変言字在29−死刑廃止論のためのノート (2)

『むすぶ 513』(2013年10月発行)より

 前回やや奇妙なところから、このノートをスタートしました。経験できない、あるいは経験しないことの困難ということです。前者については、自分で「死」を経験できない以上「死」についての語りには「絶対に拭いきれない不確定感が漂う」、従って死刑についても確定的に語ることはできないという哲学者の一ノ瀬正樹さんの言葉を紹介しました。原理的にはその通りかも知れません。でも問題は、数学の証明のように一つの結論に確定的に至ることができるかどうかではなくて、私たちが倫理や制度としてどんな社会を選択するかということではないかと書きました。

後者の「経験しないことの困難」については、私たちが事件の被害者や遺族ではない以上、安易にその人たちに自分を重ねて語るべきではないという映画監督の森達也さんの持論を紹介しました。彼は死刑廃止論者ですが、しかし実際に身近な者が殺された時は死刑を望むかも知れないと率直に語ります。大きな殺人事件などが起きると、加害者を「殺せ、殺せ」と叫ぶ人たちがネット上に溢れます。森さんはそういう人たちに向けて、被害者や遺族と自分を一体化してはいけない、同じ感情や論理は持てないんだと言っているのです。それは確かにそうかも知れません。しかし私は、「当事者」と「非当事者」の二分法で考えることにはやや違和感があります。このことについては「被害者感情」のところでもう一度考えるつもりです。

今回から死刑存廃をめぐる主要な論点を取り上げ、それぞれについての言説を紹介しながら私なりに考えを整理してみたいと思います。ただし、存置派、廃止派双方が概ね了解していると思われる論点には触れません。例えば「死刑廃止は国際的な潮流である」や「死刑に犯罪抑止効果はない(少なくとも効果があるという証明はない)」などは各種統計から明らかになっていますし、「殺人者には死を」という応報刑の考え方は日本の科刑実態がそれを否定しています(年間約千件の殺人に対して死刑確定者は十人程度)ので、煩雑を避ける意味でここでは立ち入らないことにします。

 

死刑と無期とを分かつもの

 

 ご存知のように日本の刑罰は「死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留及び科料を主刑とし、没収を付加刑とする」と刑法(九条)で定められています。死刑に次いで重い刑は無期懲役です。ここで「無期」というのは満期がないことを意味しますが、「改悛の状があるときは十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」と刑法二八条にあります。最近は厳罰化の影響を受けて仮釈放までの期間の平均は三十年を越えていますが、それでも塀の外に出る可能性は残されています。

そこで、死刑に次ぐ刑が仮釈放のある無期刑(相対的終身刑と呼びます)であるのは両者の違いが大き過ぎるという指摘があります。私も同感です。死刑は人間の完全な抹殺ですから、教育刑の側面を持つ他の刑罰と明らかにレベルが異なります。懲役(有期であろうが無期であろうが)と死刑との間に連続性はありません。その間には深くて大きな谷があります。

では、ある犯罪について死刑を科すか無期懲役を科すかを決定する確実(科学的・客観的)な根拠はあるのでしょうか。そういう時によく引き合いに出されるのが一九八三年、連続射殺事件の永山則夫さんに対して最高裁が二審の無期判決を破棄・差し戻した際に示したいわゆる永山基準です。ドキュメンタリー映像作家の堀川惠子さんはこう紹介しています。

――最高裁判決は、「死刑は……生命そのものを永遠に奪う冷厳な極刑で、究極の刑罰であることを鑑みると、その適用が慎重に行われなくてはならないことは、第二審判決の判示するとおりである。」と高裁の船田判決が死刑に対して示した精神については肯定している。/そのうえで九つの量刑因子「犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等」をあげて、「その罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許される」とした。――(『死刑の基準―「永山裁判」が遺したもの』日本評論社二〇〇九年 295頁)

堀川さんは「原則死刑回避、例外死刑」という当時の考え方が、現在は逆転して「原則死刑、例外死刑回避」になっているという文脈の中で永山基準を紹介しているのですが、ここでそのことに触れる余裕はありません。問題はこの「九つの量刑因子」が「被害者の数」「犯人の年齢」「前科」を除けばみな抽象的で、とても「基準」と呼べるものではないということです。それらはせいぜい量刑を判断する際の「検討項目」に過ぎず、そこには主観の入り込む大きな余地が残されていると言えます。

この永山基準では十分ではないということで、死刑と無期とを分かつ客観的な基準を求めようとする研究者もいます。熱心な死刑廃止論者で犯罪学者の菊田幸一さんは、そうした努力の一つである専修大学の前田俊郎教授の論文(「死刑適用の先例的基準」『法律のひろば』二三巻一九七〇年一〇月、所収)について次のように書いています。

――論文によると、死刑、無期に密接な相関関係があると思われる事項を危険率(引用者注:仮説を否定するものを肯定すると誤判断する確率)五パーセント以下の事項に求め、(1)殺された被害者の人数、(2)実行の着手を基準とした兇器の入手、(3)被害者の年齢、(4)計画性、(5)犯人の年齢、(6)求刑等を計量化して死刑と無期懲役の識別をすると、その成功率は七六・二パーセントであるとされる。(略)しかし先に示した(略)事項というのは、実は計量化することが容易な事項のみをとりあげており、計量化が困難な事項は当然ながらとりあげていない。(略)むしろ人間の行動においては計量化できない部分が決定的な役割を果たすであろうし、その部分が計量化可能な部分に重大なインパクトを与えていることもありうる。――(『新版 死刑―その虚構と不条理』明石書店一九九九年204205頁)

 言うまでもなく、人が犯罪に至る過程にはさまざまな歴史的、社会的な背景がありますし、その人の心理的要素が影響を及ぼすこともあります。被害者と加害者との関係だって単純に善悪で図式化することはできません。事件が社会に与えた影響なども計量化できるものではありません。量刑判断はそうした「計量化できない部分」を、裁く者の価値観や洞察力に依存しながらなされるとても人間的なものです。死刑と無期懲役との間にはとてつもない距離がありながら、その二つを分かつ科学的で確実な根拠などはないと言えます。

 そこで、この二つの間の大きな距離を縮めようという議論があります。次回は、仮釈放のない終身刑(現行の仮釈放のある無期刑を相対的終身刑と言うのに対して絶対的終身刑と言います)を導入すべきだという主張について考えてみようと思います。   つづく