変言字在28−死刑廃止論のためのノート (1)

『むすぶ 511』(2013年8月発行)より

 今回からしばらく、死刑制度について書かせていただこうと思います。私の問題意識はタイトルの通り制度を廃止するためにはどのような語りが必要なのかというところにあり、本稿はそのためのノート(覚え書き)です。これまで死刑制度の存廃をめぐっては膨大な言葉が提出されていますし、本誌でも特集が組まれたことがありますから、読者の皆さんはすでに議論の要点を十分に把握されていることでしょう。したがってこれから紹介する言説やそれについての私のメモには、まだるっこしさや物足りなさを感じられるかも知れません。でも世の中のできごとには、ぐだぐだと考えてそれでもなかなか回答が見つからないことが多い。死刑制度存廃も恐らくそんな困難な問いの一つだと思います。

 今年二月のこの連載で、私は作家の辺見庸さんの次のような言葉を紹介しました。

――(死刑を)まるでゴミ処理のように人まかせにして自分は安全なところにいる。(略)死刑に反対する人も、意図せずともそれに加担していることに変わりはない。また死刑反対論のなかには、その主張をみずからの身体にかかわらせないかぎり、死刑を生産していく余地がどこかにある。それほどに死刑という問題は困難なのです。――(『愛と痛み―死刑をめぐって』毎日新聞社二〇〇八年 79〜80頁)

 そして「『その主張をみずからの身体にかかわらせ』ることの意味を問いながらもう少し先に進むことができたら、またここで死刑について書きたい」と記しました。わずか半年で「先に進むことができた」わけではもちろんありません。その時と同じ地点から少しでも先に進むために、たどたどしく歩を進めてみようと思います。どうぞお付き合いください。


経験できない、経験しないことの困難

 

 さて、幾分奇妙なところからノートをスタートします。死刑の問題に入る前に、経験できないことの困難を考えてみたいのです。というのは、死刑を論じる文脈の中で、「死」は決して自分で経験することができない(経験した時には既に死んでいる)という、いわば当たり前のことの延長として哲学者の次のような指摘があるからです。

――本来は、「私」の存在を確定する「私の死」こそが問題であるはずなのに、それが不在のまま、それを論じる、つまりは、問題は本質的に不確定であらざるをえないのである。逆の言い方をするなら、死を「論じる」という文脈においては、問題が不確定的であり続ける、ということが自然な状態なのである。「自殺」、「安楽死」、「脳死」といった死をめぐる問題群にいくばくか想いを馳せただけで、そうした状況を確認できよう。これらの問題群は、真には「私」に生起する事態として考えてはじめて実質と重みをもちうるはずなのに、死んでいない「私」がいわば三人称的に論じるしかない。(略)かくして、そこには絶対に拭いきれない不確定感が漂う。これらの問題群に対して、どう考えるべきか、本来的に結論づけられないのである。――(一ノ瀬正樹『死の所有―死刑・殺人・動物利用に向き合う哲学』東京大学出版会二〇一一年 22〜23頁)

 経験した者としての語りこそ「実質と重みをもちうる」のは確かにそうだろうと思います。戦争体験や差別を受けた体験など、当事者が発する生々しい言葉には聞く者の心を揺さぶる強い力があります。一ノ瀬さんはジョン・ロックの人権思想などを引き合いに出しながら、死刑廃止論ではなく死刑不可能論(死刑はそもそも刑罰としては存在できない)を展開するんですが、そこに立ち入るととんでもない紙数が必要になるのでやめておきます。問題は、〈ある出来事を経験できない→不確定である→結論づけられない〉という彼の論理展開です。本当にそうでしょうか。「実質と重みをもちうる」ことと「確定される」ことはイコールなのでしょうか。私は違うと思います。問題は1+1=2のように数学的で厳密な回答を求められるかどうかではなく(社会事象においてはそんなことは不可能です)、私たちがどのような社会を求め、そのためにどのような制度を必要とするかという価値観なのだと思います。そしてその価値観にどれだけの共感が得られるかが問われるのです。

 一ノ瀬さんは「死を『論じる』」ことの困難を語っていて、それはそうだと思います。死後の世界を信じる人もいれば私のような無神論者もいます。死は経験できないがゆえにさまざまな解釈を許します。しかしここで論じようとするのは「死とは何か」ではなく、死刑制度という社会システムです。「自殺」や「安楽死」や「脳死」について論じる場合も同様です。それらが社会的な事象として私たちに示される以上、その社会を構成する一人としての私はそれらの問題の当事者です。もちろん人によってそれぞれの事象との遠近の差、切実さの違いはあります。沖縄の人たちとヤマトンチューでは米軍基地問題に対する切迫感は異なります。そこに沖縄の人たちの怒りもあります。しかし彼らが怒るのは怒るべき対象に対してです。つまり、「あなたたちも米軍基地を沖縄に集中させた当事者なんだよ」と彼らは私たちに言っているのです。安易にウチナンチューになりきってその代弁をすることは避けないといけませんが、しかし「沖縄の人にしか普天間基地の危険性は解らない」と思考停止することも許されません。

 以上のことは後々触れることになるだろう「被害者感情」の問題ともリンクします。オウム真理教の信者たちを追った『A』『A2』などのドキュメンタリー映画を制作した森達也さんは死刑廃止論者として知られています。その彼がルポライターの鎌田慧さんとの対談の中でこう述べています。

――以前、シンポジウムの会場で、「もしあなたの家族がサリン事件で死んでいたら、あなたは『A』や『A2』(二〇〇一年制作)などの映画を作れたのか」と質問されたとき、僕は「作るわけがない。もしかしたら麻原に個人的に復讐しているかもしれない」と答えました。そうしたら会場がけっこうどよめいて、「それはダブルスタンダードじゃないか」って血相を変えて言う人がいたから、「当たり前だ」って答えました。(略)僕は事件については加害者でもないし、被害者やその遺族でもない。つまり非当事者です。当事者と同じ感情はもちたくてももてないし、論理も違うはずです。同じ位相に立つべきではないし、そもそも立てるはずがないんです。――(『部落解放』六〇四号 特集「死刑廃止論―存置と廃止の壁を越えて」二〇〇八年 20〜21頁)

 森さんは死刑制度について真面目に考えてきた人で、『死刑―人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う』(朝日出版社二〇〇八年)などの著書があります。その彼は一ノ瀬さんとは別の視点から経験できないことの困難を語っているわけです。しかし私には「同じ位相に立てない」としても、その場所で立ち止まっていいとは思えません。この問題は「被害者感情」のところでもう一度考えます。