と感じたのは私だけだろうか。

 水上文学には娼妓(売春)がよく登場する。昭和21年、公娼廃止により日本に点在する遊郭は廃業に追い込まれることになった。が、大阪飛田新地、今里新地、松島新地のように当時の幻影を残し、形態を変え商いに励む地区も少なくない。

 ここ三丁町はどうであろう。細い路地に庚申さんの赤い身代わり申が、侘しく冷たい風に揺れていた。

 その日の宿は、小浜市阿納にある「民宿はまもと」に決めていた。二年前に一度お世話になっていたので心強かった。

 2日前、その濱本さんより年賀状が届いており、美しい賀状の中で姉弟の躍動する姿が並んで写っていた。

「和華(のどか)&一輝(いつき)」

 姉はこの春、中学生になると書かれてあった。弟はバスケットに夢中、夢に向かってまっしぐらです。と小さな文字で添えられていた。

 姉弟は海が望める入江で育った。波の音を子守歌に2人は海彦として育ったにちがいない。2人の母親は水上氏と同じ出身地であると以前お聞きしたことがある。

 都会で暮らす付け焼刃のような生活で無く、自然の恩恵を一つ一つ育み、紡ぎ繋いで行く暮しをされていた。主は漁師をされていた。言葉を交わすことは無かったが、一度見かけたことがあった。前の旅で入江に浮かぶ漁船を眺めていた所、精悍な顔をした男が2人並んで歩いていた。少し離れた所からその様子を見ていると、幼い少年が男の1人に駆け寄り何か話をしていた。その少年は、先ほどまで入江の護岸で私とバスケットボールで戯れていた少年だった。雰囲気から少年の父親だと判った。優しく少年を包み込む笑顔が、2年経っても脳裏から消えなかった。

 その夜の宴は、独り旅には申し訳ないほど贅沢な夕食になった。浦島太郎伝説ではないが、竜宮城で振舞われた竜宮料理とは正しくこの夕食である。「てっちり・河豚尽くし」「焼き牡蠣」「鯛の刺身・鯛の姿焼」「ヒレ酒」……。6時に始まった宴は気づくと8時半になっていた。ここで最後に玉手箱を差し出されたなら、平成の浦島太郎になっていたに違いない。宴を終え「桜」の間に戻ると、目の前の真っ暗な海の向こうに、小さな漁火がチカチカと囁くように点っていた。

 波の音は消えず私の枕元に訪れた。宿ですることと言えば昼寝か読書。そして眼下に映る砂浜を散歩することだけだった。

 上昇気流に乗ったトンビが「ピィーピィー」と鳴けば、海鴎が「キャーキャー」と鳴き返す。部屋の窓を覆う榎木の梢が冷たい風に吹かれ震えている。昼間、散策した三丁町の町並が浮かんでは消え、そしてまた浮かぶ。私はもう一度明日その場所を尋ねることにした。

『近世までの遊郭の娼婦は「性奴隷」に等しいもので、海外から「人身売買」との批判を恐れた明治政府は、1872(明治5)年に娼妓解放令を発した。遊郭は「貸座敷」となり、そこで娼婦が「自由意思」で営業する建前となる。

 しかし、貧しい農家などから売られてきた女性たちは、前借金でがんじがらめにされており、廃業を申し出ようとすれば遊郭側から激しい暴行を受けた。警察は遊郭と癒着しており、見て見ぬふりだった。

 娼婦の「開放」は58(昭和33)年4月1日の売春防止法完全施行を待たなければならなかった。数々の歴史資料、証言から、過酷な境遇にいた娼婦たちが望んで遊郭で働いていたという事例はほとんどない。』
(2014年4月6日・日本経済新聞より)

 三丁町の遊郭は、芸妓とちがって純然たる娼妓のいる町であった。町の両側に、平家と2階家が半々に建っていて、せまい通りをはさんでいた。三丁町に入る手前小浜公園で、与謝野晶子とともに明治を代表する地元小浜の歌人、山川登美子の詩に目が留まった。

「髪ながき乙女と生まれしろ百合に
       額は伏せつつ君をこそ思え」

 乙女と娼妓が混在するこの地に、何が私を呼び寄せるのだろう。昨日来た同じ道を舐めるように歩いた。そして二度と振り返ることは無かった。

 冷たい雨が粉雪になり、小浜の街を白くしていた。バスの定刻まで2時間余り、丹後街道沿いにある常高寺を目指した。JR小浜線、線路を跨ぎなだらかな坂を登ると小さな山門が迎えてくれた。ここは漂泊の俳人・尾崎放哉が寺男をしていた場所でもある。小浜で放哉は多くの俳句を残したと伝えられている。

「浪音淋しく三味や免させて居る」 放哉

 放哉も三丁町へ通ったのであろう。

 凍え閑散とした街の中心地に戻ると「ほうー」と、冬の路地に響く寒行托鉢の掛け声と鈴の音に足が停まった。

 曹洞宗発心寺、黒い法衣にわらじ姿の雲水たちが旧市街地を歩いていた。寒行は節分まで毎日続けられる。

「死んだらあかん、死んだらあかん」

 玉枝の瞼に己の眼をひっつけて光りをさがした。玉枝は、かすかな微笑を頬に浮かべ、喜助の手に指先をかすかにふれさせたまま、こときれた。(越前竹人形より)

「寒梅の梢に宿る波の音」     豪次

 粉雪は氷雨に変わり旅人は戸惑う。雲水もこの氷雨の中を歩いているのだろうか。

 波の音は消えず私を誘う。頬を突き刺す冷たい風を受け、私は「ほうー」と、一つ雲水を真似てみた。

(したかごうじ/1958年6月24日大阪市生まれ。投稿作家&志鷹新聞編集長。30代半ばより多方面にて執筆活動。1998年「職場に笑いのウズをよぶ本」(かんき出版)にてデビュー。『そよ風のように街に出よう』に「哀愁のセールスマン」を連載中。)


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