変言字在40−始まりと終わりの話 (4)

『むすぶ 535』(2015年10月発行)より

メイナードの遺言

 10月5日、米国のブラウン・カリフォルニア州(以下、加州)知事が「死ぬ権利」法案に署名し、オレゴン、ワシントン、モンタナ、バーモント、ニューメキシコに続き、米国で安楽死が合法化された6番目の州が誕生しました。2人の医師から余命6か月未満という宣告を受け、患者が口頭で2回要請することなどを条件として安楽死が認められることになりました。この法案は今年初めに議会に提出され、下院で賛成43・反対34、上院で賛成23・反対14で可決されて、後は知事の署名を待つばかりでした。障害者団体や宗教者たちからの根強い反対もあって、カトリック教徒である知事は署名するか拒否権を発動するか、かなり迷ったようですが、結局は議会の多数意見に従いました。
 少し回り道をしますが、誤解のないように言葉を整理しておきます。一般に欧米各国で「安楽死」と言われるのは、本人の意思に基づき積極的な行為によって死に至らしめる「積極的安楽死」のことです。日本では今、尊厳死法を求める動きが活発になっていますが、この「尊厳死」はあくまでも延命措置の不開始や中止を意味していて、「消極的安楽死」と呼ばれます。安楽死先進地である欧米の医療現場では尊厳死は当たり前の行為として認められているところがほとんどです。ただ、だからと言って私は日本の尊厳死法案に賛成ではありません。その問題は次回以降で考えようと思います。安楽死は英語でDeath with Dignity=i尊厳ある死)と表現されることが多いので、時々言葉上の混乱が見られます。ここでは2つの言葉の区別だけを確認しておきます。
 話を戻します。今回の加州での安楽死法の成立には、一人の女性の死が深く関わっています。脳腫瘍の中でも悪性の神経膠芽腫と診断された加州在住の29才の女性が、昨年11月1日、自ら命を絶ちました。それが普通の自殺であればさほど大きな騒ぎにはなりません。彼女、ブリタニー・メイナードは他の自殺者と違うことを2つ実行に移しました。1つはその日に死ぬことをインターネットの映像投稿サイトを通して世界中に予告したこと、もう1つはその方法として自殺ほう助による安楽死を選択したことです。
 メイナードは結婚して1年後に脳腫瘍と診断され、昨年4月、余命半年と宣告されました。彼女はある通信社への寄稿の中で「最初は故郷サンフランシスコのホスピスで死ぬことを考えました。でも、モルヒネが効かず痛みを伴うこともあるし、実際にはさまざまな人格に変化し、言語・認知・運動機能障害に苦しむ可能性があります」と、安楽死を選択した理由を述べています。しかし当時はまだ加州では安楽死が認められていませんでした。そこで彼女は家族とともに安楽死法のあるオレゴン州に引っ越し、医師から処方された致死薬を飲んで安楽死(自殺ほう助)を実行したのです。
 彼女が語った理由が本当であれば、それはそれで問題だと私は思います。つまり本来安楽死は、回復の見込みがなく、死期が迫り、耐え難い苦痛があるといった条件のもとではじめて認められるものでした。しかし当時のメイナードには、少なくとも肉体的な耐え難い苦痛はなかったように思えます。彼女には脳腫瘍の進行にともなって自分の人格が変化することに対する恐怖があり、それが安楽死を選択させたと言えるでしょう。そこには彼女(に代表される私たち)の人間観が強く反映していると私は思っています。このこともまた後で考えたいと思います。
 メイナードは死の直前、加州の知事や議員に電話をして「穏やかな死を迎えるために住み慣れた土地や自宅を離れなくてもいいように」という言葉を遺しました。その遺言が今回の安楽死法の成立を後押ししたのです。

坂を滑り落ちる安楽死

 1997年に米国オレゴン州で安楽死法が成立して以降、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、そして前記の米国5州などで安楽死が法的に認められてきました。そして今年の2月にはカナダでも、連邦最高裁が1年以内に安楽死を合法化するよう命じる判決を出しました。利益のためではない自殺ほう助が以前から認められているスイスでは、ドイツやイギリスなど安楽死法がない国からの「自殺ツアー」も(厳格な条件のもとで、ですが)引き受ける民間組織が活動しています。
 国際的に拡がっているだけではありません。「週刊ポスト」2013年10月25日号によると、オランダにおける安楽死者数は06年で1900人ほどでしたが、12年には2倍以上の4200人に増えています。これはオランダの年間死亡者数の実に3%にあたります。内訳を見ると、約8割は末期のがん患者で、残りが重い神経障害や心臓血管障害を抱える患者でした。同国の医学誌によると全体の20%以上は報告されていないといい、実際の処置数はもっと多いと見られています。
 人数が増えているだけではありません。電子マガジン「SYNODOS」(12年9月29日)の児玉真美さんの報告によれば、オランダでは12年3月から「起動安楽死チーム」が稼働しているということです。安楽死を希望しても応じてくれる医師が見つからないという患者のために、医師と看護師のチームが車で国内どこでも駆けつけ、自宅で安楽死させてくれるのです。保健省の認可を受けて、現在6台の車が稼働しているということです。児玉さんはそれを「宅配安楽死制度」だと呼んでいますが、利便性を高めることによって安楽死のハードルが以前よりとても低くなっているのです。
 ハードルが低くなっているだけではありません。オランダでは、既に親の同意があれば12才以上の未成年にも安楽死を認めるようになりました。そしてベルギーでは13年11月、上院の司法・社会問題委員会が安楽死を未成年の患者にも合法化する法案を賛成多数で可決しました。ベルギーの場合、患者の「正常な判断能力」と親の同意があることを条件としてですが、安楽死を認める最低年齢を定めませんでした。その条件を満たせば、5才の子どもであっても認められるということです。ただし、成人の場合は肉体的に耐え難い苦痛だけでなく精神的な苦痛も理由として認めていますが、未成年(18才未満)の場合は肉体的な苦痛がある場合に限定されているということです。
 年齢制限が緩められているだけではありません。ベルギーでは12年12月、近々視力を失うと通告された45才の双子のろう者の安楽死が認められました。そして今年の6月には、自殺願望が強いという理由で24才の女性の安楽死も認められました。いずれのケースも死期が近いわけでも肉体的苦痛が激しいわけでもありませんでした。
 以前にも紹介したことがあるかもわかりませんが、滑りやすい坂(slippery slope)という考え方があります。いったん坂を滑り降りはじめると、どんどんスピードが増して歯止めがきかなくなってしまう状態を言います。安楽死先進国の現状を見ると、その言葉がピタリとあてはまる気がしてなりません。  つづく