変言字在44−始まりと終わりの話 (8)

『むすぶ 543』(2016年6月発行)より

優生思想の現在

 前回、日本でなかなか脳死下臓器移植が受け入れられない背景には、自立した理性的な個人でなければ人ではない(生きているとはいえない)という近代西欧の価値観に対する異議申し立てがあるのではないかと書きました。この西欧的な価値観は、以前本欄でも紹介したことがありますが、生命倫理学では「パーソン論」と呼ばれていて、研究者の間では広く受け入れられている考え方のようです。

 例えばその代表的な論客であるピーター・シンガーは『実践の倫理・第2版』(1993年)で、次のように生物(存在者)を3つに分類しています。@感覚を持たない存在者は殺害しても問題はない、A感覚のみを持つ存在者は功利主義に基づく(全体の利益が減らない場合は苦痛を最小限に抑えるなら殺害しても問題はない)、B感覚に加えて自己意識と理性を持つ存在者(パーソン)は、自己意識を持った固有の生を持っていて他の者で代替えできないため殺害してはならない。以上の分類にもとづいて、彼は胎児や新生児、重度の知的障害者などの殺害を正当化し、その一方でゴリラやオランウータン、チンパンジーなどの殺害は「種差別」であり禁じられるべきだという「動物解放論」を唱えます。

 私が人間の生の「始まりと終わりの話」をする時にとてもこだっているのが、この「パーソン論」に象徴される人間観です。先にこの考え方は「研究者の間では広く受け入れられている」と書きましたが、もちろん研究者に限られるわけではありません。と言うより、広く一般的に受け入れられている価値観に学者が新しい理屈付けをしたと見る方がいいでしょう。そういう意味で「パーソン論」は、これまで深く人びとに浸透してきた優生思想の現代的な表現だと言うことができます。医療技術のめざましい進展によって遺伝子操作や出生前診断、臓器移植や安楽死といった問題が一挙に吹き出し、そこに超高齢化社会の問題が覆いかぶさってきたこともあって、これまで以上に優生思想にフォーカスを当てる必要が出てきたのではないかと私は考えています。ちょっと大仰な言い方を許してもらうなら、私たちは今、多様性をもとにした共生社会か、あるいは能力主義をもとにした競争社会か、そのどちらを選ぶのかという岐路に立たされているのではないでしょうか。

 もっとも優生思想の歴史は人類の歴史そのものです。その起源は、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と地のすべての這うものとを治めさせよう」と神が語ったと記した旧約聖書の創世記までさかのぼることができます。人は神によって、他の生物を治めるという特別な地位を与えられました。そしてその地位を担保するのが理性です。ずっと時代を下れば、デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と精神の独立を宣言して以来、科学文明の近代を支えてきた考え方でもあります。それほど人間にとって本源的で頑丈な思想ですから、私のようにヤワな凡夫が太刀打ちできるはずがありません。でも、日本脳性マヒ者協会青い芝の会をはじめとして、私が出会った多くの障害者たちから教えられたのは、この思想こそが障害者差別を支えているということでした。だから私は「雨だれも石をうがつ」を座右の銘にして、優生思想や「パーソン論」にしつこくこだわり続けているわけです。

 死体に生命維持装置?

 さて、少し寄り道をしましたが、脳死下臓器移植の問題、特に前回の続きとして脳死は本当に人の死なのかということを考えたいと思います。前回は脳死判定が実際どのように行われているのかを、厚生労働省が10年にまとめた「法的脳死判定マニュアル」に沿って紹介しました。判定では深昏睡、瞳孔固定、脳幹反射の消失、平坦脳波、自発呼吸の喪失の5項目を見るんですが、前の3項目は、ある刺激を与えて身体がどんな反応をするのかを観察するというものです。そこではどうしても、判定作業を行う部屋の環境や判定者の主観が影響する可能性を排除できないと記しました。さらに最後の無呼吸テストは、テストそのものが脳にダメージを与えるのではないかという疑問があることも紹介しました。

 4つ目の平坦脳波については前回触れることができませんでしたが、科学的で客観的な判定に見えるこの検査にも問題があります。それはこの測定があくまで頭皮まで届いた脳波を探知するだけで、脳の活動そのものを測定するわけではないということです。つまり、頭皮では脳波が平坦だったとしても、そこに到達していない頭蓋内や脳深部の活動まで否定することはできないのです。さらに脳波計も含めて室内にいくつも存在する電気装置が発するノイズを計算に入れて平坦かどうかを判断するのですから、かなり高度でち密な(言い換えればミスを犯しやすい)作業と言うことができます。

 以上、前回から引き続いて簡単に脳死判定そのものの問題を見てきました。脳死判定では脳への血流が停止したかどうかを見ればいいと立花隆さんが『脳死』(86年中央公論社)で主張したこともあります。確かに血流が止まれば活動が完全に停止したと言っていいでしょう。でも、脳血流の停止はほぼ心停止に等しいので、それを判定項目に入れることはできません。そこで、紹介したような微妙で複雑な判定が要求されるわけです。ではここから、現在の判定マニュアルによって脳死と判定されたとして、それは本当に人の死と言えるのかどうかということを、いくつかの具体的な事例を通して見ていきたいと思います。

 まず脳死判定後の出産例です。AFP通信は131114日、「脳死判定から3か月、ハンガリー人女性が男児出産」という記事を配信しました。妊娠15週目に脳出血で倒れ脳死と判定された母親が、妊娠27週目に帝王切開で男の子を出産し、その子は「すくすくと育っている」というのです。その母親からは、出産後すぐに臓器が摘出されています。日本でも同様の事例が14年に熊本大学の医師から報告されています。妊娠20週で脳死状態になった女性が33週で経腟分娩し、出産後に無呼吸試験が実施されたということです(守田憲二さんのHP「死体からの臓器摘出に麻酔?」)。アメリカのテキサス州では13年、脳死判定された妊婦の生命維持装置をはずすかどうかで訴訟になったこともあります(14年1月29日朝日新聞デジタル)。脳死の女性の体内で胎児が順調に育っていたため、生命維持装置をはずせば胎児が死亡することが明らかだったからです。お気づきだと思いますが、脳死が死だとしたら、まさに死体に「生命」維持装置が取り付けられていたわけです。

 こうした出産事例は何を物語っているでしょう。前回私は、脳死臨調最終報告(92年)による脳死の定義を紹介しました。そこでは、脳死になったら「人はもはや個体としての統一性を失い、人工呼吸器を付けていても多くの場合数日のうちに心停止に至る」とされました。しかし脳死後も妊娠が継続でき、出産もできるということは、実は脳死と判定されても「個体としての統一性を失」っているのではないということを示しているのではないでしょうか。