変言字在35−死刑廃止論のためのノート (8)

『むすぶ 527』(2014年12月発行)より

 このノートも、いよいよ最終ページに差しかかろうとしています。これまで、無期刑と死刑とをわかつ厳格な基準は存在しないこと、仮出所のない絶対的終身刑の導入は検討する価値があること、憲法は死刑を許容しているが、解釈の変更(深化)は可能だということ、死刑制度の存廃を問う世論調査で存置を支持する人が次第に増えていることに注意が必要なこと、近代法治国家と死刑制度は両立しがたいことを指摘してきました。そして前回、誤判の問題を取り上げて、同じ誤判でも死刑と有期刑とではまったくその意味(位相)が異なること、誤判によって死刑に処せられる可能性は決して否定できないことを指摘しました。

 最後に考えたいのは被害者感情です(以下、「被害者」にはその遺族も含みます)。なぜ最後に持ってきたかと言うと、存置論者は必ず「あなたの愛する者が無残に殺されても、殺人者に死刑を望まないのか」と問うてきますし、私にとってもこれが一番の(唯一と言ってもいい)難物だからです。

被害者感情について

 まず、そもそも刑事訴追とは何か、被害者の利益とは何かということを確認しておく必要があります。最高裁判所は、ある国家賠償請求事件に対する判決の中で次のように述べています。

――犯罪の捜査及び検察官による公訴権の行使は、国家及び社会の秩序維持という公益を図るために行われるものであって、犯罪の被害者の被侵害利益ないし損害の回復を目的とするものではなく、(略)被害者又は告訴人が捜査又は公訴提起によって受ける利益は、公益上の見地に立って行われる捜査又は公訴の提起によって反射的にもたらされる事実上の利益にすぎず、法律上保護された利益ではないというべきである。――(1990年2月20日)

 反射的利益というのは、間接的、副次的に受ける利益を意味します。ですから仮にこの利益を侵害されても法の保護は受けません。刑事訴追は基本的に「国家及び社会の秩序維持」のためにあるのであって、犯罪被害者の利益のためにあるのではないということをこの判決は述べています。

 そうした考え方の延長線上で、これまで犯罪被害者は裁判の埒外に置かれ、被告人に関する情報もまったく届けられませんでした。1981年には犯罪被害者の利益のために給付制度が発足していましたが、その対象も金額も十分なものではありませんでした。ところが07年にオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きると、犯罪被害者支援の流れが一気に加速します。そしてその翌年には、裁判への被害者参加制度がスタートして、証人尋問や被告人質問を被害者自らが行い量刑意見を述べることができるようになりました。

 ここでは以上述べてきたような刑事訴追の目的と、それとは別に被害者の権利保障の問題が存在するということを押さえた上で、被害者感情という問題を考えたいと思います。

 凶悪犯罪の被害者を取材し続けてきたルポライターの藤井誠二さんは次のように指摘しています。

――死刑では償いにならないのではないか、加害者が死ねばすむのか、と疑問をもつ人もいるかもしれない。しかし、それは当事者ではない者の思いこみでもあると私は思う。むろん、加害者が生きて償うことを望む被害者遺族もいるが、被害者遺族が死刑を望む理由はそれによって応報感情を埋め、新しい人生を生きるための「区切り」にするためである。「加害者がこの世にいないと思うだけで、前向きに生きる力がわいてくる」という遺族の言葉を私は聞いたことがある。被害者遺族にとっての「償い」が加害者の「死」であると言いかえることだってできるのだ。私はそう考えている。――(『少年に奪われた人生―被害者遺族の闘い』朝日新聞社2002年168頁)

 藤井さんは、もともと死刑存置派ではなかったんですが、99年に起きた光市母子殺害事件で自分の妻と生後間もない娘を殺された本村洋さんの取材などを通して、次第に存置の立場を鮮明にしていきます。「当事者」の強烈な報復感情、加害者の死でしか埋めることのできない喪失感といったものに直に触れることで、藤井さんの存置論は迫力を増していきます。

 ここでその本村洋さんの言葉を紹介したいと思います。光市事件では被告人が犯行当時死刑適用年齢の18歳を1か月過ぎていただけだったために、無期懲役か死刑かで判決も揺れ動きます。そして12年2月20日、上告棄却によって最終的に被告人の死刑が確定します。その死刑判決を得るために本村さんは全国を奔走し、マスコミの取材にも積極的に応じてきました。そしてついに願いがかなったその日、判決直後の記者会見で彼が語ったことを、当時のニュースから私が文字に起こしたものです。

――今回私たち遺族が求める死刑という判決が下されたことに関しては、遺族としては大変満足しております。ただ決して嬉しいとか喜びとか、そういった感情は一切ありません。厳粛な気持ちで受け止めなければならないというふうに思っております。

 事件からずっと死刑を科すということについて悩んできたこの13年間でした。二十歳(はたち)に満たない青年が人をあやめてしまった時に、もう一度チャンスを与えてあげることが社会正義なのか、命をもって罪の償いをさせることが社会正義なのか、どっちが正しいことなのかとても悩みました。きっとその答はないんだと思います。

(略)ただこの日本は法治国家であり、法律という社会契約で成り立っています。そしてこの国は死刑という刑罰を存置している国であるということを踏まえると、18歳の少年であっても身勝手な理由で人をあやめ、そして反省しなければ死刑に科される。日本という国はそのぐらい人の命について尊厳を持って重く考えているということを示すのが死刑だと思いますので、そういった意味では今回、長い歳月がかかって裁判官の方もとてもとても悩まれて最終的にはこういった判決に至ったと思いますけども、死刑判決というものが下されて、この日本の社会正義が示されたことが大変よかったというふうに思っております。 (略)これをきっかけに、この国が死刑を存置しているということを今一度皆さんが考えていただいて、(略)どうしたら死刑という厳しい刑罰を科さないですむような社会を実現できるのかということを、みんなで考えていけるようになればなと思っております。――

 長々と引用したのは、本村さんが単なる報復感情を超えて、「社会正義の実現」としての死刑の意味を問いかけているからです。彼は事件後、死刑存置派の象徴的存在に担ぎ上げられたわけですが、一方でそのような自分に違和感を抱きながら、死刑の意味を真剣に考え続けていたように思えます。そこに被害者の想いの複雑さ、重みがあります。次回、こうした被害者感情を意識しながら私の思いをつづってまとめとしたいと思います。 つづく