可能性としての青い芝運動「青い芝=健全者手足論」批判を足がかりに

花園大学人権教育研究センター『人権教育研究』第19号(2011年3月発行)より(一部改変)

対象化され始めた青い芝

 

 この間、1970年代を疾風のごとく駆け抜けた日本脳性マヒ者協会青い芝の会(以下「青い芝」と表す)の思想と運動に関して、さまざまな角度から言及されるようになった。2007年には青い芝の中心的存在だった横塚晃一の『母よ!殺すな』が、初版本(すずさわ書店)に収録されなかった横塚の文章や立岩真也の解説を増補して生活書院から復刊されたし、最近も主に兵庫県での青い芝の活動を追った角岡伸彦の『カニは横に歩く―自立障害者たちの半世紀』(2010年9月講談社)が刊行された。その他にも、障害学の研究者や障害福祉の関係者による論文はかなりの数に上る。

 その背景にあるのは、以下の4点だと思われる。最初に指摘しなければならないのは、青い芝の思想と運動がそれまでの障害者運動をはるかに凌駕したという共通認識の存在である。当時の脳性マヒ者はもちろん、他の障害者、健常者(特に若い労働者や学生)、そして社会に与えた影響は大きかった。そのことの思想的、社会的意味を問うことは重要である。2点目として、青い芝は現在も全国組織を維持して活動を続けているのだが、その影響力がかなり減退し、ある意味で歴史的な役割を終えたのではないかという認識がある。それが史的現象としてその運動の総体を把握しようという動機を生じさせている。そして3点目に、80年代以降顕著になる自立生活(IL)運動の進展が障害者の権利意識を向上させ、当事者主体が強く意識され始めたことがある。青い芝運動はまさに脳性マヒ者としての当事者性を前面に打ち出したものであった。最後に、そうした障害者の社会的進出と並行して、障害学をはじめとした障害あるいは障害者運動の研究領域が開拓されつつあるという事情がある。その研究の基礎資料として70年代に産出された夥しい資料(ビラ、機関紙・誌、映像)を整理し当時の関係者の証言を集め、それらを分析するという作業が精力的に進められるようになった。以上の4点が、青い芝の思想と運動に対するさまざまな言説を生じさせる原動力になっていると考えられる。

 青い芝に関して多角的な思考が形成されるのは、その思想と運動にそれだけの価値があったということであり、70年代の数年間を大学生として青い芝(特に大阪青い芝の会と青い芝の会関西連合会)とともに活動した濃密な経験を持つ私としても、大いに歓迎すべきことである。ただし手放しで喜んでいるわけにもいかない。と言うのは、それらの言説の中に青い芝の思想的核心の把握において誤ったものが散見されるのである。中でも特に青い芝の思想的中心の一つに「健全者手足論」があるとする主張について、その誤りを指摘することには重要な意味があると考える。なぜなら「健全者手足論」を前提としては、青い芝の思想の肝心な部分が理解不能となってしまうからである。本論は青い芝の思想を読解するための前提的条件としての「青い芝=健全者手足論」批判である。

 

「行動綱領」の衝撃

 

はじめに断っておくが、私は青い芝が「健全者手足論」を主張したことはないと言いたいのではない。後で見るように、確かにある時期青い芝はそれを主張した。問題はなぜ「健全者手足論」が、その時期に青い芝運動に出現したのかということである。およそあらゆる社会事象は、その事象が置かれた時代的・社会的状況の中で理解されなければならないのは自明のことであって、青い芝運動も’70年代の社会状況の中で生成変化する動的現象としてとらえる必要がある。「健全者手足論」がなぜ主張されることになったのかについても、現在の知的枠組み(エピステーメー)を前提にその主張を静的なものとしてとらえることは適当でない。

