変言字在36−死刑廃止論のためのノート (9)

『むすぶ 529』(2015年2月発行)より

 これまで8回にわたって、死刑存廃問題に関してどのような主張があるのかを私的なノートをもとに検討してきました。そして無期刑と死刑とをわかつ厳格な基準は存在しないこと、絶対的終身刑の導入は検討する価値があること、憲法解釈の変更(深化)によって死刑廃止は可能だということ、しかし死刑存置派の人たちが次第に増えていること、近代法治国家と死刑制度は両立しがたいことなどを指摘してきました。そして前回と前々回、誤判と被害者意識の問題を取り上げました。

 国家による殺人を認める死刑制度は廃止する以外にないという私の立ち位置ははっきりしています。どんなに崇高な目的のためであったとしても、殺人を合法化することは恐怖による支配を認めることであり、テロリズムに通じるものだと私は考えています。長く障害のある人たちと付き合い、互いの違いを認め合うことの大切さを痛感させられた経験も、そうした私の考え方に影響しているかも知れません。

 決して綺麗ごとを言っているつもりはありません。集団や社会を形成することでしか生き延びられなかった人間というひ弱な生き物にとって、相手に対する寛容さや共生・協同の想いは生存に必須な要素だと言えます。死刑制度はそれを真っ向から否定しているように思えます。そんなことを言うと、必ず「ではその寛容さを捨てた殺人犯を許すのか」「愛する者を殺されても寛容になれるのか」と問い返されます。それは確かに重い問いです。

 このノートの第1回目で、オウム真理教信者を追ったドキュメンタリー映画の制作者森達也さんの次のような言葉を紹介しました。

―シンポジウムの会場で、「もしあなたの家族がサリン事件で死んでいたら、あなたは『A』や『A2』などの映画を作れたのか」と質問されたとき、僕は「作るわけがない。もしかしたら麻原に個人的に復讐しているかもしれない」と答えました。(略)当事者と同じ感情はもちたくてももてないし、論理も違うはずです。同じ位相に立つべきではないし、そもそも立てるはずがないんです。―(『部落解放』六〇四号)

 確かに大きな犯罪が起きると、まるで当事者のように犯人を攻撃する言葉がネット上にあふれます。森さんは、そうした安易な感情移入を戒めているわけです。でも、死刑の問題に限らず社会問題すべてに言えることですが、「当事者」と「非当事者」は森さんが言うほどはっきり線引きされるのではないと思います。私たちは濃淡の違いはあれ、必ずある部分で「当事者」にならざるを得ない、そういう社会に生きています。ですから、私は森さんのこれまでの仕事を高く評価するんですが、上記の発言は一種の思考停止だと思います。そこで立ち止まるのではなく、「もし自分の大切な者が殺されたら」という問いに正面から向き合うことが必要なのではないでしょうか。そうでないと死刑制度存廃をめぐる議論は、いつまでたっても被害者感情という「感情」と制度が抱える矛盾という「理屈」の2つが、決して交わることのないまま延々と繰り返されるような気がします。

 死刑廃止を主張する人たち(私を含めてですが)は、「感情」を非理性的で劣ったものとみなしがちです。でも本来、私たちの「理屈」も学問も「感情」に支えられたもののはずです。では死刑存廃の議論を有意味なものにするにはどうしたらいいか。それは私にはよく分かりません。ただ、いくつかヒントらしきものはあります。2007年、千葉県市川市でイギリス人の英会話講師が殺された事件をご記憶の方は多いと思います。彼女の両親が加害者の公判に証人として出廷するために来日しました。その時父親が、テレビのインタビューに「(加害者には)この国の最高刑を望む」と答えていたのがとても印象的でした。彼は「死刑を望む」とは言わなかったのです。公判でも「日本の最高刑が死刑なら、それを望む」と証言したと当時の報道にあります。イギリスはもちろん死刑廃止国ですから、そのような発言になったのではないでしょうか。

 被害者やその遺族が加害者に死刑を求めるのは、たまたま今の日本の最高刑が死刑だからではないかと思います。世界では徐々に死刑廃止国が増え、現在200近くある国の7割に当たる140の国が法律上または事実上、死刑を廃止しています。それだけ多数の国で、被害者感情がないがしろにされ、国民の不満が高まっているとはとても思えません。ということは、死刑を望む被害者や国民の強固な「感情」があって、彼らは死刑制度の矛盾という「理屈」を受け入れないという考え方は間違っているのではないでしょうか。「感情」と「理屈」は地続きであって、政策や制度によって「感情」もまた変更され得るし、現に死刑を廃止した国ではそれを成し遂げたということは押さえておく必要があると思います。

 もう一つのヒントは、松本サリン事件の河野義行さんや保険金目当てで弟を殺害された原田正治さんなど、被害者や遺族の中に加害者の死刑を望まない人が存在することです。そういう人たちは加害者を死刑にすることではなく彼らに許しを与えること、そして事件の真相を知ることの方が重要だと考えます。そうした人たちの発言を聞いて私はこう思うのです。加害者がこの世に存在し続けることによって、私たちが思いを致すべき被害者の苦しみや、そのような犯罪を生んだ社会的な矛盾への関心もまた存在し続けるのではないか、と。

 「死」は人間としての存在の完全な喪失であって、どのような権威や富や名声をもってしても、誰一人そこから引き返すことはできません。ですから死刑は、他のすべての刑罰と次元を異にする特殊な刑罰です。先日、再審開始決定が出た袴田事件の弁護団から戸舘圭之弁護士を大阪にお呼びし、講演をお願いしました。その最後で彼は次のような持論を展開しました。

―実際に人を殺した事件でも、死刑になるか無期懲役になるかは紙一重です。極悪非道と言われる犯人でも違う角度から光を当てたり、違う事実関係が出てくれば死刑は相当ではないと言える可能性は当然出てきます。そういう可能性が否定できないのに、死刑というのは一度執行されれば、誤判救済の道を不可逆的に閉ざしてしまいます。そう考えれば、再審という誤判救済の制度を選択したのであれば、当然死刑制度というのも否定されるべきではないかと私は考えています。―

 誤判からの救済を目的とした再審制度と死刑制度は矛盾しているという指摘で、私もまったく同感です。冒頭で人間はひ弱な存在だと書きましたが、肉体的に弱いだけではなく愚かで間違いを犯しやすい存在です。ですから罪を犯すし、それを裁くシステムにも三審制や再審制度を用意しています。そのことの意味はもう一度きちんと押さえておく必要があります。

 以上で、死刑廃止論のための私的なノートを閉じたいと思います。さまざまな言説をぐるぐるとめぐったあげく、元の場所に戻ったような不全感がなくもありませんが、今後の議論のための一助になれば幸いです。(了)