被爆地を訪れる意味


好井 裕明

2009/08/06

 

 「そよかぜ」エッセーの番が回ってきた。小林さんからテーマは自由だからと依頼を受ける。いくつか書いてみたいことはある。たとえば怪獣映画をこよなく愛し、怪獣映画の社会学を構想しつつ『ゴジラ・モスラ・原水爆―特撮映画の社会学』(せりか書房、2007年)という本まで出してしまった者として、昨年公開された『ギララの逆襲―洞爺湖サミット危機一発』(河崎実監督)には、一言ものを言っておきたい。いくらパロディだからといっても、特撮怪獣映画というジャンルでやってはいけないことが平然とやられており、映画そのものが台無しになっているからだ。まだリメイクされていなかった宇宙大怪獣ギララも、あのような形でダシに使われただけでは、あまりにもかわいそうだ。残されているのは、日活が誇る『大巨獣ガッパ』か、大映の秀作『大魔神』か、東映の『怪竜大決戦』か、それとも最近その後の話がつくられている東宝の傑作怪奇幻想映画『マタンゴ』か、カルトムービーとしての今なお生命を保っている松竹の『吸血鬼ゴケミドロ』だろうか、等々。でもこのことについては、もう少しゆっくりと考え、どこかで論じようと思いなおす。

 で、あとは、まるっきり異なるテーマで、あることをまじめに主張したい。この4月末、ゴールデンウィーク前に、中3になる娘は、無事に修学旅行を終えることができた。行き先は京都、奈良という定番だ。東大寺を回り、宇治の平等院を訪れ、翌日は京都をグループに別れ、タクシーに分乗し、希望の寺や神社、名所を回る。三日目には、座禅などいくつかの研修コースを体験して、つくばに戻ってきたのだ。その頃は新型インフルエンザの感染が問題となる直前であり、まだ修学旅行の中止などが検討されていない。だから無事に旅行が実現したのだろう。まずはよかったと思う。

 でも、この修学旅行に私はある問題を感じていた。それまでこの中学校では、修学旅行は、京都、奈良、広島だった。5歳年上の息子も、この中学校に通ったが、修学旅行で広島を訪れることができた。私たち家族がつくばに移ってきて今年で7年目となるが、子どもたちはどちらも広島で生まれている。息子にとっては懐かしい故郷訪問だったと思う。時間的には十分ではないが、被爆地広島を訪れ、平和記念館を見学し、平和公園で被爆した語り部から話をうかがう。こうした体験を通して、息子たちは、原爆投下の意味、核兵器廃絶の意味などを実感できただろう。私は息子の修学旅行の話を聞き、広島を直接訪れる意味を感じていた。

 しかし、である。昨年秋に学校は保護者にアンケートをした。修学旅行先として広島を考え直したいというものだった。理由は簡単だ。広島と京都・奈良を一度に回るのは時間的予算的にきついので、できれば広島をとりやめたいという。確かに日程的にはきついかもしれない。でもこれまでそうしたかたちで行われてきたはずだ。今になって、なぜ、と思う。それと日程的、時間的にきついのであれば、なぜ広島がとりやめになるのだろう。京都・奈良をとりやめて、広島やその周辺をゆっくりと訪れるという発想はなぜ出ないのか。アンケートには、いまの中学生が被爆地広島を直接訪れ、そこで様々なことを感じる意義を述べ、私は広島をとりやめることに反対した。残念ながらというか、旅行先変更はすでに既定路線でアンケートは型どおりのものであったのか、アンケートの結果がきちんと公表されないまま、結果的に先に述べたような修学旅行が実現した。

