変言字在34−死刑廃止論のためのノート (7)

『むすぶ 525』(2014年10月発行)より

 より説得力のある死刑廃止論に近づくためのノートも、そろそろ終盤に差しかかりました。私が予定していたテーマで、残るのは誤判と被害者感情の二つです。これまで私は、仮出所の可能性がある無期刑と死刑をわかつ厳格な基準は存在しないこと、仮出所のない絶対的終身刑の導入は検討する価値があること、憲法は死刑を許容しているが、解釈の変更(深化)は可能だということ、死刑制度の存廃を問う世論調査には誘導があり、存置を支持する人の比率の高さより、それが次第に高くなっていることに注意が必要だと書きました。そして前回、死刑制度によって、法が個人対個人の間の犯罪のレベルに自己を貶(おとし)めるという意味で、近代法治国家と死刑制度は両立しがたいことを指摘しました。

 残る誤判と被害者感情の二つは、野球に例えれば死刑制度廃止チームと存置チームの抑えのエースだと言えます。相手を抑えようと登場するエースに対して、攻撃側は何とかそれを打ち崩そうと躍起になります。今回はまず誤判の問題を考えてみたいと思います。


誤判による死刑を防ぐことができるか


 死刑執行後、仮にその人が無実だと分かったら取り返しがつかない、だから原理的・制度的に誤判を完全になくすことができないのなら死刑制度は廃止すべきだということはこれまで繰り返し主張されてきました。存置派の人たちは反論に汗水流します。もっとも誤判は死刑事件に限ったことではありません。そこで犯罪学者の重松一義さんは次のように言います。

――誤判の問題は死刑に限らず、すべての裁判に係わる問題であり、これを理由とすれば全ての裁判を懐疑し否定しなければならない。そもそも誤判は公平適切な裁判として絶対にあってはならないことであり、最新の科学を採用し、誠実に事実の真相究明に最善の努力を払うことにより誤判防止につとめる以外になく、「疑わしきは罰せず」、所詮は、「適正な司法の問題」「デュー・プロセスの論点・追及点の領域問題」として解決されねばならぬ問題である。――(『死刑制度必要論』信山社1995年 78頁)

 死刑にしても懲役刑にしても、失われたもの(後者の場合は主に「時間」)の取り返しがつかないという意味では同じだから、誤判があることを死刑廃止の理由にするのなら、他の刑罰についても同様であり、従って「全ての裁判を懐疑し否定しなければならない」と重松さんは言います。ですから「最善の努力」によって誤判を防止することこそが問題であって、誤判と死刑制度を結びつけて論じるのはおかしいというわけです。それに対して前回も登場した団藤重光さんはこう語っています。

――例えば、懲役刑などにしても、長いこと刑務所に入って、後で無実だということがわかって出されても、失われた時間、失われた青春は再び戻って来ないという意味では、これもたしかに取り返しがつかないものです。しかし、そういう利益はいくら重要な、しかも人格的(その意味で主体的)な利益であろうとも人間が自分の持ち物として持っている利益ですが、これに対して、生命はすべての利益の帰属する主体の存在そのものです。(略)死刑はすべての利益の帰属主体そのものの存在を滅却するのですから、同じ取り返しがつかないと言っても、本質的にまったく違うのであります。――(『死刑廃止論 第六版』有斐閣 2000年160頁)

 私もこの団藤さんの意見にまったく同感です。重松さんは懲役刑によって失われることになる時間や社会的信用と、それらの「すべての利益の帰属する主体」である生命とを同じレベルで論じていますが、私にはそこにとても無理があるように感じられます。

 やはり死刑は他の刑罰と次元を異にする特別な刑罰ですから、決して誤判があってはならないと思います。では、死刑事件で誤判を防止することは可能なのでしょうか。

 団藤さんは同じ『死刑廃止論』の中で最高裁の判事として死刑判決を維持すべきかどうか「深刻な苦悩を味わった」経験を語っています(181頁)が、同じく元裁判官である森炎さんは次のように書いています。

――冤罪危険を認識した結果、職業裁判官はどうしているかと言うと、そこで危険を回避するのではなく、十中八九、危険を承知で無理に黒か白かの判断に突っ込んで行く。(略)日本の職業裁判官は、冤罪の危険領域と知りつつ、それでもなお、自分の判断能力を頼りに、薄皮一枚を剥ぐように、あるいは薄氷を踏むような思いで、有罪・無罪を見極めようとしている。一種の賭けをしているわけである。そうやって死刑判決さえ出している。
有り体に言えば、そのような場合に敢えて有罪判決を出すことがあるから、そのうちの一部が冤罪になるのは、当然と言えば当然と言える。賭けに全部勝つことはできないのだから。――(『司法殺人‐元裁判官が問う歪んだ死刑判決』講談社2012年99〜100頁)

 今年三月に再審開始決定が出た袴田事件(現在、即時抗告中)では、一審で左陪席をつとめた熊本典道さんが、他の二人の裁判官に押し切られ、自らの意に反して死刑判決を書かされたことをずい分後になって告白しました。袴田巌さんは1968年9月に死刑判決を言い渡されるのですが、どうしても自分を許すことができなかった熊本さんは、その半年後に裁判官を辞めます。それだけが原因だったかどうか私には分かりませんが、その後の彼の人生はかなり過酷なものになったと聞いています。

 死刑を言い渡すというのは、それほど重い決断です。その一方で裁く者は、「遠山の金さん」や「水戸黄門」(例が古くて恐縮ですが)のように、いつも都合よく犯罪を自分の目で現認することなどできません。私たちは、自分で経験することがなかった過去の現象を公判廷という狭い空間の中で再現(事実認定)するという原理的に困難な作業を行わなくてはならないのです。その上、社会的な存在である私たちは、自分が属する集団や社会の価値観から自由になることがとても難しい。殺人事件で冤罪に巻き込まれるのは往々にして、貧しかったり孤立したり社会から除け者にされている人たちです。そういう人たちに対する裁判官や裁判員の先入観が判断を誤らせる可能性を否定することはできません。

 さらに日本的な事情もあります。この間、少しずつ改善されていますが、それでも、検察側が手持ちの証拠を開示しない、取調べの可視化がなかなか進まない、長く拘束することで自白を得ようとする人質司法が改善されない、弁護士などとの接見交通権の保障が十分でない、など多くの問題が指摘されています。今年七月に公表された法制審議会の「新時代の刑事司法制度特別部会」の要綱案は、一部可視化や証拠リストの交付と引き換えに、司法取り引き制度の導入や通信傍受の対象拡大など、冤罪の量産につながりかねない危険な改革を盛り込んでいます。「無罪推定=疑わしきは被告人の利益に」という大原則がないがしろにされている日本の刑事裁判で、誤判によって生命が奪われる可能性は決して否定できないと言えます。  つづく