変言字在31−死刑廃止論のためのノート (4)

『むすぶ 517』(2014年2月発行)より

 前回、仮釈放のない終身刑(絶対的終身刑)を導入することの是非について検討しました。そして結論として、現在の刑罰体系から死刑を除去するのが最善だが、次善の策として死刑を廃止する代わりに絶対的終身刑を導入することを真剣に考えていいのではないかと書きました。一昨年12月に政権が自民党に戻って以降、谷垣禎一法相は既に4度、計8人の死刑を執行していて、制度の廃止を求める者にとって事態は悪化の一途をたどっています。

 裁判員制度がスタートした当初は、死刑密行主義を改め死刑制度について議論をしようという気運が盛り上がったかに見えましたが、すぐにその熱も冷め、この次善の策すら議論の俎上に上らなくなりました。そんな中で2月17日、死刑判決に関わった3人を含む裁判員経験者20人が、死刑に関する情報の公開と国民的な議論を求める要請書を谷垣法相に提出しました。これを機に、国会ではもちろん、広く市民の間で死刑制度について腰のすわった議論が交わされることを願います。

死刑は憲法が禁じる残虐な刑罰か

 今回は少し視点を変え、死刑制度が憲法の禁じる残虐な刑罰に当たるかどうかについて考えてみます。刑法11条には「死刑は、刑事施設内において、絞首して執行する」とあります。一方、憲法36条は「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」と定めています。そこで当然、絞首刑という執行方法は「残虐な刑罰」に当たるのではないか、刑法11条は違憲ではないかという主張が出てきます。丸山友岐子さんの『超闘死刑囚伝―孫斗八の生涯』(社会思想社)には、50年以上前、死刑囚自らが絞首刑の残虐性を訴えて違憲訴訟を起こし、本人が裁判官らと一緒に刑場を現場検証するという、現在ではとても考えられない状況が克明に綴られています。

 最近では、5人が亡くなった大阪パチンコ店放火殺人事件(2009年7月)の裁判員裁判で、被告人の責任能力などとともに絞首刑の残虐性が争われました。11年10月に開かれた法廷にはオーストリアの法医学者ヴァルテル・ラブルさんが弁護側証人として出廷し、絞首に使用されるロープの長さや死刑囚の体重や体格によって頭部が離断したり、逆に数分間にわたって意識が喪失せず苦しむケースがあると証言しました。その翌日には元最高検察庁検事の土本武司さんが同じく弁護側証人として出廷し、自ら執行に立ち会った経験をもとに「絞首刑はむごたらしく正視に耐えない。限りなく残虐に近い」と証言しています。裁判員裁判としては長期の60日間の審理の後、結局一審大阪地裁は弁護側の主張をしりぞけて死刑を選択しました。そして二審で控訴棄却判決が出され、現在最高裁に係属中です。

 その一審判決は、弁護側証人2人の指摘を一定程度認めた上で、次のように述べています。
――死刑は、そもそも受刑者の意に反して、その生命を奪うことによって罪を償わせる制度である。受刑者に精神的・肉体的苦痛を与え、ある程度のむごたらしさを伴うことは避けがたい。(略)絞首刑が死刑の執行方法の中で最善のものといえるかは議論のあるところであろう。(略)確かに、絞首刑には、前近代的なところがあり、死亡するまでの経過において予測不可能な点がある。しかし、だからといって(略)残虐な刑罰に当たるとはいえず、憲法36条に反するものではない。――

 死刑がある程度「むごたらしさを伴う」のは仕方がないとしながら、絞首刑という執行方法が「最善のもの」かどうかは議論があるし、「前近代的なところ」もあると認めます。しかし残虐とまでは言えないというわけです。かなり歯切れの悪い感じがします。そこに裁判員の意見が反映しているのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

 ところでこの裁判を報じた新聞記事の一部には「死刑の残虐性が争われた」という表現が見られましたが、この裁判で争われたのは死刑制度そのものではなく、あくまで絞首刑という執行方法の残虐性です。そこには死刑の執行を避けるためには、制度ではなく執行方法を問題すべきだという被告・弁護側の判断があったと思われます。すぐに制度の変更を実現することが困難な以上、その弁護方針は間違っていないと思います。でも、死刑制度の存廃問題という文脈の中にこの弁護側主張を取り込むのは少し危険です。極端な例で言えば、残虐ではない執行方法(例えば一切の苦しみを与えないような脳科学的方法)が考案されれば死刑は存置してよい、ということになりかねないからです。

 死刑が残虐であるかどうかについては、私はその執行方法に限定して議論するのではなく、死刑求刑から執行に至る一連のプロセスの中で議論すべきだと考えています。「計画された強制的な死」を与えるというその全過程に残虐性が認められるかどうかが問題ではないかと思うのです。そしてその前提の上で考えれば、どんな執行方法であろうと「残虐でない死刑」というのは、「赤い青」や「四角い三角」と同じような形容矛盾ではないかと思います。

 ただ、憲法が死刑を容認しているかどうかということになると話は単純ではありません。ご存知のように憲法31条は「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」と規定しています。その反対解釈によって憲法は死刑を認めているということになり、学説でもそれが主流のようです。一方、死刑存廃問題はお互いに共有できる価値観を前提として論じるべきであり、その価値観は憲法前文や13条(個人の尊重、幸福追求権)に求められるべきだから死刑は違憲だという学説もあるようです。違憲かどうかは、憲法のベースとなっている考え方をもとに論じるべきだというのですが、どうも圧倒的に少数のようです。

 ただし現憲法下でも死刑を違憲とする道が残されていないわけではないようです。少し古いですが、死刑を違憲とする時代がくる可能性に触れた最高裁判決(補充意見)を紹介します。

――ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によって定まる問題である。(略)国家の文化が高度に発達して正義と秩序を基調とする平和的社会が実現し、公共の福祉のために死刑の威嚇による犯罪の防止を必要と感じない時代に達したならば、死刑もまた残虐な刑罰として国民感情により否定されるにちがいない。かかる場合には、憲法第三十一条の解釈もおのずから制限されて、死刑は残虐な刑罰として憲法に違反するものとして、排除されることもあろう。――(1948年、尊属殺・殺人・死体遺棄事件に対する最高裁大法廷判決・島保他3名の補充意見)

 ここで語られる「解釈の制限」は、今問題になっている「集団的自衛権」の容認のような「憲法解釈の変更」とは方向がまったく異なります。この補充意見が「死刑の威嚇による犯罪の防止を必要と感じない時代」の到来を「解釈の制限」の前提にしている点は問題ですが、「基本的人権の保障」という憲法の精神をより深化させる考え方ではないかと私は思います。   つづく