変言字在42−始まりと終わりの話 (6)

『むすぶ 539』(2016年2月発行)より

「安楽死」「尊厳死」と世論

 人生の「終わりの風景」ということで、前々回は安楽死先進国と言われる国々でどういう事態が生じているのかを紹介し、前回は日本で法制化をめぐって議論が交わされている尊厳死法について考えました。私は安楽死・尊厳死は安易に認められるべきではないと思っているのですが、それには3つの理由があります。
 1つ目の理由は、オランダやベルギーで現に起こっていることに危惧を抱くからです。いったん安楽死が法制化されると、まるで坂道を転げ落ちるように認定条件が緩和され、本人の意思さえはっきりしていれば、耐え難い苦しみもなく死期も迫っていない人、さらには未成年の子どもまでも認められるようになりました。まるで「自殺推奨社会」のようで、私にはとても恐ろしく感じられます。
 2つ目の理由は、法制化されれば、重い病気や障害を持っている人たちへの社会的な圧力が強まると考えるからです。例えば人工呼吸器をつけて生活をしている人や家族に対して、「尊厳死や安楽死を選ぶ人がいるのに、どうしてそんな状態になってまで生きようとするのか」という視線が注がれることは十分に予想されます。それは「多様な人々が共に生きる社会を!」という障害者運動が長年かかげてきたスローガンを否定することだと思います。
 3つ目の理由は、2つ目と重なるところがありますが、法制化を進める人たちの人間観が問題だと思うからです。理性的で自己意識を持ち言葉によって周囲とコミュニケーションができる者こそ「人間」であり、それ以外の者は生きる権利がないという考え方です。これは生命倫理学では「パーソン論」として知られる考え方ですが、重い身体障害や知的障害のある人が身近にいる私には、どうしても認めることができません。
 しかし、世の大勢は安楽死・尊厳死に対して肯定的なように見えます。NHKが2014年、16才以上の男女を対象に実施した「生命倫理に関する意識調査」(有効回答数2470人)によると、安楽死を「認められる」「どちらかと言えば認められる」と答えた人は73%で、「認められない」「どちらかと言えば認められない」の8%を圧倒しています。尊厳死についてはさらにその差が拡大し、前者が84%、後者が3%となっています。
 ただし、こうした世論調査には注意が必要です。NHKの調査では、例えば「尊厳死の許容度」を問う質問はこうなっています。「尊厳死は、助かる見込みのない患者に延命治療を実施することをやめ、痛みをやわらげたり取り除いたりする処置にとどめ、自然死を迎えさせることをいいます。あなたはこれを認めますか。認めませんか」。この問いの中には、「尊厳死=自然な死」という思想が埋め込まれています。裏を返せば、「尊厳死の否定=無駄な延命治療の実施=不自然な死の強制」ということになります。誰しもそのような強制は望まないでしょう。
 しかし実際は、「尊厳死の否定=不自然な死の強制」ではないと私は思います。延命治療を続けながら緩和医療を行うことも可能でしょうし、その結果としての「眠るような死」だってあるはずです。何をもって「自然」と言い「延命治療」と言うのか明確でないところはありますが、精一杯の治療を施し、その結果として死を迎えることこそ「自然な死」と言えるのではないでしょうか。(まったく余分なことかも知れませんが、私の持っている『広辞苑』第4版〈91年発行〉には「延命治療」という項目そのものが存在しません。)
 ただ、そうした問題があるにしても、かなり多くの人が安楽死・尊厳死を認めつつあるのは確かなようです。その背景に、少子高齢化社会の到来や、医療・福祉予算の削減を目論む政治の流れがあるのはもちろんです。そうした、いわば生々しい現実に、「安楽」「尊厳」という言葉が持つ魔力のようなものが加わって、その流れを一層加速させているように思えます。そしてそれらの言葉には、先にも触れたような人間観、「近代的個人観」が反映していると私は思っています。
 これからしばらく、同様の人間観が色濃くにじんでいる(と私が考える)もう一つの「終わりの風景」、脳死下臓器移植の問題を考えてみようと思います。

脳死下臓器移植の今

 1997年10月に成立した臓器移植法(臓器の移植に関する法律)は、日本で初めて脳死体からの臓器移植を認めたという点で画期的な法律でした。もっとも世界で初めて心臓移植が行われたのが67年、日本で脳死判定基準(いわゆる竹内基準)ができたのが85年ですから、法律ができるまでにずい分時間がかかったと言えるかも知れません。その理由はいろいろ考えられますが、68年に起きた札幌医科大学の和田寿郎教授による心臓移植が影響しているのは確かです。結果的にドナー(臓器提供者)はもちろんレシピエント(臓器受容者)も亡くなるのですが、2人が本当に移植の条件に適合していたのかをめぐって、後に和田氏が殺人罪で告発される事態に至りました。結局不起訴になりましたが、この事件で拡がった専門家への不信感は長く尾を引いたと言われています。
 97年の臓器移植法をめぐっては、その成立前から、脳死(日本の場合は脳幹を含めた全脳死)は医学的に確実に判定できるのか、仮に判定できるとしても脳死は本当に人の死と言えるのか、脳死体からの臓器移植には倫理上の問題はないのかといった議論がありました。それらの議論は今も続いていて、一定の社会的な合意が得られたとは決して言えません。そういうこともあって日本では、法の成立後も脳死体からの移植はほとんど進みませんでした。しかし2009年に臓器移植法が改定され、翌10年に完全施行されると、状況は大きく変わって移植件数が増えました。具体的に言いますと、旧法が施行された97年10月から改定法完全施行の10年7月までの12年10か月の間に行われた脳死下臓器移植は76件でしたが、施行後の10年8月から15年12月の5年5か月で276件になっています。月あたりの件数で見ると改定前の0・5件が改定後には4・2件となっていて、ほぼ8倍に増えています(以上は日本臓器移植ネットワークが公開しているデータから私が計算したもので、必ずしも正確とは言えません)。
 欧米の移植先進国に比べるとそれでもとても少ないですが、09年の改定による効果は大きかったと言えます。改定されたのは、本人の拒否がない限り家族の承諾のみで移植が可能になったこと、15歳以上という年齢制限が撤廃されたこと、親族への優先提供が認められたこと、死の定義が変更されたことの4点ですが、中でも家族承諾のみで移植が可能になったことが大きかったようです。私の手元にある最新のデータは15年5月25日に産経ニュース(Web版)に掲載されたものですが、それによると、改定法施行から12年11月の間に脳死判定された113件のうち、家族承諾のみが91件で81%を占めています。移植の推進をめざす人たちにとって、本人の意思が不明でも家族承諾のみで移植ができるようになることは悲願だったと言われていますが、まさに現実はその思惑通りに進んだようです。  つづく