変言字在39−始まりと終わりの話 (3)

『むすぶ 535』(2015年8月発行)より

増え続ける選択的中絶

 前回、日本で2013年4月に始まった新型出生前診断(NIPT=無侵襲的出生前遺伝学的検査)の臨床研究の実際を見ました。開始後1年半の時点で、胎児に染色体異常があることが確定した妊婦の97・7%(171人中167人)が中絶を選んでいました。新型検査が障害児の出生を防ぐこと、つまり選択的中絶を主な目的として機能しているのは明らかです。
 もちろんその流れはこの新型検査に始まったことではありません。日本産婦人科医会は1985年以降、毎年全国約3千の分娩施設を対象にアンケート調査を行っています。その結果を報じる新聞記事は、私がスクラップしたものだけでも、「中絶20年で6倍/エコー精度向上 異常発見増え」(2011年7月23日付毎日新聞)、「出生前診断で中絶倍増」(11年9月17日付読売新聞)、「『異常』理由に中絶10年で倍増/出生前診断指針作り」(12年4月5日付朝日新聞)などがあります。
 その内容を少し詳しく見てみます。「中絶20年で6倍」の毎日新聞記事は、検査で異常が見つかったために中絶したのは「85〜89年は1000件未満だったが、95年〜99年は約3000件、05年〜09年は約6000件」とし、「どれぐらい深刻なのか、医師の説明が不十分で妊婦も理解しないまま、中絶したケースが少なくないとみられる」という横浜市大教授の平原史樹さんのコメントを載せています。
 「出生前診断で中絶倍増」の読売新聞記事は毎日と同様の数字を紹介した後、それぞれ立場の異なる専門家の意見を載せています。出生前診断専門医の左合治彦さんは、異常が発見された「その先どうするのかについて、判断を支援する医療体制、すなわち遺伝カウンセリングなどの体制が整っていないことが問題だ」と語り、科学史家の米本昌平さんは、「生命倫理に携わる研究者は本来(略)技術の使い方について、社会的、倫理的、法的な問題など幅広い視点から考察する場を設けるべきだ」と指摘しています。そして前回も登場した日本ダウン症協会理事長の玉井邦夫さんは、「診断の結果が告知されると、『中絶しかない』という社会の圧力から逃れられなくなるのが実情だ。(略)出生前診断を実施する医療機関は、ダウン症に関する医学的な特性だけでなく、どうすれば育てられるのか、どのような支援制度があるのかなど多様な情報を提供してほしい」と語っています。
 紙面に登場する関係者はいずれも選択的中絶の増加に疑問を呈しているわけですが、医療現場におけるその流れは激しさを増す一方のようです。そういうところに輸入された新型検査は、今はまだ胎児に染色体異常のある確率が高い妊婦を対象にした臨床研究の段階ですが、今後猛威を振るうことになるのではないかと心配です。現に「新型出生前診断 一般妊婦も有効?」(14年2月27日付朝日新聞夕刊)、「染色体検査項目どんどん拡大」(14年5月31日付同朝刊)といった報道も出てきています。そのうちにすべての妊婦を対象にしたマス・スクリーニング(ふるい分け)検査が実施され、検査される染色体異常の数も(今は3種類ですが)さらに増えていくのではないでしょうか。そうなると今以上に、障害のあるなしで生きるに値するかどうかを決定する風潮が強まることは間違いありません。それは障害のある人たちにとって切実な問題であるだけでなく、健常者と言われる人たちを含めた社会全体の質が問われることだと私は思います。

「胎児条項」という
妖怪

 ここで少し立ち止まって、そもそも胎児に障害があることを理由とした中絶は法的に認められているのか、法律にそのような「胎児条項」が存在するのかということを、歴史をさかのぼって見ておきます。
 第二次大戦中の1940年、日本で国民優生法という法律ができました。33年に制定されたドイツ断種法の影響を受けたもので、当時の世界、特に欧米諸国ではこうした断種法は一般的なものでした。その第1条には「本法ハ悪質ナル遺伝性疾患ノ素質ヲ有スル者ノ増加ヲ防遏(ぼうあつ)スルト共ニ健全ナル素質ヲ有スル者ノ増加ヲ図リ以テ国民素質ノ向上ヲ期スルコトヲ目的トス」とあります。あからさまな優生思想の宣言です。そして優生手術(不妊手術)を行う対象として、「遺伝性精神病、遺伝性精神薄弱、強度且悪質ナル遺伝性病的性格・遺伝性身体疾患・遺伝性畸形」などがあげられました。ただし、この法律に基づく優生手術の件数は実際はかなり少なかったようです(ある報告では538件)。一方でこの法律は妊娠中絶に対する規制を強化する側面を持っていました。「産めよ増やせよ」のスローガンのもと、「悪質ナル…者ノ増加ヲ防遏スル」よりも「健全ナル…者ノ増加ヲ図」ることが優先されたのです。そうした当時の社会状況に加えて医療技術のレベルも影響して、選択的中絶などは問題にならなかったと言えるでしょう。もちろん「胎児条項」などもありませんでした。
 戦後すぐの48年に制定されたのが優生保護法です。第1条には「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする」とあり、優生施策に「母性の生命健康の保護」が加えられました。少し横道にそれますが、この法案を提出したのは当時の日本社会党(加藤シズエ、太田典礼、福田昌子たち)でした。これは現在にもつながることですが、いわゆる政治的リベラリズムと優生的な発想との親和性については、きちんと検証する必要があると思います。
 さて、断種の対象を(医学的に正確かどうかは別として)遺伝的疾患者に限定していた戦前の国民優生法に比べると、優生保護法は「不良な子孫の出生を防止する」として遺伝的でない障害や病気にまで対象を広げたと言うことができます。さらに翌49年には妊娠中絶の要件に「経済的理由」が加えられ、中絶規制は大幅に緩和されました。
 その後、障害者・女性の解放運動史に名高い「優生保護法改悪阻止闘争」が起こります。政府は72年、以下の3点で優生保護法に手を加えようとしました。優生施策をさらに推進するために中絶の要件に「胎児条項」を加え、一方で中絶の増加を防ぐために「経済的理由」を削除し、高年齢初産を防ぐために女性の指導を強化しようとしたのです。これに対して障害者や女性を中心に大きな反対の声があがったため、結局この改定案は74年に廃案となりました。「胎児条項」の導入は阻止されたのです。その後96年に、優生保護法が廃止されて母体保護法になります。法の目的は「母性の生命健康の保護」だけとなり、優生思想は少なくとも条文上からは姿を消します。そして妊娠中絶の要件は、母体の健康を著しく害する場合と暴行や脅迫によって妊娠した場合に限定されました。
 障害者たちは懸命な運動を繰り広げて優生思想と対峙し、「胎児条項」を葬り去りました。いや、葬り去ったはずでした。しかし「胎児条項」は妖怪のごとくよみがえり、そのパワーを一層拡大させています。次回以降、そのような人生の始まりの風景から終わりの風景に目を転じようと思います。  つづく