その意味でも「健全者手足論」とその背景を検討する作業に入る前に、青い芝の結成から70年代までを駆け足で振り返っておきたい。全身性の運動機能障害のある脳性マヒ(CP=Cerebral Palsy)者たちが東京で青い芝を結成したのは1957年である。当初は他の障害者やその親たちの団体と同様、相互の親睦や福祉制度の拡充等を目的としたものだったが、浄土真宗僧侶の大仏空(おさらぎあきら)との出会いと、彼が住職を勤める閑居山願成寺(茨城県)における共同体(マハラバ村)の経験(1964年〜69年)が青い芝の思想を一気に深めたと言われる。当時のマハラバ村メンバーで後の青い芝の思想的中心となる横塚晃一は、大仏の影響を受けつつ皆で議論した内容を次のように記している。

「人は誰でも罪深いものである。知らず知らずのうちに人に迷惑をかけている。いや、迷惑をかけ罪を犯さなければ生きていけないのが人間である。それを償おうとすればまた一つ二つと悪いことをしてしまう。そんな罪深い自分に気がついた時に『助けてくれ』と叫ばなければならないだろう。その叫びを親鸞は念仏といったのだ。そして念仏を叫ばなければいられなくなった時、必ず阿弥陀様が救って下さるというのだ。障害者は被差別者であり、すぐに被害者づらをするが、同時に自分が加害者でもあることには少しも気づこうとはしない。つまり、皆もっと自己を凝視し、そこから自己を主張する必要がある。そうでないと自分達を差別しているものが何であるのかがわからずに過ぎてしまう。(略)健全者の社会へ入ろうという姿勢をとればとる程、差別され弾き出されるのだ。だから今の社会を問い返し、変えていく為に敢えて今の社会に背を向けていこうではないか」(横塚晃一『母よ!殺すな』生活書院)

「自己を凝視し、そこから自己を主張」し、現実の社会を「健全者社会」と規定してその変革をめざすという青い芝運動の基本的なスタンスは、既にこの時点で形成されたと見ることができる。しかしここではまだ青い芝は少数の脳性マヒ者たちによる、社会的にも注目されない集団に過ぎなかった。

青い芝の名が広く世間に知られることになったのは、1970年の横浜における障害児殺し事件だった。脳性マヒのわが子を殺した母親に世間の同情が集まり「減刑嘆願運動」が展開されると、青い芝(同会神奈川県連合会)は殺される側から異議申し立てを行った。新聞やテレビは、日本の歴史にはじめて現れたと言っていい障害当事者による強烈な自己主張をこぞって取り上げ、青い芝は世間の注目(評価と批判が相半ばするのだが)を集めることとなった。

そうした青い芝のラジカルな「健全者社会」告発は、横塚と並んで青い芝の中心であった横田弘が起草した次の有名な「行動綱領」に結実する(4番目の「われらは、健全者文明を否定する」は後に会内部の議論を経て追加された)。

〈一、われらは、自らが脳性マヒ者であることを自覚する。―われらは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつある自らの位置を認識し、そこに一切の運動の原点を置かなければならないと信じ、且つ行動する。

一、われらは、強烈な自己主張を行なう。―われらが、脳性マヒ者であることを自覚した時、そこに起こるのは自らを守ろうする意志である。われらは、強烈な自己主張こそそれを成しうる唯一の路であると信じ、且つ行動する。

一、われらは、愛と正義を否定する。―われらは、愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発し、それを否定することによって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且つ行動する。

一、われらは、健全者文明を否定する。―われらは、健全者のつくり出してきた現代文明が、われら脳性マヒ者を弾き出すことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動及び日常生活の中から、われら独自の文化をつくり出すことが現代文明の告発に通じることを信じ、且つ行動する。

一、われらは、問題解決の路を選ばない。―われらは、安易に問題の解決を図ろうとすることが、いかに危険な妥協への出発であるか身をもって知ってきた。われらは、次々と問題提起を行なうことのみが、われらの行ない得る運動であると信じ、且つ行動する。〉

(最後の「われらは、問題解決の路を選ばない」は「健全者手足論」との関係で後ほど取り上げることになる)

