変言字在30−死刑廃止論のためのノート (3)

『むすぶ 515』(2013年12月発行)より

前回は死刑と無期懲役刑との間にとてつもなく大きな距離があること、にもかかわらず重大な罪を犯した者にその二つの刑のどちらを科すかについて確実な基準が存在しないことを書きました。存在しないと言うより、存在し得ないと言った方がいいかも知れません。しかし、繰り返しになりますが、懲役五年と六年とを分ける厳格な基準が存在しないことと、死刑と無期の間にそれが存在しないこととはまったく意味が異なります。一人の人間の生命を抹殺するか仮釈放の可能性のある無期刑に処すか、その重大な判断の基準が曖昧で、恣意性が紛れ込む余地があるとしたら、やはり大きな問題だと言わざるを得ません。

 

絶対的終身刑の導入をめぐって

そこで、死刑と無期刑の間の大きな距離を縮めようという議論が出てきます。仮釈放のない終身刑(絶対的終身刑)を導入すべきだという主張です。この主張には、死刑を廃止した上で導入すべきだというものと、死刑を残したまま導入すべきだというものとがあります。超党派の国会議員によって構成される「死刑廃止を推進する議員連盟」は前者の立場から、2003年に「重無期刑の創設」と「死刑執行の一時停止」を、2008年に執行の停止ではなく「死刑判決の場合は全員一致」を内容とする法案を取りまとめました。重無期刑(絶対的終身刑)を導入することによって死刑廃止に向けた一歩を踏み出そうとするものです。後者の立場からは、2008年に先の議員連盟に死刑存置派が加わる形で「量刑制度を考える会」が発足しています。ただし、どちらも法案提出までには至っていません。

私は基本的に、死刑を存置したまま絶対的終身刑を導入するということには反対です。それで少しでも死刑判決を減らすことができるというのであれば現実的な戦術論として一考の価値はあるかも知れませんが、昨今の厳罰化傾向を考えると危険の方が大きいと思います。そこでここでは前者の、死刑を廃止した上で導入すべきだという主張について考えてみたいと思います。この主張に対しては、根強い反対意見があります。元刑務官で死刑存置派(ただし実際の執行には反対または慎重)の坂本敏夫さんは、経済政策的な見地からこう述べています。

――終身刑を導入したらどうなるか。今の裁判官たちは終身刑の判決を乱発。日本の刑務所人口は十万、二十万人にふくれあがる。七万人でパンク状態の日本の刑務所はいくつ必要になるか。刑務所を一つ建てる予算と一年間に必要な維持費を計算してみよう。@刑務所建築費…百億円で一千人収容の刑務所が一つ建つ。A毎年必要になる収容費…一人当たり年間六十万円だから千人で六億円。B毎年必要になる人件費…職員は三百人、平均年俸を低めに六百万円と見積もっても十八億円。これだけの金を使うのなら発想を転換し、将来を見据えて日本をよくするために使えばよい。――(『元刑務官が明かす死刑のすべて』文藝春秋社2006年246247頁)

絶対的終身刑を導入すれば裁判官や裁判員が「終身刑の判決を乱発」するという指摘は、あまり当てになりません。それに、仮に現在の死刑判決(12年確定数9件)や無期判決(同34件)がすべて絶対的終身刑に置き換わったとしても(無期刑がすべて終身刑になることは考えられませんが)、受刑者数が一挙に増えることはありません。それはともかく税金の無駄遣いを言うのであれば、矯正施設の実態を直視する必要があります。法務省の矯正統計年報によれば新受刑者3万人前後に占める知的障害者(知能指数70未満)の割合は09年が23・0%、10年が22・6%であり、犯罪白書によれば60歳以上の刑法犯の検挙数は83年に全体の5・7%だったのに12年には23・8%に達しています(これは社会全体の高齢化ということでは説明できません)。矯正施設は軽微な犯罪を繰り返す知的障害者や高齢者であふれているのです。坂本さんの反対論は的をはずしていると言わざるを得ません。

法社会学者の河合幹雄さんは、別の視点から導入に反対します。絶対的終身刑に処せられた者は「一生外に出られない」という絶望によってやけになり、収容システムにとって危険だというのです。

――もともと刑務所内での矯正教育にせよ、あるいは秩序形成のための手立てにせよ、結局は「いつか外に出るときのための準備」を前提としてシステムが構築されており、日常的に受刑者を指導するあらゆる仕組みも究極的にはそれに依存するかたちで効力を維持してきた。このような背景を踏まえて「仮釈放なしの終身刑」の導入がもたらす先行きを見とおすと、予測される重大な結論の一つは、秩序を揺るがしかねない暴発的な行動が起こる危険性を孕むだけでなく、秩序維持をはかるすべての仕組みが陳腐化する恐れさえあることだ。――(『終身刑の死角』洋泉社2009年141頁)

 しかしこの主張にも賛成できかねます。例えば元最高裁判事の団藤重光さんは、『死刑廃止論 第六版』の中で、絶対的終身刑と言っても理論的には恩赦が認められるべきだと指摘しています。現在でも死刑に恩赦減刑が認められている以上、これは正しい指摘だと思います。

それだけではありません。河合さんは先に引用した文章の後、こう述べています。

――これまでも死刑囚だけは「いつか外に出るときのための準備」の埒外にあったのだが、その代わりに彼らは直面する死への覚悟という大命題を抱えていた。教誨師との交流を通じて死刑囚は「改心」というある種の宗教的な境地へ向かうのだが、その際にもたらされる心境の変化が結果的には刑務所内の秩序維持に資するような側面がある。――(同141頁)

一生外に出られない」のは死刑囚も同様だが、彼らは「死への覚悟」によって「改心」の境地に至るので秩序は維持されるというのは余りに一面的な捉え方だと思います。実際の死刑囚は実に様々です。無実を訴え続ける者もあれば、刑場に連行されても全力で抵抗する者もいます。殺されることよりも「一生外に出られない」ことの方が人々を絶望させ、「暴発的な行動」につながるというのは少々理解に苦しみます。生きていればこそ、例え可能性はゼロに近いとしても外に出る希望を持つことができる、また、最期まで塀の中で生き続けることの意味も見出せるのではないかと私は思います。

収容施設の秩序が維持されるかどうかは、収容される者がその施設においてどんな処遇を受けているかということと深く関わります。死刑廃止論に立つ人の中にも絶対的終身刑は死刑より残酷だとして導入に反対する人がいますが、残酷だとしたらまず外部交通権の制限や体罰、劣悪な環境など、矯正施設における処遇を問題にしないといけないのではないでしょうか。それが改善されるならば、死刑より残酷だなどとは決して言えないはずです。

現在の刑罰体系から死刑を除去することがベストですが、それが困難であれば死刑を廃止する代わりに絶対的終身刑を導入することは、真剣に検討する価値があると思います。   つづく