変言字在41−始まりと終わりの話 (5)

『むすぶ 537』(2015年12月発行)より

「生まれてきてからじゃ大変」

 前回から人生の「終わりの風景」に目を転じるつもりだったんですが、そうもいかなくなりました。まだ皆さんの記憶に新しいと思います。茨城県教育委員(当時)の長谷川智恵子さん(日動画廊副社長)が、11月18日に開かれた県総合教育会議で、特別支援学校を視察した経験について触れ、「妊娠初期にもっと(障害の有無が)分かるようにできないのか。(教職員も)すごい人数が従事しており、大変な予算だろうと思う」、「意識改革しないと。技術で分かれば一番いい。生まれてきてからじゃ本当に大変」、「茨城県では減らしていける方向になったらいい」などと語りました。そして、報道陣に彼女の発言についてコメントを求められた橋本昌知事が「事実を知って産むかどうかを判断する機会を得られるのは悪いことではない。発言は問題ない」と答えたことも加わって、障害者や親の団体などから猛烈な抗議を受ける事態となりました。
 翌19日、長谷川さんは委員続投の意思を示すとともに、「言葉足らずの部分があった」として発言を撤回する旨のコメントを出しましたが、これでは釈明にすらなっていません。その次の日にはついに辞職に追い込まれました。一方、橋本知事は21日、「(長谷川委員の)発言全てに問題ないと言ったわけではない。しかし新型出生前診断は命の選別につながる可能性があり、生命の倫理という点で疑問を感じるので発言を撤回する」と記者会見で謝罪しました。それで幕引きとはなるのかどうか、今のところ新しい動きは伝わってきていません。
 1999年、石原慎太郎東京都知事(当時)は障害者施設を視察した後、「ああいう人ってのは人格あるのかね」と慨嘆しました。障害者についての発言ではありませんが、12年、石原伸晃自民党幹事長(当時)は某テレビ番組で高齢者福祉に関連して、社会的負担を軽減するために「私は尊厳死協会に入ろうと思っている」と語りました。そして麻生太郎自民党副総裁は13年、高齢者の医療費が膨らむことについて、「死にたいと思っても生きられる。政府の金でやっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらわないと」と注文をつけました。
 どうしてこう次々と、社会的、政治的な要職にある人たちから障害者や高齢者の生を否定するような発言が繰り返されるのでしょう。社会的な批判を浴び、場合によっては自らの職業的地位までも危うくなるにもかかわらず、こうした発言が後を絶たないのは、それだけ人々の意識の中に「優生思想」が根強くはびこっているとしか思えません。長谷川さんは仕事で渡欧する機会も多く、国際的な感覚にすぐれているということから教育委員に選ばれたと聞いています。しかし71才になる今日まで、彼女は障害を持っている人たちと接したり、その人たちの生活や思いについて考えをめぐらすことは恐らく1秒もなかったのではないでしょうか。それが彼女の不幸だと私は思います。今回の舌禍を、その不幸から脱出するチャンスに転じてほしいと心から願っています。

「障害者の尊厳を害することのないように」

 さて、「終わりの風景」に話を戻します。前回は安楽死先進国と言われる国々で、実際にどういうことが起こっているのかを紹介しました。坂道を転げ落ちるように安楽死の垣根が低くなり、末期で治療法がなく苦痛に耐えられないといった安楽死を認める条件が、そうした国々ではほとんどなきに等しくなっています。
 では目を国内に転じたらどうでしょう。以前この連載で「姿を現した『尊厳死法』」と題して、尊厳死法制化を考える議員連盟が公表した法案骨子を批判的に検討したことがあります(第21回)。その法案によると、「行い得る全ての適切な治療を受けた場合であっても回復の可能性がなく、かつ、死期が間近であると判定された状態にある」患者について、その延命措置の不開始や中止を認めるというものです(積極的に殺害する安楽死とは異なります)。もっとも医療現場では、本人や家族の願いを受け入れる形でこうした延命措置の不開始や中止は日常的に行われています。この法律は要するに、そうした行為が合法であるということを宣言することで、医師や医療機関の責任を免除することを目的としています。法案はまだ成立していませんが、近いうちに国会に上程され、可決されることは十分に予想されます。
 現実を追認するだけなのだから、この尊厳死法には問題がないと言えるでしょうか。私にはそうは思えません。人工呼吸器をつけた子の親の会(バクバクの会)が12年に「改めて尊厳死の法制化に強く反対します」という声明を出しました。法案には、障害者や家族からの抗議を受けて「法律の適用に当たっては、生命を維持するための措置を必要とする障害者等の尊厳を害することのないように留意しなければならない」という条文が追加されました。それに対して声明は「たとえ『障害者等の尊厳を害することのないように』との一文が入ったとしても、法律が出来てしまえば、人工呼吸器や経管栄養の助けを借りて生きている人たちに対して、『「自己決定」のもと「尊厳死」を選択している人がいるのに、なぜそうまでして生きているのか、なぜ死なせないのか』という社会の無言の圧力がかかることは必至です」と述べています。私は、とても当たり前の危惧だと思います。尊厳死法は、人間とは何か、生きるとはどういうことかといった価値観について明確な意思を表明しています。私はその意思が、先に紹介した度重なる差別発言とあいまって重度の障害者や高齢者に対する死への圧力となることを恐れています。

「『価値なき生命』はある」

 尊厳死法の成立をめざす運動団体に、83年に設立された日本尊厳死協会というのがあります。この団体は今、死期が迫った時の延命治療を拒否する尊厳死の宣言書(リビング・ウイル)の作成を広めようと熱心に活動していて、協会によると会員数は12万人を超えています。
 日本尊厳死協会は、改称するまでは日本安楽死協会を名乗っていました。その初代理事長は太田典礼という産婦人科医で、太田リングという避妊具を考案したことで知られています。彼が語ったことが新聞記事(74年3月15日毎日新聞)に残っています。
 「ナチスではないが、どうも『価値なき生命』というのはあるような気がする。私としてははっきりした意識があって人権を主張し得るか否か、という点が一応の境界線だ。自分が生きていることが社会の負担になるようになったら、もはや遠慮すべきではないだろうか。自分で食事もとれず、人工栄養に頼り『生きている』のではなく『生かされている』状態の患者に対しては、もう治療を中止すべきだと思う」。
 尊厳死協会は自ら、創設者はこの太田典礼氏だと認めています。しかし安楽死はまだ日本では抵抗が大きい。そこで名称を変えて、まず尊厳死の法制化を目指したということです。つまり尊厳死法が成立したら、その次にやってくるものがあるということです。   つづく