たぶんに文学的匂いを発するこの格調高い綱領は多くの人々に衝撃を与えた。「愛」と「正義」と「健全者文明」を否定するというそのラジカルな主張は、「あってはならない存在」として収容型施設や自宅に閉じ込められていた障害者たち、そして人間と環境を犠牲にしながら高度経済成長路線をひた走る社会に不信を抱きながら方向性を見出せないでいた学生や労働者たちに大きな共感をもって迎えられた。青い芝の会員とそれを支持する健全者は一気に増え、’70年代後半には北海道から九州まで都道府県単位で20を越える組織と、東北や関東、関西といった各地域ブロックを形成した。

 

青い芝の大衆化と混乱

 

そうして運動が拡大する一方で、青い芝は内部に大きな問題を抱えることになる。それは運動の拡大に必然的に伴って生じる矛盾だと言うことができる。つまり、「行動綱領」を生み出した少数の先鋭的な脳性マヒ者の運動から多くの脳性マヒ者の運動へと青い芝が拡大するにつれて、障害者運動に特有の2つの困難が生じてきたのである。一つは、多数の重度障害者にとって、社会運動やその思想に触れる経験がまったくないか、極めて乏しかったということである。彼らは「不幸な存在」「社会のお荷物」として施設や在宅での生活を強いられ、社会的経験を行う機会を奪われてきたのだから、それは当然のことだった。そしてもう一つは、運動が拡大し多くの脳性マヒ者が施設や家を飛び出して地域での生活を開始すると、当然ながら多くの介護者が必要とされることである。

社会的経験の乏しい(奪われた)障害者と圧倒的に人数が不足する介護者(健全者)との間に軋轢が生じないことの方が不思議である。時に会の活動よりは映画館や喫茶店に行くこと(それは当たり前の欲求なのだが)を優先させる障害者たちと、「健全者社会を否定する」という青い芝運動に魅了され、いわば社会変革活動の一環として介護活動を続ける健全者たち。今日ほど公的な介護制度が用意されていない中で、両者が衝突するのは当然の帰結だった。

それは青い芝運動が全国的にもっとも盛んだった(つまり大衆化が進んでいた)関西において顕著だった。関西では大阪(1973年)、兵庫(74年)、和歌山(74年)、奈良(75年)、京都(75年)と次々に青い芝が結成され、それらが関西連合会を形成して全国青い芝の中でも大きな発言力を持つに至っていた。介護を受けつつ地域での自立生活を始めた青い芝のメンバーは関西だけでも数十人に達したが、介護態勢がそれに追いつかなかったために、毎日の介護者探しが最重要課題とも言える状況だった。障害者も健全者も相当の無理をしながら運動を続けていたのである。外に対しては反差別を掲げて告発を重ねながら、内部では社会的経験においてまさる健全者たちが、青い芝の障害者の活動家としての力量をランクづけたり、時に障害者を見下すような言動をとったりすることが目立ち始めた。このままでは運動の主体性が失われると危惧した全国青い芝は、健全者の組織を解体することを決定し、健全者に障害者の手足になり切ることを求めた。その時に提出されたのが「健全者手足論」である。

 

「青い芝=健全者手足論」の実際

 

 以上の70年代後半の青い芝運動の混乱期を実際にその渦中で体験した者として、私には「健全者手足論」が青い芝という障害当事者組織を守るために、緊急避難的に健全者に向けて提出されたものだという実感がある。そしてそれは、青い芝の思想とは本来相容れないものだと考えている。そのことを検討する前に、では「青い芝=健全者手足論」が実際にどのように流布されているのか、具体例を見ておきたい。

70年代の障害者運動の新しい盛り上がりをつくり出した「青い芝の会」という有名なグループがありまして、そこでは「健常者手足論」という、障害者の手足として健常者を使っていくんだというような言い方がなされていました。(略)彼らの論理の中で最大の欠落は、(障害者と健常者の:引用者注)「関係性」というものが見えていなかったんだろうということです。健常者というのを単なる障害者の手足としか意識できなかったところが、青い芝理論の最大の誤りだと思っています。〉(斎藤縣三「協同総研関西地域会員研究集会2006・2・6」講演録)

1970年に横浜市でおきた親による「障害児殺し」に対する鋭い告発が「神奈川青い芝の会」によって展開されるが、ここでは障害者自身の「強烈な自己主張」がもっとも重視され、それを保障するために介護者である健全者(健常者)は「障害者の手足に徹すること」が原則とされた。〉(楠敏雄「障害者介助システムを考える」『DPIわれら自身の声』Vol.21/3所収)

