変言字在33−死刑廃止論のためのノート (6)

『むすぶ 523』(2014年8月発行)より

 私はこれまで、死刑存置を望む人たちに対して、より説得力のある死刑廃止論を語るための準備作業として、さまざまな言説を紹介しながら自分なりに考えを整理してきました。そして、仮出所の可能性がある無期刑と死刑とをわかつ厳密な基準は存在しないこと、仮出所のない絶対的終身刑の導入は検討する価値があること、憲法は死刑を許容しているが解釈の変更(深化)は可能だということを述べました。そして前回、内閣府世論調査で存置やむなしと答えた人の割合が高いことより、そう答える人が調査の度に増加していることの方が重要で、いわゆる厳罰化の背景には国家主義の拡がりがあるのではないかと記しました。

 今回は、死刑制度と国家との関係を考えてみたいと思います。「死刑と戦争は国家による殺人だ」とよく言われます。この言葉は死刑制度に反対する立場から発せられることが多いのですが、そうした評価を抜きにして、事実をそのまま表したものだと言うことができます。確かに両方とも、殺人を合法的なものとして国家が認め、国民に押し付けています。では、国家が死刑制度を持つというのはどういうことなのかを、これから少し考えてみます。

死刑制度と国家

 結論めいたことを先に言えば、私はある政権がひとたび対外的な暴走を始める時、国民を強圧的に一つに統合するための大きな武器が死刑制度だと思っています。私が死刑廃止の立場に立つ大きな理由がそこにあります。日本の刑法には、適用される刑罰が死刑だけという罪が一つだけあります。外患誘致罪です。刑法八一条は「外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者は、死刑に処する」と定めています。国の統治機構を破壊し基本秩序をかく乱する内乱罪でも、その「首謀者は、死刑又は無期禁錮に処する」(七七条一項)とありますから、外患誘致はそれより重く、有無を言わさず殺されるわけです。さらにこの罪が特異なのは、首謀者であるかどうかも、実際にどの程度の被害が出たかも問題にしないことです。単に外国に「武力を行使させた」だけで死刑になります。私が調べた限り戦前戦後を通じてこの罪が適用された例はありませんが、国家と死刑制度との関係を考える上で、外患誘致罪はその象徴のように思えます。自己を対象化することは決して許さないという国家の強い意志が、死刑という形で表明されているのではないでしょうか。

 ただし、以上の私の言い方には、国家をどう見るかという価値観(国家観)が深く関わっていますから、そのレベルで死刑存廃問題を議論すると、底のない沼にはまり込むことになりかねません。あくまでも国家を中心に据える国家主義者の人たちが、私と同じ理屈を持ち出して、だからこそ死刑が必要なのだと主張することも可能だからです。ですからここでは、あくまでも死刑(=殺人)という行為が国家にとってどんな意味を持つのかということに絞って考えてみたいと思います。

 では、死刑という国家による殺人と一般刑法犯としての殺人とはどこがどのように違うのでしょうか。一般の殺人事件の背景にはたいてい、被害者に対する激しい愛憎や恨みといった感情があります。無差別殺人と言われるような犯罪でも、そこには他者や社会に対する激しい憎悪を見ることができます。金銭目的の計画的な殺人もありますが、その背後にはやはりどこかバランスを失った人間感情の壊れのようなものがあると思います。いかに周到に計画されたように見えても、そこには人間を殺害するという行為そのものが発する不穏で不条理な臭いが渦巻いているのではないでしょうか。

 最高裁の裁判官を務めたこともあり、死刑廃止論者としても知られる故団藤重光さんは、そうした一般の殺人と、法による殺人(死刑)との違いを次のように述べています。

――国家ないしは法が殺人犯人を死刑にするというのは、規範面のことです。犯罪の事実面は不合理の世界、不正の世界ですが、刑罰を科するという規範面は合理性の世界、正の世界でなくてはなりません。不正に対するに正をもってするのが刑罰でなければなりません。犯人が被害者を殺すのは不合理の世界であって、これと同じレベルで国が死刑によって犯人を殺すことを考えることは許されません。もし同じレベルで考えるならば、それは法が個人対個人の間の犯罪のレベルに自己を低める、貶(おとし)めることになります。犯人が人を殺したのだから法はその犯人を殺す、死刑にするのだ、という議論は、法を堕落させる議論ではないでしょうか。――(『死刑廃止論 第六版』有斐閣 2000年203頁)

 団藤さんは「犯罪=不合理の世界」と「法=合理性の世界」とはレベルが異なると言います。そして「不正に対する正」として刑罰を捉えることが重要であって、国家が殺人を行うのは「法の堕落」だとまで言っています。その背景には近代国家やその法の支配に対する大きな信頼があります。そこで思い出すのがベッカリーアの言葉です。近代刑法学の基礎を築いたとされる彼は、「人殺しをいみきらい、人殺しを罰する総意の表現にほかならない法律が、公然の殺人を命令する…なんとばかげていはしないか!」と『犯罪と刑罰』(1764年)の中で嘆いています。

 少なくとも建前としては、法は規範であり正義でなければなりません。この「建前」は重要です。その前提が取り払われてしまえば、法治国家は崩壊するしかないのですから。団藤さんは先の文章で、法(=国家)による殺人という制度が存在することによって法(=国家)が不合理の世界に埋没し、その前提が崩れるのではないかと危惧しているように見えます。

 この団藤さんの指摘は、日本における死刑の密行主義にも通じるのはないかと思います。ご存知のように日本では、事前の死刑執行日や執行される者の名前、執行する理由や手続きなどの情報がずっと隠され続けています。執行後に名前や執行場所が公表されるようになったのはつい七年前です。拘置所内のどこに刑場があるのかも「警備上」というブラックジョークとしか思えないような理由で秘密にされています。死刑確定囚と外部との面会や文通も、監獄法の改正によってほんの少し改善されたとは言え、かなり制限されています。

 国際的な批判を浴び続けながら、いったいなぜ日本政府はそこまで密行主義にこだわるのでしょうか。私はそこに、死刑制度によって「法が個人対個人の間の犯罪のレベルに自己を貶める」ことに起因する執行刑務官らの苦悩、法務大臣や官僚らの葛藤を見る思いがします。そしてそのことと好対照をなすのが、法治国家として確立しているとは言い難い強権国家や紛争が続く国々での公開処刑ではないかと思います。近代法治国家と死刑制度が併存することの矛盾や困難が、日本の密行主義に現れているのではないでしょうか。死刑執行に関する情報を積極的に公開する米国で、死刑判決も執行数も劇的に減少している事実(死刑判決1996年315件〜2011年78件)にも留意すべきかも知れません。  つづく