変言字在43−始まりと終わりの話 (7)

『むすぶ 541』(2016年4月発行)より

脳死下臓器移植と「脳中心主義」

 前回、日本で臓器移植法の成立が遅れたのには1968年の和田心臓移植事件が影響したこと、97年の臓器移植法の施行後も移植数は伸びなかったが09年に法が改定され家族の同意のみで認められるようになってから8倍程度に増えたことを紹介しました。しかし、それでも欧米のいわゆる移植先進国に比べると、はるかに移植数が少ないことに変わりはありません。例えば09年に世界で行われた心臓移植の数を見ると、人口100万人あたり、オーストラリア8・6、米国7・3、ベルギー6・1に対して、日本はわずか0・05に過ぎません(法の改定後は0・32)。欧米だけでなく、韓国の1・3、台湾の3・7などアジアの他の国や地域に比べても移植数の少なさが目立ちます。

 日本の医療技術は世界でもトップレベルですから、そこに脳死下臓器移植が普及しない理由があるとは思えません。ではどうしてなのでしょう。その理由として、前回指摘した和田移植の影響の他に、死生観や宗教観の違いをあげる人がいます。例えば仏教に「身心一如」、体と心は一つのものの両面であり切り離すことはできないという考え方があります。これは、近代哲学の父と言われるデカルトの心身二元論と真っ向から対立する考え方です。二元論では身体はあくまで機械的運動を行うモノであり、自由な意思である心と区別されます。単なるモノですから、人工心臓や人工呼吸器と同様、他者の生命の維持に役立つのであれば喜んで提供されるべきだということになります。

 さらに、儒教の「親子の愛」に対するキリスト教の「無償の愛」という単純な図式をもとに、日本での移植数の少なさを考える人もいます。儒教の国の家族中心主義が、必要であれば誰であっても臓器を提供するという移植本来の目的にそぐわないというわけです。そう考えた人たちが、日本の移植法を改定する時に、親族への優先提供を認める項目を追加しました(そんな項目があるのは日本だけです)。日本の移植推進派の人たちの集まりで、ある医師が「日本人は利己的だから移植がなかなか普及しない」という主旨の発言をするのを聞いたことがありますが、これも家族中心主義に対する批判と見ることができます。でも、私はこうした見方には疑問を持っています。現代日本では儒教の影響はほとんどないと言っていいでしょうし、日本人がとりわけ利己的だとも思えません。それにキリスト者が常に「無償の愛」という考え方を実践しているのかどうか、歴史を振り返ればとてもあやしい。

 私は、心身二元論と、そこからさらに進んだ「脳中心主義」の考え方が、脳死下臓器移植に大きな影響を与えていると思っています。例えば日本の脳死臨調最終報告(92年)は次のように脳死を定義しています。

 「意識・感覚等、脳のもつ固有の機能とともに脳による身体各部に対する統合機能が不可逆的に失われた場合、人はもはや個体としての統一性を失い、人工呼吸器を付けていても多くの場合数日のうちに心停止に至る。これが、脳死であり、たとえその時個々の臓器・器官がばらばらに若干の機能を残していたとしても、もはや『人の生』とは言えない」。

  脳が身体全体を統御している、脳死になればすぐに心停止に至る、そして脳死状態は「人として」生きているとは言えないというわけです。これは一種のドグマだと私は考えています。と言うのも、脳(神経系)だけが身体を統御しているかどうかについては専門家の間でも議論があるし、子どもたちの、時には十年以上に及ぶ「長期脳死」の例がたくさん報告されているからです。そして「人の生」とは何かというのはまさに哲学的、思想的な問いであり、私たちの世界観や人間観が問われているのです。

  日本で脳死下臓器移植がなかなか普及しない最大の理由は利己主義などではなく、この「脳中心主義」というドグマに対する違和感ではないかと私は思っています。いわば西欧的価値観(の押し付け)に対する異議申し立てであり、それは人間として当たり前のとても健康的な反応ではないでしょうか。

 脳死を人の死とするかどうかは、以上見ただけでもとても難しい問題だというのが分かります。これまでは三徴候死、つまり心臓と肺と脳がすべて機能を停止することを死と呼びました。それも一つの決まりに過ぎませんが、体から温もりや血色が失われ硬直が始まると、誰もがそれを、それまでの身体とは別のものだと理解しました。脳死は、しかしそうではありません。私たちは、脳の構造と機能を十全に解明できたわけではないし、ましてや脳の機能停止と死との関係もよく解っていません。解っているのは、新鮮な臓器を必要とする人たちの都合によって生死のラインが時間的に前へとずらされ、身体が全く別のものへ移行する前に、それが「別のもの=死体」だと宣告されるということです。そしてもう一つ解っているのは、脳死をめぐる議論において、ドナー(臓器提供者)が何も語らないのに対して、レシピエント(臓器受容者)やその家族や医療従事者が語りのほとんどを占めているという事実です。この情報落差は、議論の帰趨を制する上でとても大きいと思います。

脳死判定の実際

 ここで、脳死問題を少し具体的に見ていきたいと思います。私は脳死を人の死と認めないのですが、その最大の理由は、以上の議論以前に、脳死と判定されても実は生きている可能性があるのではないかと疑っているからです。脳死者は意識はもちろん、すべての感覚を失っていると言われています。そしてそれは脳死判定によって確かめられます。では、それは実際にどのように行われるのでしょうか。

 厚生労働省が10年にまとめた「法的脳死判定マニュアル」によれば、判定では深昏睡、瞳孔固定、脳幹反射の消失、平坦脳波、自発呼吸の喪失の5項目を確認することになっています。そして6時間(6才未満は24時間)の間をおいて2度、すべての条件が満たされればその時点で脳死が宣告されます。

 では、具体的にどのような確認方法がとられているのかを見てみます。深昏睡については、マニュアルには「以下のいずれかの方法で疼痛刺激を顔面に加える」として、安全ピンを顔面に刺したり眼窩部を指で強く圧迫し、顔をしかめるかどうかで判定する方法が記されています。脳幹反射の有無については、対光反射、角膜反射、前庭(内耳の平衡感覚をつかさどる部分)反射などを確認することになっています。前庭反射の有無は、50mlの氷水を左右の耳の中に片方ずつ注入し、眼球が注入した側に動くかどうかを見て判定します。つまりいずれの場合も、一定の刺激を加えた時に体がどのような反応をするかを人間の眼で見るわけです。ということは、判定作業を行う部屋の環境や判定者の主観が影響を及ぼす可能性を否定できないと思います。

 さらに問題なのは自発呼吸が喪失しているかどうかを判定する無呼吸テストです。体内の炭酸ガス濃度を上げて、脳幹の呼吸中枢がそれに反応して呼吸を促進するかどうかを見るわけです。しかし、血中の炭酸ガス濃度が上がれば不整脈や血圧の低下が生じて脳にダメージを与える可能性があります。つまり判定手段そのものが判定を左右するというわけです。