 断っておくが、斎藤も楠も反差別・障害者解放運動のリーダー的存在であり、青い芝運動の良き理解者であり、社会的影響力のある言説の担い手である。その彼らが「青い芝=健全者手足論」を展開するのだから、他の障害者運動史や障害者福祉の研究者たちが、当然のこととしてそれを受け入れるのも無理はないと言えるかも知れない。

 しかし前述したように、確かに青い芝が「健全者手足論」を前面に出した事実はあるが、それは運動の混乱期に出てきたものであり、それは青い芝運動の本質ではなく(もちろん、本質とまったく無関係だと断じることはできないが)、混乱期における一時的な思想の変容だと私は捉えている。だとしたら、活動家や研究者が事実誤認をしているという指摘だけで問題は終わらない。「青い芝=健全者手足論」は、「行動綱領」に象徴される青い芝の思想の中心だけでなく、なぜ青い芝がそのような主張を打ち出したのかという運動史上の重要な問題も見えなくさせるのではないかと危惧するのである。

 

全国青い芝「見解」の“動揺”

 

 1978年7月6日、全国青い芝の会の会長だった横塚晃一の名前で「健全者集団に対する見解」(以下、「見解」と表す)と題する文章が出されている。横塚が「細網肉腫」によって志半ばで没するのが1978年7月20日であるから、そのわずか2週間前の文章である。

 その「見解」にはこう書かれている。

〈常に健全者というものが私達脳性マヒ者にとって「諸刃の剣」であることを私達は忘れてはなりません。つまり青い芝の会(脳性マヒ者)がこの社会の中で自己を主張して生きようとする限り、手足となりきって活動する健全者をどうしても必要とします。が、健全者を私達の手足となりきらせることは、健全者の変革を目指して行動しはじめたばかりの私達脳性マヒ者にとってはまだまだ先の長い、いばらの道であります。手足がいつ胴体をはなれて走り出すかもわからないし、そうなった時には脳性マヒ者は取り残され生命さえ危うくなるという危険性を常にはらんでいるのです。〉(『はやく ゆっくり−横塚晃一最後の闘い』介護ノート編集委員会)

 ここには青い芝運動が健全者たちに引き回されているという危機意識とともに「健全者手足論」が明瞭な形で述べられている。ただしこの「見解」は、もう少し注意深く読まれなければならない。

 右に引用した文章より前の「見解」の冒頭部分にはこう書かれている。

〈私達はこれらの健全者組織と青い芝の会との関係を「やってやる」「理解していただく」というような今までの障害者と健全者の関係ではなく、むしろ敵対する関係の中でしのぎをけずりあい、しかもその中に障害者対健全者の新しい関係を求めて葛藤を続けていくべきものと位置づけてきました。〉

 そしてこの後、先に引用した「健全者手足論」の部分をはさんで、「見解」の末尾近くにはこう書かれている。

〈青い芝の会と健全者集団は相互不干渉的なものではなく、健全者の変革に向けて激しくぶつかりあう関係であるべきです。〉

 総数が2千字に満たない「見解」の中にあって、冒頭部分と末尾部分の二つの文章には重要な差異が存在する。前者が「敵対する関係の中でしのぎをけずりあい」「新しい関係を求めて葛藤を続けていく」と変革の相互性を色濃くにじませているのに対して、後者は「健全者の変革」として変革されるべき対象を「健全者」に限定している。ところが単なる変革ではない。「健全者の変革に向けて激しくぶつかりあう」のである。一方的に変革すると言う一方で双方が「激しくぶつかりあう」というのは、どう読んでも自己矛盾をきたしている。

 この「見解」に書き手の“動揺”や“焦燥”を見るのは私だけではないだろう。もちろん、その原因を横塚の重病に求めるのは安易に過ぎると思う。青い芝運動の混乱期にあって、その運動を牽引し続けてきた横塚(と全国青い芝の中心メンバーたち)の苦悩が反映しているように思えてならない。