 昨年の冬だったか、保護者会で経緯の説明があった。説明の中心は、日程的時間的そして積み立てていた修学旅行費用で従来の行程を続けることの難しさだった。経済状況が厳しい今日、さらに負担などできず、親たちはほぼ納得していたようだというか、させられていたのかもしれない。その後で学校側から“広島へ行かないかわり”の説明があった。平和学習は必要なので、広島へ行かないかわりに12月の人権週間にあわせ、昨年テレビで放送されたヒロシマをめぐるドキュメンタリー番組を生徒に視聴させ、その後、インターネットを使って、長崎の被爆者との交流、意見交換をしたのだと。先生の説明は、あたかもそうした代替案のほうが生徒たちに効果的であったと言わんばかりだった。何もやらないよりは、やったほうがいいのかもしれない。しかし、被爆地広島を直接自分の身体を使って訪れることの意味をこの中学校は十分に理解していないということを残念ながら自分から表明しているようでもあり、先生の説明を聞きながら、私は悲しくなってしまったのだ。

 昨年夏に広島に行く機会があった。平和記念館を訪れる。70年代、80年代の展示の仕方といまはかなり異なっている。原爆投下をめぐる研究も進み、その成果が展示に反映されている。最初、明治以降の広島の歴史が語られている。太平洋戦争の前から広島は軍都だった事実がわかりやすく説明されている。なぜ広島に原子爆弾が落とされたのか。なぜ投下候補地として広島が検討されていたのかが理解できる。そしてアメリカはどのようにして原子爆弾を開発し、日本に落とすためにどのような準備をしていたのか。複数の候補都市に模擬爆弾が投下されている事実がある。直前になり、天候の影響で最終的に広島が選ばれ、投下される。8月6日。原子爆弾が広島上空のどのあたりで炸裂したのか、パノラマがあり、6日当日の惨状を記録した5枚の写真がある。原爆投下後、日本が敗戦し、広島はどのような経緯をたどり、街として復興を遂げていったのか。その後、米ソ冷戦下、どのように原水爆実験が強行されたのか。核兵器を保有する国は、いまどこなのか。核兵器拡散防止の営みはどのように進展し、また問題を抱えているのかなど、現在に至るまでの経緯が説明されていく。

 そしてその後、渡り廊下を通って、次の建物に入る。そこでは、熱線、爆風、放射線という三つに分けて、8月6日当日、原子爆弾が広島の人々や街にいかに甚大な被害を与えたのかが語られている。焼け焦げぼろぼろになった帽子、制服、ゲートルを合わせ少年の姿を再現した三位一体の被爆資料。強烈な光線、熱線のために建物に焼き付けられた人物の影、橋脚の影。爆風の圧力のために大きく折れ曲がった鋼鉄、真っ黒に炭化してしまった弁当など。放射線の被害では、ケロイドの皮膚の標本、放射線の影響でつねに捻じ曲がり生えてくる真っ黒な爪。佐々木サダコさんが病床で折り続けたものすごく小さな折り鶴など。被爆の現実を伝えるもっと多様な資料が展示され、説明されている。

 私が見ていたときも、修学旅行の生徒たちが見学に来ていた。彼らはわいわいと楽しそうに騒いでいた。被害の凄まじさを伝える資料にも、わぁすげえと驚きの声をあげていたのだが、展示を見ていくうちに彼らから歓声や無駄話の声は消えていった。みんな、黙りこみ、真剣に資料をのぞき込み、説明を読んでいたのだ。60年も前のできごととはいえ、その悲惨さ、不条理さを伝える展示を前にして、<生の迫力>を感じ取り、彼らは言葉を失い、何かを感じ取っていたように見えた。

 近い将来、被爆した人々から<生の証言>を聞ける機会が確実になくなっていくだろうし、被爆の記憶の継承も確実に変容していくだろう。しかし、そうであるからこそ、子どもたちが直接被爆地を訪れる意味を考え直し、愚直にもそうした機会を確保し実現していくべきではないかと思うのだ。

写真は、2006年、韓国のDMZ(非武装地帯)ツアーにて家族と(右端が私)。

(よしいひろあき/筑波大学社会科学系教授。『そよ風のように街に出よう』に「くまさんの本の森」を連載中)


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