変言字在37−始まりと終わりの話 (1)

『むすぶ 531』(2015年4月発行)より

 前回まで9回にわたり、「死刑廃止論のためのノート」と題して死刑存廃問題に関してどのような主張があるのかを私的なノートをもとに検討しました。この問題には個々人の人間観や世界観が色濃く反映していて、すぐに結論めいたものを引き出すのは困難です。しかし人間が過ちを犯しやすい弱い存在であることをしっかりと自覚すれば、死刑という、殺される者にとって後戻りのできない(修正ができない)制度は根本的な矛盾を抱えていると言わざるを得ません。死刑制度存廃に関するさまざまな言説を紹介し、私なりの見解を述べてきましたが、結局はその原点に立ち返るしかないのだと今は思っています。

 さて、死刑制度と同様、私の人間観や世界観が世間の多数を占める人々の価値観と衝突している(と私が受け止めている)問題を今回からしばらく考えてみたいと思います。それが人間の始まり(出生)と終わり(死)にまつわる話です。

 文末の私の肩書をご覧いただけばお分かりのように、私の仕事の中心は障害者問題の雑誌『そよ風のように街に出よう』の編集です。ずい分昔、学生時代に日本脳性マヒ者協会青い芝の会の障害者と出会い、その後さまざまな障害を持つ人たちと付き合う中で、私には一定の思考パターンが身につきました。あるものごとの価値を判断し自分の行動を決定する際に、ソレはもっとも重い障害をもつ人にとってどんな意味を持つのか、という考え方をするようになったのです。とりわけ人間の生き死にに関わる問題を考える時にその傾向は顕著です。これからお話ししようとするのはそういう問題群に属するもので、具体的に言うと出生前診断、不妊治療、脳死・臓器移植、終末期医療、尊厳死・安楽死などです。

 これらの問題は、突き詰めていくとすべて「人間とは何か」という問題に突き当たります。古代ギリシャの時代からずっと人々が追い求め続けてきたテーマです。それはとても抽象的な問いのようですが、科学技術、医療技術が飛躍的に発達した21世紀の今、個々の人間の生死に直結するとても現実的な問いとして私たちの前に現れています。コウノトリが赤ちゃんを運んできた時代はセピア色の遠い過去となり、今や「どこからどこまでが人間として認められるか」、「どういう人間が生きるに値するか」を人間自らが決定するという時代に突入しているのです。そうした、ある意味でとても恐ろしい時代を考えるシリーズのプロローグとして、今回は一つのエピソードを紹介するところから始めたいと思います。

サンドラの解放

 昨年12月、アルゼンチンの裁判所である判決が出されました。地元紙「ラ・ナシオン(La Nacion)」が伝えるところによれば、ブエノスアイレス動物園で飼育されている28才のメスのオランウータン「サンドラ」は「人間ではない人」であり、人間と同様のいくつかの基本的な権利は認められるべきだとして、3人の裁判官が全員一致で動物園からの解放を命じたのです。

 サンドラは1986年にドイツの動物園で生まれ、その後アルゼンチンへ連れてこられました。これまでずっと監禁生活を強いられてきたとして、動物保護団体が昨年11月、動物園から解放するよう裁判所に訴えていました。「ラ・ナシオン」は「今回の判決は、類人猿だけでなく、動物園やサーカス、ウォーターパーク、科学研究所などにいる、不当かつ独断的に自由を奪われたすべての生き物にも道を開くものだ」という動物保護団体メンバーの発言を紹介しています。この判決が確定すれば、サンドラはブラジルにある自然保護区に移されることになるそうです。

 動物園そのものが、動物を自然から無理矢理引き離して虐待するものだという批判は以前からあります。動物愛護意識の高まりとともに、そのような批判は近年強まっています。しかし今回の判決はそれとは違って、サンドラが「人間ではない人」だから自由を奪ってはならないと言うのです。では「人間ではない人」というのは何を意味しているのでしょう。「丸くない円」と同じようなもので、いったいそんなものが世の中に存在するのでしょうか。私がこのアルゼンチンの判決を最初に知ったのはインターネットの新聞「WIRED・JP」の日本語記事ですが、その元になった英語の記事を見てみると、「人間ではない人」のところは「non-human person」となっています。英和辞典をひいてみると「human」は「(他の動物などと比べて)人、人間」、「person」は「(個性のある一個人としての)人、人間」などと書いてあります。余計に頭が混乱しそうですが、どうも「non-human person」は「人間ではないが、人間と同じように個性を持ったかけがえのない存在」という意味を含んでいるようです。裁判官は、サンドラはまさにそのような存在だから、檻に閉じ込めて見世物にするなどもってのほかだと判断したわけです。

 正直に言うと、私は最初この判決を信じることができませんでした。玉石混交のネット情報にありがちなガセネタではないかと思ったのです。でも、同じ内容を他のサイトでも配信していましたし日本の有力新聞も報じていましたから信じるしかありません。それから関連情報を探してみたところ、2013年にインドでイルカやシャチなどの鯨類をやはり「人間ではない人」と認め、それらの動物を飼育するドルフィン・パークを閉鎖するよう命じる判決が出ていたことを知りました。当時のインドの環境・森林大臣は、イルカやシャチが知性や感情を持つことを科学がはっきり証明していると説明しています。

 日本で同じような判決が出たことはありませんが、それに類する出来事が起きています。以前この連載でも紹介したと思いますが、和歌山県太地町のイルカの追い込み漁をめぐる国際的な対立です。反捕鯨を訴えるシーシェパードの人たちや動物保護団体の人たちが海外からやってきて、太地のイルカの追い込み漁をやめさせようと今も熱心に活動を続けています。その様子を撮った『ザ・コーヴ』という映画は、2009年のアカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞しています。私の個人的な感想を言えば、この映画はドキュメンタリーとしてよりプロパガンダとして優秀だと思いますが、それはともかく、ここでもイルカは「non-human person」として扱われています。映画の中でイルカ漁に反対する人たちは、「イルカには言葉があり、家族があり、文化がある。だから殺してはいけない」と熱心に語っていました。捕鯨をめぐる対立には大きな利権がからんでいるという指摘もありますが、以上のような動きの背景に「non-human person」、つまり「人間ではないが、人間と同じように個性を持ったかけがえのない存在」の権利を認めようという流れがあるのは確かです。

 さて、以上のような世界的な流れを意識しながら、次回以降、人間の始まりと終わりにまつわる話を具体的に見ていきたいと思います。  つづく