 

相互変革の思想

 

ここで、ひとたび「健全者手足論」を離れ、青い芝「行動綱領」の最後にある「われらは、問題解決の路を選ばない」に注意を喚起したい。そこには「われらは、次々と問題提起を行なうことのみが、われらの行ない得る運動であると信じ、且つ行動する」とある。ここには、現在のDPI(障害者インターナショナル)をはじめとする障害者運動が「私たち抜きに私たちのことを決めないで(Nothing About Us Without Us)」として政策参加型の運動を展開しているのとは位相の異なる思考を見ることができる。問題解決への「路」を求めるのではなく、あくなき告発と問題提起によって自己と他者、個と集団(社会)の間に軋轢(摩擦熱)を生じさせ、それによって新たな関係を拓いていく。これは、「正(即自)」と「反(対自)」が止揚(aufhebenされて「合」に至るというヘーゲル弁証法に類似した思考ということができる。その弁証法的関係の中には、「健全者手足論」とは相容れない障害者と健全者の「相互変革」が重要な要素として存在すると見るのが自然だろう。

かつて横塚はこう語っていた。

〈(ボランティアが)障害者問題に取り組んだとすれば、我々とのかかわりというのは、改たまった場ということではなく日常的なかかわりであり、そのかかわりの中から何かを生み出していくことがなければならないと思います。言葉を変えていえば、両方がかかわり合い衝突することによって、双方が勉強していく訳です。〉(『母よ!殺すな』)

〈(障害者と健全者が)どういう関係であるかというと、一つにはお互いの違いを認め合うことでしょうね。それからやっぱり違うというようなことでは困るわけ。本当の友達、あるいはたまには一杯飲みに行こうかというようなことで、そういったつき合いはできないもんだろうかと思うわけです。〉(同書)

「行動綱領」を書いた横田はこう語っている。

〈「こんな体に生まれなかった方が良かった」「障害者だった為にこんな苦労をするのだから、私の子供が『異常』だったら中絶する」という発想が多くの障害者によってなされており私たちの(優生保護法)改定案反対署名にも冷たい態度をとりつづける者が多かった。しかし、これは他の障害者の問題ではなく、私自身の心の底にもあるものなのである。〉(『炎群−障害者殺しの思想』しののめ発行所)

 相互変革のスタンスが必然であるのは、このように青い芝の障害者たちが自らの内にある「健全者性」に自覚的だったからである。そのことを横塚も繰り返し語っている。青い芝運動が否定しようとしたのは「健全者」ではなく健全者、障害者双方が抱える「健全者性」であり、その姿勢は運動の核心部分を貫いていたと言うことができるだろう。

 

運動論としての関係性

 

 私の考えでは、「青い芝=健全者手足論」は、青い芝の障害者と健全者の関係性を運動論として見ない誤りから生じている。運動論としては「健全者手足論」は右に紹介した青い芝の思想と論理的整合性を持ちようがないと思われる。青い芝は「健全者性」と「健全者社会」(それは能力主義あるいは優生思想という言葉に象徴される)に立ち向かう壮大な(ある意味で無謀な)闘いを開始した。そしてそれに共感する健全者が、自らの差別性と向き合いながらその闘いに参加しようとした。これが青い芝と、同道した健全者の関係の土台である。

 70年代の青い芝運動では、鉄道自殺した脳性マヒ者が入所していた施設を糾弾する「和歌山センター闘争」、乗車拒否に端を発した「川崎バス闘争」、車いすの教師をつくり出すための「大阪市役所占拠闘争」など、激しい告発や糾弾の闘いは枚挙にいとまがない。それらの闘いは時として合法と非合法の境界をかすめ、そのために警察に身柄を拘束される可能性をはらむものであった。しかも、障害者を保護される対象としか見ない当時の社会意識のもとでは、その可能性は当の青い芝メンバーよりも介護にあたる健全者の方が高かったと言える。

 そうした闘争で障害者の介護をすることの意味は、「介助はいかにあるべきか」といった問題の枠組みでは捉えることができない。もちろんそうした激しい場面は当時の活動のごく一部であり、日常的にはトイレや食事の介護があり、一緒に映画を観たり酒を酌み交わす関係があった。激しい非日常も一見穏やかな日常も共に相互変革、社会変革の一局面であり、健全者(組織)はそうした変革の契機として介護を行っていた。先に「手足論」は「運動論として見ない誤りから生じている」と言ったのはそういうことである。

 社会福祉の田中耕一郎は、社会変革運動における障害者と健全者の関係性を介助論の枠組みで語ることには十分に批判的だ。彼の著書『障害者運動と価値形成』は障害者運動における価値形成の変遷を丁寧にたどった労作である。しかしその論考の緻密さにもかかわらず、日本の障害者運動の中で重要な位置を占めるものの一つであると評価する青い芝の主張になぜか「介助者手足論」という誤ったラベリングを行う。

〈当時、「介助者手足論」という主張が介助をめぐる議論において頻用されていた。これは、「『青い芝の会』神奈川連合会」と「健全者支援組織行動委員会」との申し合わせ事項にあった文言から抽出され、符丁化されたようである。(略)障害者の介助における主体性を担保するために、健常者は障害者の手足としてその指示に従うべきである、というこの主張は現在のCILにおける介助者教育の文脈においても一定の妥当性を持つだろう。しかし、当時の「介助者手足論」は、このような介助行為における障害者の主体性担保という主張の枠に収まるものではなかった。それは、介助行為を通した健常者の意識変革の延長に社会変革という目的を措定した主張だったのである。〉(『障害者運動と価値形成−日英の比較から』現代書館)

 「『介助者手足論』は…障害者の主体性担保という主張の枠に収まるものではなかった」、「介助行為を通した健常者の意識変革の延長に社会変革という目的を措定した主張だった」と指摘するのであれば(これは、意識変革の対象を健常者に限定していることを除けば正しい指摘だ)、それを「介助者手足論」と呼ぶのは適当ではない。と言うよりも、読む者に誤解を与える危険性がある。少なくとも私の知る限り、「介助者手足論」なるものが当時の青い芝の主張の中に存在したことはない。

 

「健全者手足論」の初出をめぐって

 

 私はこれまで「青い芝=健全者手足論」批判を、障害者問題総合誌『そよ風のように街に出よう』や、その編集部が読者向けに発行する通信『そよかぜ』、インターネットなどを通して展開してきた。その中で私が批判をした人たちとも直接顔を突き合わせて議論をしたし、何人かの主に障害学の研究者から意見をもらうこともできた。

 ある研究者からは、そうした私の主張に反して「健全者手足論」は運動の混乱期以前に既に提出されていた可能性があるという意見とともに、「青い芝」神奈川県連合会が発行する『あゆみNo.42』のコピーが送られてきた。やや細部に入り込むことになるが、「健全者手足論」が提出された時期を特定することは青い芝と「健全者手足論」との関係を明確にする上で重要なので検討を加える。

 『あゆみNo.42』の発行日は1978年4月15日で、横塚晃一の「見解」が出る3か月ほど前になる。そこに「組織矛盾について」と題する同連合会の矢田竜司の次のような文章がある。

〈「青い芝」神奈川県連合会が第3回全国大会に参加した18名中、10名が長く在宅され、長く施設の内にいる人々であった。その行動に支援した健全者も十名である。健全者支援組織行動委員会と「青い芝」神奈川県連合会との協議の中に、すべての健全者は障害者を抑圧し、「差別する根源者であると確認しあい、会の行動にあたっては介護の手足に徹する」と申し合わせていた。〉

 これは、田中耕一郎が先に紹介した記述の中で、

〈「『青い芝の会』神奈川連合会」と「健全者支援組織行動委員会」との申し合わせ事項にあった文言から抽出され、符丁化されたようである。〉

と指摘する根拠になった文章である。ここでは確かに健全者が障害者の「手足に徹する」ことが確認されている。しかしそこには会の行動にあたっては」という限定が付いていることを見逃してはならない。あくまでも青い芝がその主張に基づいて活動(例えば差別糾弾闘争や街頭カンパ活動や各種の会議など)をする際に、介護にあたる健全者は「手足に徹する」ことが求められているのである。青い芝の主張や活動がまず大前提としてあり、その上に「手足に徹する」介護活動が要請されるという構造をしっかり見ておく必要があるのであって、これは先に「運動論としての関係性」の項で述べた通りである。

 そのことを確認した上で、この「青い芝の会」神奈川連合会と健全者支援組織行動委員会との「申し合わせ」がいつ行われたのかを見ておきたい。矢田は、先に引用した文章の少し前に、

〈昨年15回総会を機会に、事務所の開設と支援者組織、行動委員会の誕生を軸に、もっと抑圧され、放置されている在宅者や施設にいる脳性マヒ者の街に出る欲求が大きく前進されてきた。〉

と書いていて、この「支援者組織、行動委員会」と先の「健全者支援組織行動委員会」は同一のものと思われる。となると、両者の「申し合わせ」は『あゆみNo.42』の発行日(1978年4月)より前、神奈川連合会の「第15回総会」(77年4月)より後ということになる(77年11月の「第3回全国大会」より前という可能性もあるが、矢田の文章からははっきりしない)。

 青い芝運動が特に関西で障害者と健全者の関係をめぐって混乱し、それが78年7月に横塚晃一名の「見解」につながったのは先に述べた通りである。ところで、その混乱を乗り越えるために、「見解」に先立つ77年10月に関西で青い芝の会関西連合会、関西グループ・ゴリラ連合会、リボン社のそれぞれの代表者の連名で「緊急あぴいる」が出されている。それは一言で言えば、青い芝運動内部における障害者を蔑視するかのような(特に専従で活動する)健全者の言動を批判するものであった。当時青い芝運動が最も拡がりを見せていた関西において内部矛盾を明らかにする「緊急あぴいる」が提出されたことで、問題は一気に表面化し、全国に波及して「見解」表明につながるのである。そして検討したように、『あゆみNo.42』の記述によって「手足に徹する」のはあくまで「会の行動」という運動を前提としたものであることが再確認されるし、その記述によっても「手足」という言葉を含んだ「申し合わせ」が(「見解」より前なのは確かだとしても)「緊急あぴいる」以前になされていたと断定することはできない。

 

可能性としての青い芝

 

 以上私は、「健全者手足論」は、青い芝運動が混乱した状況下で、組織防衛上止むに止まれずに提出されたものであって、青い芝の思想(の少なくともその中心)とは相容れないものであるということを指摘してきた。なぜそれほどに私は「健全者手足論」にこだわるのか。その理由は簡明である。「健全者手足論」を前提としては、マハラバ村の実践から「行動綱領」に至る青い芝の脳性マヒ者たちの自己凝視、相互変革、社会変革の核心を捉えることができないからである。

 「青い芝=健全者手足論」が誤りであることを指摘する作業は、私にとって青い芝思想の核心に迫る一つの足がかりに過ぎず、そこから先がより重要である。つまり私の問題意識に照らせば、かくもラジカルに人間の実存に迫ろうとした青い芝運動が、なぜ当初のエネルギーを失い、内部矛盾を膨らませ、「健全者手足論」を主張せざるを得ないところまで追いつめられてしまったのかということを社会的諸関係の内で明らかにすることが重要なのだ。それは運動論的に言えば、障害者解放運動における「当事者性」とは何か、運動そのものが抱える「能力主義」を越えることができるか、そして二項(ここでは障害者と健全者)対立を抱え込みつつそれを越えた反差別の運動はどのようにして可能かという問題である。そして更に広げて言えば、そもそも生き物としての人間に「優生思想」を超える可能性など残されているのかという原理的な問いにつながる。

 これらの問いに真摯に向き合うことが恐らく(としか今はまだ言えないのだが)、自己責任の強調と経済格差の拡大を基調とする新自由主義(neoliberalismが描く人間像への有効なカウンターパンチになり得るのではないかという直感が私にはある。その直感に論理的な裏付けを与える作業はまだ始まったばかりである。(了)

 

ホームページへ